祝福するイエス 2006年7月24日(日曜 朝の礼拝)

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祝福するイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章50節~53節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。ルカによる福音書 24章50節~53節

原稿のアイコンメッセージ

 2003年10月5日から、ルカによる福音書の連続講解説教をして参りましたが、今朝はその最後の説教となります。2年10ヶ月にわたる歩みが支えられましたことを、主に感謝し、心から御名をほめたたえます。

 さて、今朝の御言葉には、復活されたイエス様が天に上がられる場面が描かれています。このところを読んで、多くの方が、「あれっ」と思うのではないでしょうか。といいますのは、この福音書の続編である使徒言行録によれば、イエス様が天に上げられるのは、復活してから40日経ってからであると記されているからです。ところが、ルカ福音書ですと、復活された日に、イエス様が天に上げられたかのように記されているのです。しかも、復活のイエス様が弟子たちの前に現れたのは、夜でありました。イエス様が夜更けに、弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行ったとは考えにくいことであります。今朝の御言葉を一読しましても、これは明らかに昼間の出来事であると思います。ですから、もうここでは日が改まっているようです。ルカは、イエス様の昇天については、第二巻の使徒言行録で詳しく描き、福音書では結末、エピローグとしてイエス様の昇天を記したと考えられるのです。そして、この結末は、まことに福音書にふさわしい喜びに満ちた結末であります。

 50節、51節をお読みいたします。

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

 ルカ福音書によるとイエス様が天に上げられたのはベタニアの辺りであります。使徒言行録を見ますと、イエス様の昇天は、「オリーブ畑」と呼ばれる山でありました。これは、食い違っているのではないかと思う人がいるかも知れません。しかし、ベタニアは、オリーブ山のふもとにありましたからおおよそ同じ場所であると言えます。ルカによる福音書の19章29節には、「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき」と記されています。

 イエス様は弟子たちをエルサレムからベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福されました。ここでの「手」は元の言葉を見ますと、複数形で記されています。つまり両手ということです。イエス様は、両手を上げて、弟子たちを祝福なされたのです。このイエス様のお姿は、祭司の姿を思い起こさせます。レビ記の9章を見ますと、「アロンによる献げ物の初執行」が記されております。レビ記の規定に従って聖別された祭司アロンが、これまたレビ記の規定に従ってはじめて献げ物をささげ、イスラエルの民と共に礼拝を献げたことが記されています。そして22節以下に、アロンが両手を上げて民を祝福したということが記されているのです。こう記されています。22節から24節。

 アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。

 また、民数記の6章22節以下には、こう記されています。

 主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼ら を祝福するであろう。

 このように、両手をあげてイスラエルの民を祝福するのは、祭司の務めでありました。祭司は、神と人との仲介をする者でありますから、祭司が神様に代わって、民を祝福したのです。ですから、イエス様が両手をあげて弟子たちを祝福されたその姿に、私たちは大祭司としてのイエス・キリストのお姿を見ることができるのです。ヘブライ人への手紙は、イエス様が永遠の大祭司となられたことを教えています。ヘブライ人への手紙の7章24節から25節。

 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになります。 

 イエス様が、祝福しながら彼らを離れ天に上げられたこと。それは、イエス様と弟子たちとの特別な別れを現しています。ちょうど、族長のヤコブが死を前にして息子たちを祝福したように。また、モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの民を祝福したように。イエス様は、天に上げられるにあたり、弟子たちを祝福したのです。

 イエス様が天に上げられること。これは、何も唐突なことではありません。ルカによる福音書9章51節を見ますと、こう記されています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」イエス様が決然としてエルサレムを目指されたのは、天に上げられる日々が満ちようとしていたからであったのです。イエス様は、十字架の死ばかりを見ていたのでははくて、その死から復活し、さらには天に上げられることを目指し、エルサレムへと進まれたのです。そして今や、イエス様は、救い主としての使命を果たされて、父なる神のもとへ帰っていくのです。

 ルカによる福音書24章52節、53節をお読みいたします。

 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 天に上げられたイエス様を、弟子たちは伏し拝みました。これは、ただひざまずいて敬意を表したということではなくて、「礼拝した」ということです。弟子たちがイエス様を礼拝したこと。それは、弟子たちが、復活されたイエス様、天に上げられたイエス様を主と認めたということです。弟子たちは、ユダヤ人であります。ユダヤ人は、唯一の真の神、主なる神のほかに礼拝を献げることはありません。十戒の第一戒で、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と厳しく命じられているように、ユダヤ人はただ主なる神だけを拝んだのです。使徒言行録の10章に、ペトロがコルネリウスの家で福音を告げる場面が描かれています。その10章25節、26節にこう記されています。 「ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏し拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」

 また、ヨハネの黙示録22章8節、9節にはこう記されています。

 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」

 これらのことから、人を礼拝すること、天使を礼拝することは赦されておらず、ただ神だけを礼拝することが求められていたことが分かるのです。

 主なる神のみを礼拝するユダヤ人である彼らが、イエス様を礼拝したということ。それは、イエス様が十字架と復活を通して主となられたことを教えています。弟子たちは、イエス様に心の目を開いていただき、旧約聖書からそのことを悟ることができたのです。そして、この確信は、ペンテコステのペトロの説教において、大胆に語られるのであります。使徒言行録の2章36節。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 弟子たちが、天に上げられたイエス様を伏し拝んだこと。ここに、キリスト教会の礼拝が始まったと言えるのです。

 弟子たちは、イエス様は伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムへと帰って行きました。弟子たちが大きな喜びに溢れたこと。これは、意外に思われるのではないでしょうか。イエス様とお別をしたのでありますから、悲しんでもよさそうなものであります。しかし、彼らは大きな喜びに溢れたと言うのです。弟子たちが大きな喜びに溢れた理由は何だったのか。いくつかの理由を考えることができますが、1つは、弟子たちは、イエス様が何をするために天へと上げられたかを知っていたということです。前回学びました49節で、イエス様はこう仰せになりました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエス様は、父が約束された聖霊を弟子たちに送るために天へ上げられたのです。そして、弟子たちはこのイエス様のお言葉に従って、大喜びでエルサレムへと帰って行ったのです。

 また、弟子たちの大きな喜びの源にあったもの。それはイエス様の祝福ではなかったかと思います。両手を上げて天へと上げられたイエス様のお姿は、イエス様が天においても自分たちを祝福してくださっていることを物語っています。そのイエス様の祝福を受けて、彼らは大きな喜びに溢れたのではないか。こう考えられるのです。

 また、弟子たちの大きな喜びの源にあったもの、それはイエス・キリストの復活の光の中で、旧約聖書を理解したからではないかと思います。旧約聖書に約束されていた救いを神はイエス・キリストによって実現してくださった。そのことを知った喜びではなかったかと思うのです。さらには、かつてイエス様から聞いたお言葉が、彼らの心に生き生きとよみがえってきたのではないかと思うのです。

 先日、私は改めてルカによる福音書を最初から読んでみました。そこには、様々な信じがたい事柄、また不可思議な教えと呼べるものが記されています。例えば、イエス様が様々な病を癒される。また悪霊を追い出される。目の見えない人を見えるようにする。死人までも生き返らせる。これらは、私たちの経験からすれば信じがたいことであると言えます。イエス様をまだ信じていない求道中の時に、聖書を読みまして、やはり本当かなぁと感じたものであります。しかし、今、自分は聖書に書いてあるように、イエス様が力ある業をなされたと信じることができる。これはとても不思議なことですね。なぜ、自分は信じることができるのか。それは何より、イエス・キリスト御自身が死から三日目に復活され、天へと昇られたと信じているからであります。イエス様が送ってくださった聖霊が、このわたしにも宿ってくださっているからです。イエス・キリストが復活なされた。このことから全てが始まっていくのだと思います。イエス・キリストが復活なされた。この光の中で、聖書を読むときに、イエス様がなされた力ある業を、信じ受け入れることができるのです。弟子たちは、イエス様の復活という光の中で、かつて自分たちが目の当たりにしたイエス様の力ある業を思い起こして、大きな喜びにあふれたのではないか、こう思うのです。

 またこのことは、イエス様の教えについても同じことが言えます。イエス様は、平地の説教において「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と言われました(6:20)。また、罪深い一人の女に「あなたの罪は赦された」と言い、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました(7:48、50)。さらに、弟子たちには、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うは、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」と仰せになりました(9:23、24)。これらのことは、もし、イエス様が死んで葬られたままであったならば、何と空しい言葉でありましょうか。けれども、事実、イエス・キリストは復活なされたのであります。イエス様の復活の光の中で、イエス様が語られたお言葉を読むとき、私たちはそれを正しく読むことができる。私たちはそれを生きて働く神の言葉として読むことができるのです。

 私たちは、聖書を自分のそばに置きまして、何度も何度も読み返すのでありますけども、このような書物は他にはないと思います。私自身においても、だいたいの本は一回読んだら終わりです。しかし、聖書は毎日のように何遍も読むわけです。なぜ、聖書を何遍も読むのか。それは、イエス様が今も生きて天におられる。そしてイエス様がやがて来てくださると信じているからであります。復活されたイエス様が聖書の御言葉を通して、今も私たちに語りかけてくださる。そう信じるがゆえに、私たちは聖書を新鮮な気持ちで何遍も読むことができるのであります。新しい言葉として聖書を読むことができるのです。

 弟子たちが、この時、私たちが手にしている聖書を持っていたわけではありません。しかしおそらく、弟子たちは、かつてイエス様から聞いた教えを、復活の光の中で想い巡らし、大きな喜に溢れたのではないかと思うのです。

 53節に「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあります。ここで「ほめたたえていた」と訳されている言葉は、50節、51節で「祝福した」と訳されている言葉と同じであります。ですから、この所を直訳すると弟子たちは「神を祝福していた」と訳すことができるのです。「神を祝福していた」これも良い訳であると思いますけども、しかし、「人が神を祝福していた」という違和感がありますので、「ほめたたえていた」と訳したのだと思います(ヘブライ7:7参照)。ここで教えられていることは、神の祝福、イエス・キリストの祝福をいただいた者は、神を祝福する者となるということであります。その祝福の交わりがイエス・キリストによって実現した。そして、その祝福は、やがて、あらゆる国の人々にもたらされるのであります。私たちは、礼拝において、神をほめたたえます。声を合わせて、讃美歌を歌い、神をほめたたえる。それは、イエス・キリストから与えられている祝福の応答であるのです。イエス・キリストを通して、神をほめたたえる。その源にありますものは、主イエス・キリストから賜る神の祝福であるのです。

 私たちは、主の日の礼拝ごとに、主が立てられた説教者を通して、イエス・キリストの祝福をいただいております。両手をあげて祝福する説教者を通して、天におられるイエス・キリストの祝福をいただいているのです。そして、主の祝福をたずさえて、それぞれの生活の場へと遣わされていくのであります。ですから私たちは、どのような時にあっても神をほめたたえることができるのです。主イエス・キリストの祝福が、私たちの全ての生活を覆っているがゆえに、私たちは絶えず神をほめたたえることができるのです。

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