主は与え、主は奪う 2014年8月03日(日曜 朝の礼拝)
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主は与え、主は奪う
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 1章1節~22節
聖書の言葉
1:1 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。
1:2 七人の息子と三人の娘を持ち、
1:3 羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
1:4 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。
1:5 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
1:6 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。
1:7 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
1:9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
1:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
1:11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
1:12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
1:13 ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。
1:14 -15ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:16 彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:17 彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:18 彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。
1:19 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
1:22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。ヨブ記 1章1節~22節
メッセージ
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今朝は、旧約聖書のヨブ記1章をお読みいたしました。聖書には、いろいろなジャンルの文書が収められていますが、ヨブ記は、知恵文学のジャンルにあたります。ヨブ記は聖霊なる神様の導きのもとに記された聖なる文学作品と言えるのです。しかし、ヨブという人物が実在しなかったかと言えば、そうではないようです。イスラエル人にとって、ヨブはよく知られていた義人、正しい人でありました(エゼキエル14:14、20参照)。ヨブ記がいつ頃、執筆されたのかについては議論のあるところですが、私としてはバビロン捕囚以降の紀元前6世紀頃であったと考えています。と言いますのも、神の僕ヨブの苦難は、神の僕イスラエルの苦難と重ねて読むことができるからです。ヨブ記は、バビロン捕囚以降の時代、教養豊かなユダヤ人が、よく知られていた義人ヨブの伝承を用いて記した書物であると言えるのです。
1節から5節までをお読みします。
ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。
ここには、試練に遭う前のヨブの生活ぶりが記されています。ヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きておりました。ヨブは七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、ラクダ三千頭、牛五百くびき、雌ロバ五百頭の財産があり、使用人も非常に多くおりました。ヨブは東の国一番の大いなる者であったのです。
また、その生活も華やかで楽しいものでありました。息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹を招いて食事をすることにしておりました。ヨブには七人の息子たちがおりましたから、七日間を一巡りとして、宴会をしておりました。そして、その一巡りごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげたのです。「『息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである」とありますように、このいけにえは罪を贖う献げ物であります。族長時代に、家長が祭司の役割を果たしたように、ここでヨブも祭司の役割を果たしているのです。
6節から12節までをお読みします。
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
ここでは、場面が、地上から天上の会議へと移っております。天上の会議には、神の使いだけではなく、サタンも来ました。サタンは、「告発者」という意味で、ここでは地上を巡回して、人間の罪を告発する者として描かれています(ゼカリヤ3:1も参照)。主は、御自分の僕ヨブについて、「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と評価されるのですが、しかし、サタンは、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」と疑問を呈します。サタンは主に対して、「ヨブが、あなたを敬うのは、あなたがヨブとその一族、全財産を守っているからであって、もし、あなたが御手を伸ばして彼の財産に触れるならば、面と向かってあなたを呪うにちがいない」と言うのです。つまり、サタンは、ヨブは自分の利益のために神を畏れているに過ぎない、ヨブの信仰は御利益信仰に過ぎないと言うのです。この言葉は、ヨブの主人である神様に対する挑戦でもありました。それで、主はサタンに、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われたのです。ここで、私たちが覚えておきたいことは、「サタンは主の赦しを得なければ何もできない」ということです。サタンは決して、神様と等しい力を持っている、対等な存在ではありません。サタンは堕落した天使でありまして、神様の御赦しの中で活動しているに過ぎないのです。このことは、私たちが悪しき者の誘惑に遭うときに、よく弁えておくべきことであります。サタンは神様の御赦しの中で活動しているに過ぎない。それゆえ、私たちはサタンの誘惑を、神様からの試練として受け止めることができるのです。神様は、サタンの誘惑を用いて、私たちを愛する我が子として鍛えられるのです(ヘブライ12:5~11参照)。
13節から22節までをお読みします。
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「ご報告いたします。わたしども、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは斬り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終わらないうちに、また一人が来て言った。「ご報告いたします。天からの神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終わらないうちに、また一人が来て言った。「ご報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは斬り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終わらないうちに、更にもう一人来て言った。「ご報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
ここで再び、場面が地上へと移っております。「ヨブの息子、娘が長兄の家で宴会を開いていた日のことである」とありますが、これは、ヨブが息子たちのためにいけにえをささげた次の日のことであります。サタンは、ヨブが最も痛手を受けるであろう日を選んで、ヨブの財産を自分の思うようにするのです。
ここで、ヨブは立て続けに、逃れて来た召使いから報告を受けております。ヨブは同じ日の、ほぼ同じ時間帯に、牛五百くびき、雌ろば五百頭をシェバ人によって略奪され、羊七千匹を天からの火である雷によって焼き殺され、らくだ三千頭をカルデア人に略奪され、さらには、七人の息子と三人の娘を大風によって失うことになったのです。私たちは、6節から12節に記されていた主とサタンとの天上でのやりとりを既に読んでいますから、これがサタンによるものであることを知っております。けれども、ヨブにとっては、突然の災難であったわけです。さて、ヨブはどうしたでしょうか?サタンが言ったように、面と向かって主を呪ったでしょうか?そうではありませんでした。ヨブは深い悲しみを表すために衣を裂き、死者への哀悼の意を表すために髪をそり落とし、ひれ伏すという服従の姿勢を取って、主を礼拝したのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。この言葉は、ヨブが子供であれ、家畜であれ、すべての財産は、主から恵みとして与えられたものであると考えていたことを表しています。ヨブは、子供であれ、家畜であれ、すべての財産が主に仕える自分が当然いただくことのできる報酬とは考えておりませんでした。ヨブは、すべてのものは主からの恵みであると考えていたのです。それゆえ、ヨブは主がそれを奪う自由をもお持ちであることを告白するのです。御自分の自由な意思によって与えられた主は、御自分の自由な意思によって奪われる主でもあられます。その主の御名を、ヨブはほめたたえたのです。
サタンは、主に、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」と言いましたが、ヨブは、すべての財産を失っても、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言うことによって、自分の利益ために神を敬うのではないことを証明しました。では、ヨブは、なぜ、神を敬うのでしょうか?その答えを知る手がかりが「主」という神様の御名前にあります。ヨブは、「主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」と、「主」の名を三度も口にしていますが、ヨブにとって、主は、天地万物を造られた全能者でありました。このことは、3章以下のヨブと三人の友人の議論を読むと分かります。例えば、12章7節から10節で、ヨブは次のように言っています。「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを」。また、6章14節で、ヨブはこう言っています。「絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ。さもないと/全能者への畏敬を失わせることになる」。このように、ヨブにとって、主は創造主であり、全能者であられるのです。ヨブは、神様が天地の造り主であり、自分はその神様によって塵から造られた人間であるという認識から、ひれ伏して、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言ったのです。神様はすべての造り主であり、人間は神様によって塵から造られた被造物であるということは、何を意味しているのか?それは、人間は神様を重んじる義務を負っているということです。神様によって造られ、生かされている人間は、神様に従い、礼拝する義務を負っているのです。それが、創造主である神様と被造物である人間の正しい関係であるのです。
ヨブ記は全部で42章に区分されていますが、38章以下に、神様がヨブに現れ、お語りになる場面が描かれています。そこで神様がヨブに語られたのは、神の創造と摂理の御業についてであります。なぜ、神様は、ヨブに創造と摂理の御業についてお語りになったのでしょうか?それは、神様が創造主であり、人間は被造物であるとの関係を、ヨブに弁えさせるためでありました。そして、ヨブはそのことを弁え、自分を退け、悔い改めるのです。そして、主は、そのようなヨブを以前にもまして祝福されたのです。
ヨブは、「天地の造り主、全能の神」を信じておりました。そして、私たちは、イエス・キリストにあって、そのお方を「私たちの父」として信じているのです。神様は、ヨブに、創造と摂理の御業について語ることにより、御自分について示されましたが、終わりの時代に生きる私たちには、イエス・キリストにおいて、御自分の御心をお示しになられます。そして、その御心とは、イエス・キリストにあって私たちを御自分の子供とし、私たちと共に生きることであるのです。神様と私たちの間には、創造主と被造物という関係だけではなく、イエス・キリストにあって、父と子という関係が恵みとして与えられております。それゆえ、私たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ聖霊に導かれて、どのようなときも父なる神様を崇めて歩んで行きたいと願います。