よいサマリア人のたとえ 2020年2月23日(日曜 朝の礼拝)

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よいサマリア人のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章25節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカによる福音書 10章25節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、S姉妹の執事任職・就職式を執り行いました。「執事の任務」については、『教会規定』の政治規準第58条に記されています。その第4項に、次のように記されています。「個々のキリスト信者が愛の律法によって果たすべき一切の義務を、特に執事として果たすこと」。このことを念頭において、今朝は、『ルカによる福音書』の第10章25節から37節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1 ある律法の専門家の質問

 25節から28節までをお読みします。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

 ここには、ある律法の専門家とイエスさまの問答が記されています。ある律法の専門家が、イエスさまを試そうとしてこう尋ねました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。「永遠の命」とは、「神さまとの永遠の交わりに生きる」ことで、「神の国に入る」ことと同じ意味です。この人は律法の専門家ですから、自分なりの答えを持っているわけですね。この人は、イエスさまに教えてもらいたいという気持ちからではなく、イエスさまが、どのように答えるかを試しているわけです。そのような律法の専門家に、イエスさまは逆に問われます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。すると律法の専門家はこう答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。ここで、律法の専門家は、旧約聖書の『申命記』第6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、『レビ記』第19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を引用しています。ここで、律法の専門家が言っていることは、『マルコによる福音書』では、イエスさまが「最も重要な掟」として教えられたことです(マルコ12:29~31参照)。それゆえ、イエスさまは、こう言われます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。ここで、イエスさまが言われていることも、律法に記されていることです。『レビ記』の第18章5節にこう記されています。「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」。おそらく、律法の専門家もこの御言葉を知っていたはずです。「神さまの掟と法を守り、行うならば、命を得ることができる」。そのことを信じて、彼らは神さまの掟と法を守り、行っていたのです。しかし、この人は、隣人を自分のように愛することができないと感じていたのでしょう。と言いますのも、この人は、自分を正当化しようとして、こう言うからです。「では、わたしの隣人とはだれですか」。この質問に対して、イエスさまは、ひとつの譬えをお語りになるのです。

2 よいサマリア人のたとえ

 30節から35節までをお読みします。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

 エルサレムからエリコへ下って行く途中で、追いはぎに襲われた人は、ユダヤ人であったのでしょう。追いはぎに襲われた人は、服をはぎ取られ、殴りつけられて、瀕死の状態で倒れていました。そこに、ある祭司がたまたまその道を下ってきました。祭司は律法を教える者であり、神さまに仕える者ですから、助けてくれてもよさそうですが、その人を見ると、道の向こう側を通り過ぎてしまいました。次に、レビ人がやって来ました。レビ人は、神殿に仕える者ですから、助けてくれてもよさそうですが、その人を見ると、道の向こう側を通り過ぎて行きました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って手当をし、ろばに乗せて、宿屋に連れて行き介抱したのです。当時、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑しておりました。ところが、ユダヤ人たちが軽蔑しているサマリア人が、瀕死の重傷で倒れていたユダヤ人を憐れに思い、介抱したのです。このサマリア人の介抱ぶりは至れり尽くせりでありますね。翌日、彼は宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚(二日分の日給)を渡して、介抱を願い、さらなる費用の負担を約束するのです。

3 だれが隣人になったと思うか

 36節と37節をお読みします。

 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 律法の専門家は、イエスさまに、「わたしの隣人とはだれですか」と問いました(29節)。ここでイエスさまは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われます。律法の専門家の問いは、自分を中心にした問いでありますね。しかし、イエスさまは、助けを必要としている他人を中心にして隣人になったのは誰かと問われるのです。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えます。ここは元の言葉を直訳すると、「彼に対して憐れみを行った人です」となります(口語訳「その人に慈悲深い行いをした人です」参照)。「隣人になる」とは、「助けを必要としている人に対して憐れみの業を行う」ことであるのです。ここで、律法の専門家が「サマリア人です」と答えていないことに注意したいと思います。律法の専門家は、「旅をしていたあるサマリア人です」とは答えませんでした。なぜなら、当時、ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあったからです(ヨハネ4:9「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」参照)。また、律法の専門家の考えでは、律法が命じている「隣人」の中に、サマリア人は含まれていなかったと思います。律法はイスラエルの民に与えられたものであり、隣人とは同胞のユダヤ人に限られていると律法の専門家は考えたのです。ですから、「わたしの隣人とはだれですか」という彼の問いは、契約の民であるユダヤ人であることを前提とした問いであったのです。けれども、イエスさまは、譬え話の中に、サマリア人を登場させるわけですね。そして、サマリア人が倒れているユダヤ人を介抱したと言われるのです。ここでイエスさまが教えておられることは、神さまが命じておられる隣人愛は、民族の違いによって妨げられるものではないということです。そもそも、このサマリア人は、瀕死の状態で倒れている人が、ユダヤ人か、サマリア人か、など考えなかったと思います。彼は、ただ倒れた人を見たとき、憐れに思って、その憐れみに突き動かされただけです。33節の「憐れに思い」と訳されている言葉(スプラングニゾマイ)は、「はらわたが千切れる思い」と訳すことができます。このサマリア人が倒れている人を見たとき、彼のはらわたは千切れたのです。それは、彼が自分と倒れている人を同じように見たからです。このサマリア人が、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に生きる者であったからです。それに対して、祭司やレビ人は、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は知っていても、その掟に生きてはいませんでした。祭司やレビ人は、倒れている人を見ても、憐れに思いませんでした。彼らは、自分中心の思い、自己愛から外に出ることは出来なかったのです。自分でなくて良かったと思い、倒れている人に自分を見出すことができなかったのです。そして、このような祭司やレビ人の姿を通して、イエスさまは、私たち人間の愛がどれほど貧しいものであるかを教えておられるのです。

結 あなたも同じようにしなさい

 イエスさまは、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。「あなたも同じようにしなさい」とは、「あなたも同じように行いなさい」ということです。「あるサマリア人が追いはぎに襲われた人に憐れみの業を行ったように、あなたも助けを必要としている人に分け隔てなく、憐れみの業を行いなさい」とイエスさまは言われたのです。ただ問題は、堕落したアダムの子孫である私たち人間に、同じように行うことができるか?ということです。もし、同じようにできる人がいるならば、その人は自分の行いによって、永遠の命を受け継ぐことができます。しかし、聖書は、堕落したアダムの子孫で、自分で掟を守って永遠の命を受け継いだ者はだれもいないと教えています。神さまの掟を完全に守って、永遠の命を受け継いだのは、最後のアダムであるイエスさまだけです。イエスさまだけが、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という掟を完全に守って、永遠の命を受け継がれたのです(神への愛と隣人への愛は、十字架の死によって完全に満たされた)。ですから、昔から、このサマリア人はイエスさまのことである解釈されてきました。33節の「憐れに思い」と訳される言葉(スプラングニゾマイ)は、イエスさまだけに用いられる言葉であることも、この解釈を支持しています。そうしますと、「よいサマリア人のたとえ」が教えていることは、第一に、堕落したアダムの子孫である人間は、だれも律法を行うことによって、永遠の命を受け継ぐことはできないということであるのです。そのことを踏まえて、私たちは、「よいサマリア人のたとえ」を隣人愛の教えとして聞き取りたいと思います。私たちが、「よいサマリア人のたとえ」を読むとき、おそらく、道端に倒れている人がいたら、自分ならどうするだろうかと考えながら読むと思います。自分を祭司やレビ人に、あるいはサマリア人に重ねて読まれると思います。しかし、私たちが自分を重ねるべきは、追いはぎに襲われて瀕死の状態で倒れている人であります。この倒れている人に自分を見出すときに、あるサマリア人がイエスさまであることがよく分かるのです。なぜなら、イエスさまは、私たちを深く憐れんで、助けてくださった御方であるからです。デナリオン銀貨二枚どころではなくて、御自分の命を贖いとして差し出してくださった御方であるからです(マルコ10:45参照)。自分が追いはぎに襲われた人であり、あるサマリア人がイエスさまであることが分かるとき、私たちは、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまの御言葉を、隣人愛の命令として聞き取ることができるのです。

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