「キリストにある自由」

キリストにある自由

日付
説教
ステファン・ファン・デア・ヴァット
1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
1:2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。
1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。ガラテヤの信徒への手紙 1章1~7節

 今日は、パウロが書きましたガラテヤの信徒への手紙 1章の冒頭部分から、「自由」ということについて、一緒に御言葉の理解を深めたいと思います。

 さて、「自由」という言葉を聞きますと、最初に思い浮かんでくるイメージや気持ちは何でしょうか。リラックス、気楽、のんびりでしょうか。それとも、何かから解放されたことや、政治的や宗教的な自由でしょうか。

 ある人は、自分は自由とされた人生を送っているんだ、と思っていますが、実はそうではありません。突然ある大きな喪失や挑戦にさらされたら、苦悩と暗闇におちいることとなります。このような現実の光のもとで、私たちの本来の自由の探求は、人間の考えや行動から始めることはできません。むしろ、本当の自由は、神様から始まるのです。神様のお働きを通してのみ、人は自由にされる、と聖書は教えています。

 ですから、パウロのガラテヤの信徒への手紙 1章の自由に関する話しが、このように始まるのは驚くことではないのです。彼ははっきり言います。「神様は全てを主導してくださいます」と。

 従って、パウロはこの手紙を違う書き方で始めます。通常、例えばローマとかコリントとかコロサイ書などの場合、まず祈りや祝福や感謝の言葉から始まっています。しかし、この手紙では厳しい表現から始まります。なぜでしょうか。パウロはガラテヤの人たちに対してなんらかのがっかりした気持ちがあったからです。彼らは色々な空しいことを語る悪徳なリーダーたちの指導に従ってしまったのです。7節に記されている通りです。「ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」と。

 この人々がだれであるかは、私たちには、はっきり分りませんが、もしかしたら、厳格なユダヤ系のクリスチャンと思われます。彼らは異邦人のクリスチャンに対して、完成したクリスチャン身分を得るために、様々な厳しい律法主義的な義務を強制しました。このガラテヤの信徒への手紙に出てくる扇動者はおそらく、使徒言行録15章に記されている、エルサレム教会のいわゆる「割礼団」と関係していると思われます。

 使徒言行録 15章1と24節をお読みします。「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」(1節)。そして24節「『聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。』」

 言い換えると、ガラテヤ書に出てくる扇動者は、福音をこのように宣伝します。「どうぞ、イエス・キリストに信じなさい。だけど、割礼もしないといけない、モーセの律法を完全に守らないといけない、この祭りも、あの祭りも守らないといけない。あれをしなさい、これをしなさい。」
 それゆえ、パウロは、6節と7節にこのように書きます。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく」と、断言的に強く述べています。

 イエス・キリストを信じること プラスα=ほかの福音。このような疑似の福音では、神様へ導かれません。キリストにある本来の自由を提供することができません。違います。本当の自由のストーリーは、いつも神様から始まると、パウロは言います。神はあくまで自由というものの主体、人間はいつもその対象となります。もし、私たちが自分の人生を自由に送れば、それは神様の恵み深い御業のおかげであり、自分の努力や気力や知能や幸運によるのではないのです。お金や知力や羽振りのいい友人は、本当の自由を与えてくれません。

 ガラテヤの信徒への手紙の最初のところで、パウロは三つの単純な、けれども、大事な言葉を使います。この三つの表現は、神様は私たちを自由にさせ、我々はそれをいただくことしかできないと示してくれます。

 ①(1節)イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ。
 ②(1節)キリストを死者の中から復活させた父である神。
 ③(4節)キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

 何度もパウロは繰り返します。毎回受身形で。つまり、 パウロは、人間はいつも自ら選ぶ前に、自分のために何かをいただきます。我々が反応できる前に、何かの御業がすでにあります。人生はいわば、行き当たりばったり、自動的に行わないということです。それどころか、むしろ私たちの全生涯は提供され、備えられています。神様の摂理によって。そうです。我々の人生の根本的な自由は、神様のイニシアティブによる備えの結果なのです。

 もう少し具体的にこれについて考えてみましょう。私たちは生まれる時から自由でしょうか。赤ちゃんは生まれる時、初めてそのお母さんの温かい、安全な母胎から離れますね。そして通常であれば、すぐそのお母さんの愛の溢れる保護の腕で抱きしめられています。ですから、赤ちゃんは完全に自由に生まれていません。私たちはだれでも、守られ、気配りされているネットワークに生まれてきました。なぜなら、我々は最初から完全に保護者に依存していました。もし、全く自由に生まれてきたのであれば、確かに数日後で飢えや寒さで死亡したでしょう。

 赤ちゃんは安らかに、伸びやかな状態で生まれます。なぜならば、だれかが生まれた瞬間から、その赤ちゃんの面倒をずっと見るからです。私たち皆の人生は色々な境界線と限界で守られています。それは最初から良いことです。けれども、それは自由ではないのです。子供の頃を思い出せば、その時、自由ではなく、実はその時の安全さを懐かしく思うでしょう。その所属感の思い出は、私たちの心を温めるでしょう。

 しかし、私たちは、自由に生まれずに、自由を得るために生まれてきました。信仰の歩みを通して自由になるために生まれてきた、と言えるでしょう。今なお、あらゆる物事は我々の限界となって、我々を依存する存在に縛り付けます。ある人は、赤ちゃんが母乳にくっ付いているように、アルコールや薬物やパチンコにくっ付いてしまいます。ある人は、その配偶者に過剰依存します。ある人は、友人の拒絶や先輩の批判を恐れています。
皆さん、どうでしょうか。何かの物事はあなたの限界となり、あなたをなんらかの形の依存する存在に縛り付けられるでしょうか。

 自分自身の生活の中で、このような依存は大きな鉄の鎖のように私たちの足を縛って、全人生に重荷を与えてしまいます。これらの足手まといから解放されるのに、時間と努力が必要です。これらから離れて自由になるために、あらゆる犠牲を払う必要もあります。

 ガラテヤの信徒への手紙に戻ります。ガラテヤにいるクリスチャンたちは、おそらくまだ若い信仰共同体でした。一生懸命何が正しいか正しくないかを分別しようとしていました。どのようにすればいいでしょうか。彼らは神様の御言葉に目を向けました。確かにこのような聖句にも出会いました。

 申命記4章5−6 節
 見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。

 そして、ガラテヤのクリスチャンも、律法をくださったことに対して神を賛美する、というような詩編をもたくさん見つけたでしょう。律法に定義されている、正義と憐れみに溢れた生きざまという、預言者が神の民に命じている箇所も見つけたでしょう。ガラテヤの先輩の信徒たちは、イエスを神の子と呼びました。ですから、彼らは、イエスに従う人生とは=自分の生活を神様の律法に従っていくことだ、と見なしたでしょう。

 けれども、もう一人の先輩である使徒パウロは、このことがらについて聞くと、がっかりし、また憤慨しました。
 2章 21節
 「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
 3章 1節
 「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」

 パウロは、なぜこのように真剣に怒ったのでしょうか。かれはキリストにある自由は安直なものではない、と確信していたからだと思います。
 1章3−5節「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」

 この節の中心はなんでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙は、全体として何を言っているのでしょうか。何が本当の自由を生み出しますか。やはり、イエス・キリストの十字架と復活です。神様は、私たちをこの罪だらけの世界から自由とし、救うために、ご自分の御子をお与えになりました。もし私が罪に巻き込まれて、神様に背を向けているなら、その時、イエス・キリストの恵みと平安を無駄にしてしまいます。

 今、そのような罪、つまりキリストにある自由とその平安や恵みをはぎ取ろうとしている罪に、あなたは気付きますでしょうか。
 パウロは、キリストの犠牲を通しての神様の御心は、ここにあると言います。すなわち、この悪の世からわたしたちを救い出すということです。これは、我々はこの世から切り離されることを意味していません。しかし、悪の世の圧倒的な力から救われることを意味しているのです。

 パウロは、この素晴らしい恵みについて、黙ることができませんでした。彼が使いました三つの表現、「使徒とされた」、「復活させた」、「救い出した」は、この唯一の自由を宣べ伝えます。

 かつて、クリスチャンになる前、パウロは他の信徒たちを迫害して、殺してしまいました。けれども、今、彼は救われ、使徒になるために自由にされました。救いを与える福音を宣べ伝えるためでした。これはパウロの新しいアイデンティティーとなりました。コリントの信徒への手紙二5章 17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 これは、神様の率先的な御業のおかげであり、決して自分の努力や気力や知能や幸運によるのではなかったのです。お金や知力や羽振りのいい友人から与えてもらいませんでした。神様からいただいたアイデンティティーでした。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ。」(1節)

 愛する兄弟姉妹の皆さん、我々の自由の源もここにあります。自分の自由や祝福を買うことはできません。良い行動や素晴らしい奉仕を通して、獲得することもできないのです。改めてこの真実に立ちましょう。

 もう一度、この視点から、共にいる同僚・家族・周りにいる人々を見るようにしましょう。
 アーメン。

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