イエスの嘆き 2005年5月08日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの嘆き

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章31節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。
13:33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
13:34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
ルカによる福音書 13章31節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書13章31節から35節より、「イエスの嘆き」という題でお話しをいたします。

 31節にこう記されています。ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

 このヘロデとは、洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねたヘロデ・アンティパスのことであります。ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレアの領主でありました。「ここを立ち去ってください」とありますから、イエス様はこの時、ヘロデの領土にいたと考えられます。洗礼者ヨハネを殺したヘロデがあなたを殺そうとしています。ですから、ヘロデの手の届かない所へお逃げください。そうファリサイ派の人々は告げたのです。

 それに対してイエス様はこう仰せになりました。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。

 ここで「わたしが言ったと伝えなさい」とありますから、このファリサイ派の人々は、どうやらヘロデの使いとしてここに来ていたようです。31節だけを読みますと、イエス様の身を案ずる善意からの言葉のようにも読むことができます。しかし、イエス様は彼らがヘロデから遣わされた者であり、ヘロデと同じ悪意を抱くものであることを見抜かれたのです。

 イエス様は、ヘロデを狐と呼びました。狐とは、ずる賢い人物を表す蔑称であります。ヘロデのずる賢さは、ファリサイ派の人々を通して、イエス様を脅し、自分の領土から追い出そうとしたことにありました。人の口を通して、しかも善意という仮面をかぶせてイエス様を脅す。ここに狐と呼ばれるヘロデのずる賢さがあるのです。

 32節のイエス様の言葉から察しますに、どうやらヘロデはイエス様が自分の領土で奇跡を行うことを嫌ったようであります。けれども、イエス様は、ヘロデの脅しに屈することなく、今日も明日も、悪霊を追い出し、病を癒し続けると仰せになるのです。また「三日目に全てを終える」とありますように、ヘロデの手によらなくとも、もうしばらくすれば、ご自分の働きが終わることを告げたのであります。イエス様はこれから、ヘロデの領土を出てエルサレムへと進まれます。しかし、それはヘロデを恐れて出て行くのではありません。イエス様がエルサレムへと進まれるのは、それが父なる神によって定められた道であるからです。神から遣わされた預言者としての自覚のゆえに、イエス様はエルサレムへと進まれるのです。そして、その預言者意識は、一預言者の意識を遥かに越えておられるのです。

 イエス様はエルサレムを憂い次のように仰せになります。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前を何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとしなかった。」

 ここで、イエス様は「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と仰せになっています。この言葉を聞きますと、これまでイエス様がエルサレムに出向いて何度もお話をされたのように読むことができます。しかし、ルカ福音書において、エルサレムへと向かうのはまだ先のことなのです。ある研究者は、このところから、イエス様がこれまでに何度もエルサレムへ行ったことを示唆していると申します。けれども、私はそうではないと思います。むしろ、ここでの「わたし」は、天地創造の前から永遠に存在しておられる子なる神としての「わたし」なのです。旧約の預言者たちに語るべき言葉を授けてきた、神の知恵としての「わたし」なのであります。イエス様はここで、預言者を遣わしてきた神ご自身としてお語りになっているのです。

 エルサレムとは、神がその名を置くために選ばれた都であります。そのエルサレムに神からの預言者が遣わされる。当然、そこでなされるべき事は、預言者の言葉に聞き従うということでありましょう。しかし、現実に神の都であるエルサレムがしてきたことは、神から遣わされた預言者たちを石で打ち殺すことであったのです。石打の刑は、神を冒涜する者に対しての処刑方法でもありました。神から遣わされた預言者を神を冒涜する者として殺してしまう。神が愛をもって、その御翼のもとに集めようとされるのに、エルサレムはそれを拒絶し続けるのです。

 イエス様は「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」と仰せになります。ここでの「お前たちの家」とは、おそらくエルサレム神殿のことであろうと思います。エルサレム神殿。それは神がイスラエルと共におられることの象徴であり、神が御臨在してくださる約束の場であります。けれども、イエス様は、神の家と呼ばれる神殿を「お前たちの家」と仰せになり、神から見捨てられると預言なされたのです。ここに、神の招きに応じようとしない者の末路があります。そして、それは預言者を殺し続けてきた彼らが望んだところの末路でもあるのです。続けてイエス様はこう仰せになります。「言っておくが、お前たちは『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、決してわたしを見ることがない。」。

 ここは、大変解釈難しいところであります。ある人は、この言葉をイエス様のエルサレム入城と結びつけて解釈します。しかしそれでは、イエス様がここで語られている内容が意味不明なものとなってしまいます。イエス様は、これからエルサレムへと向かわれるのですから、イエス様がエルサレムに入城するまで、私を見ることができないのは当然なことだからです。また、ルカ福音書の19章にある「エルサレムに迎えられる」という記事を読むと、実は「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と歓喜するのは、エルサレムの住民ではなくて、「弟子の群れ」なのです。19章の37節を見ますと、はっきりと「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と記されています。ですから、「お前たちが『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時」は、イエス様がエルサレムに入城される時のことではないのです。それでは、これはいつの時を指しているのでしょうか。新共同訳聖書では分かりづらいのですが、この『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うのは、他でもない「お前たち」なのです。つまり、預言者を殺し続けてきたエルサレムの人々が、その口で『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、決してわたしを見ることがない、とイエス様は仰せになっているのです。ですから、この所を素直に読むならば、この時とは、悔い改めの時と言えます。悔い改めて、イエス様を主から遣わされたメシアであると受け入れる時、エルサレムの人々は主イエスを通して神の御顔を仰ぐことができるのです。聖書によれば、エルサレムに象徴されるイスラエルの運命、その滅びというものは、イエス様を十字架につけることによって確定されるのではありません。イエス様が十字架に死に、復活されたことによって、罪の赦しを得させるための悔い改めがエルサレムから全世界へと宣べ伝えられるのです。命に至る悔い改めは他でもない、エルサレムから始まるのであります。

 今朝の御言葉を読みまして、私たちは一体どう思うでしょうか。預言者たちを殺し、神に背き続けてきたエルサレムの罪に呆れかえるのか。私は、ちゃんと自分の罪を悔い改めてイエス様を信じていると誇らしく思うのか。確かに私たちは今、自らの罪を悔い改め、主イエスを通して神の御顔を仰いでおります。けれども、それはイエス・キリストが私たちの罪のために死に、三日目に甦られたことによるのです。もし、イエス様が私たちの罪のために死んでくださらなければ、私たちはだれも自分の罪を認めることができなかったと思います。人は、イエス・キリストの復活によって、その赦しの確かさを確信することができて、そこではじめて神の御前に心からの悔い改めをすることができるのです。赦してくれるかどうか分からない相手に、誰が自分の罪を全面的に認めることができましょうか。罪を認めた途端、命を奪われてしまうとすれば、口が裂けても「私が悪かった」ということはできないのです。

 イエス様は、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と仰せになりました。神の御許に集まって来るとき、その人々の様子はどのようなものでありましょうか。私こそ神に選ばれた者だと胸を張って集まってくるのか。そうではありません。神の御許に集まってくる人は、悔い改め、心を低くして、しかし感謝と喜びに溢れて集まってくるのです。罰が怖くて、誰も自らの罪を悔い改めることができない。そうであるならば、この神の御翼のもとに誰も集まることができないではありませんか。だからこそ、神の御子は人となり死んでくださったのです。私たちが悔い改め、神の御許に集まるために、イエス・キリストは死んでくださったのであります。

 この福音書を記したルカは、今朝の御言葉を「ちょうどそのとき」という言葉で始めています。一体何が「ちょうどそのとき」なのでしょうか。イエス様は、自分たちこそが神の国を受け継ぐと考えていたイスラエルの人々に、あなたがたは神の国の外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして異邦人こそが神の国で宴会の席に着くと仰せになられました。そうイエス様が仰せになった、ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」とイエス様に告げたのです。つまり、ファリサイ派の人々は、イエス様のお話しを聴くのに耐えられなくなり、自分たちの土地から出て行ってほしいと願って、ヘロデのことを告げたのです。自分たちの所から出て行ってもらいたい。そこにイエス様に対する殺意がもうすでに秘められています。いわば、ここにエルサレムの罪が先取りされていると言えるのです。ルカは、ここで、預言者を殺す罪の根本にあるものが、神の言葉を殺す罪であることを教えているのです。神の言葉に耳を傾けず、神の招きを拒否する。そこに、預言者を殺す罪の根があるのです。そうであるならば、私たちは誰もエルサレムの罪と無関係であると言うことはできないと思います。これまで私たちがどれほど神の言葉に背き続けてきたか。神を認めることなく、空しい思いにとらわれて生きてきたことか。私たちは今朝、イエス様の嘆きを私たち自身への嘆きとして聴き取りたいと思います。そして、主イエスの名によって与えられた罪のゆるしに生き続けたいと願います。

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