キリストの証人 2006年7月16日(日曜 朝の礼拝)

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キリストの証人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章44節~49節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカによる福音書 24章44節~49節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、復活したイエス様が弟子たちの前に現れたお話しをいたしました。イエス様は、手と足、肉と骨のある、触ることのできる栄光の体をもってよみがえられたのです。イエス様の復活は、霊的な事柄ではなくて、肉体をもったよみがえりであったのです。そして、喜びのあまり信じられない弟子たちのために、イエス様は彼らの前で焼いた魚を食べられたのでありました。

 今朝の御言葉はその続きであります。44節をお読みいたします。

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 27節に、復活したイエス様がエマオへ向かう二人の弟子に、「モーセとすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」と記されておりました。モーセと預言者、これは旧約聖書をあらわす一つの術語であります。そこに、今朝の44節では、「詩編」という言葉が加わっています。ですから、ここではますます聖書全体という包括性が強調されていると言えます。また、ここで、わざわざ詩編と記したのには意味があると思います。ルカ福音書の続編であります使徒言行録を見ますと、ペトロの説教が記されています。そこで、ペトロは詩編の16篇を引用してイエス様の復活を告げ知らせています。また、イエス様が天に昇り、神の右の座にお着きになった。これも詩編の110篇の成就であるとペトロは語っております。ですから、イエス様の御生涯を理解する上で、詩編は大切な書物であったわけです。ですから、ルカは、ここでわざわざ詩編を加えたのではないかと考えられるのです。

 ここに、「まだ、あなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」とありますけども、これは、「復活する以前に一緒にいたころ」という意味です。今も一緒にいるわけでありますが、一緒にいるあり方が異なるわけであります。ですから、イエス様は復活する以前と以後を区別しているわけです。この「言っておいたこと」が一体何のことを言っているのか。これはおそらく、9章21節以降にたびたび予告されました「死と復活の予告」のことを指すと考えられます。イエス様は、ペトロの「神からのメシアです」という信仰告白を受け、このことを誰にも話さないように命じて、こう言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9:22)。

 ここで「必ず何々することになっている」と訳される言葉は、神の計画の必然を表す言葉であります。神様のご計画として、自分は多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に復活するのだ、とイエス様は弟子たちに語られたのです。

 18章31節以下になるともっとはっきり記されています。エリコを前にしてイエス様は12人を呼び寄せてこう言われました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」

 ここでは、はっきりと「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と記されています。

 もう一つだけあげますと、22章の37節であります。主の晩餐の席で、イエス様は、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と仰せになった後で次のように言われました。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしに関わることは実現するからである。」

 イエス様はイザヤ書53章のあの苦難の僕の預言は、自分についての預言であると言われました。そして、「わたしに関わることは実現する」と仰せになられたのです。

 このように、イエス様は十字架につけられる前から、また祭司長たちによって逮捕される前から、御自分の苦難と死、そして復活を弟子たちに予告してきたわけであります。それを自分に与えられた父から使命として受け止め、そこに従順に従ってきたわけです。ですから、復活されたイエス様は、「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」と仰せになられたのです。

 この所を瞑想しながら、私はイザヤ書のある御言葉を思い浮かべました。それは、イザヤ書の48章の御言葉であります。旧約聖書の1140頁。イザヤ書の48章3節から7節をお読みいたします。

 初めからのことをわたしは既に告げてきた。わたしの口から出た事をわたしは知らせた。突如、わたしは事を起こし、それは実現した。お前が頑固で、鉄の首筋をもち/青銅の額をもつことを知っているから/わたしはお前に昔から知らせ/事が起こる前に告げておいた。これらのことを起こしたのは、わたしの偶像だ/これを命じたのは、わたしの木像と鋳像だと/お前に言わせないためだ。お前の聞いていたこと、すべてのことを見よ。自分でもそれを告げうるではないか。これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたと/お前に言わせないためだ。

 ここで主なる神が昔から知らせ、事が起こる前に告げておいたこととは、キュロス王が立てられ、ペルシア帝国が築かれつつあること、それによってもたらされるバビロンからの解放のことであります。特に、バビロンからの解放は、新しいこと、隠されていたことと言われるほどに、神の秘められた計画でありました。しかし、それを事が起こる前に、主がイスラエルにお告げになるのは、そのことが初めからの神のご計画であることを知らせるためであったのです。後になって、イスラエルの民に、わたしはわたしの偶像によってバビロンから救い出されたと言わせないために。また、イスラエルの人々がわたしはそのことを知っていたと言わせないために、神様は予め事が起こる前に預言者イザヤを通して告げられたのです。その預言の言葉が語られた時、イスラエルの民がその言葉を到底信じることができなくとも、後になって、実際にバビロンから解放されたときに、主なる神が自分たちを贖ってくださったことを知るために、主なる神は予めイザヤを通して語られたのです。これと同じようなことが、イエス様の死と復活の予告にも言えるのではないかと思うのです。イエス様は、予め御自分の苦難と死、そして復活を予告して参りました。ルカ福音書を見ますと3度もそのことが予告されています。しかし、その言葉は弟子たちは理解することができなかったわけです。9章の45節を見ますと、「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」と記されています。しかし、それでも、イエス様が私は苦難から栄光に至る、そのようなメシアであると何度も語ってきたのは、それはやはり、そのことが起こった時に、イエス様が予め言っておられたことが実現したんだということが分かるためであったのです。つまりですね、イエス様はエルサレムで、王に君臨する予定であったけども、突如、捕らわれ、十字架につけられ、悲嘆の死を遂げたのではないということです。イエス様に望みをかけていた者は、おそらくそのように考えていたのでしょう。イエス様がエルサレムで王として君臨して、異邦人であるローマの支配を打ち破り、イスラエルを解放してくださる。そのような形で神の国を実現してくださる。そのように考えていた者たちは、イエス様の死を目の当たりして、失望し、暗い顔をせずにはおれなかったわけです。しかし、復活されたイエス様は、自分に起こったこと、これらは私がかねて言っておいたことであると仰せになるのです。そして、それは旧約聖書の預言が自分の上に実現したことによるのだ。その実現としてわたしは十字架に死に、復活し、今あなたがたの前に立っているのだと言われたのであります。人間の目には、イエス・キリストの歩みは、大きな挫折、大失敗と映ったことでありましょう。しかし、神様の目には、挫折どころではない大成功であったのです。神様の救いのご計画は、イエス・キリストにおいて実現したからであります。

 45節をお読みします。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」

 ここに「心の目を開いて」とありますが、これは元の言葉を直訳すると「理性を開いて」となります。主イエスは、弟子たちの理解力を開いてくださり、旧約聖書の中に、次のように書いてあることを分からせてくださったのです。旧約聖書に、直接、このような言葉に記されているわけではありません。この二重カッコに記されている、そのままの言葉が記されているわけではありません。むしろ、ここに書いてあることは、旧約聖書のエッセンスと言えます。例えるならば、旧約聖書という果物をぎゅうっと絞りまして、そこからぽたぽたと垂れる果汁のようなものであります。ここで、何よりも注目すべきは、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われていることです。ユダヤ人だけではなくて、すべての国民が神の救いの対象なのであります。苦しみを受け、死者の中から復活されたイエス・キリストの名は、すべての国民に罪の赦しをもたらすことができるのです。2章に出て参りましたシメオンは、幼子のイエス様を抱いて「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(2:31,32)と歌いましたけども、まさしくイエス様は、十字架の死と復活を通して、万民のための救いとなられたのです。そして、これは旧約聖書の約束の実現でもありました。主なる神は、イスラエル民族の源であるアブラハムをハランの地から召し出されたとき何と約束されたか。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束なされたのです(創12:3)。また、主なる神が、イスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出されたのは、彼らを「祭司の王国、聖なる国民」とするためでありました(出19:6)。イスラエルは神と全世界の民との交わりを仲介する祭司の王国として立てられたのでありました。また、イザヤ書49章、主の僕の第二の歌には、こう記されています。「わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」、こう預言されているのです(イザヤ49:6)。これらの預言の実現として、今朝のイエス様の御言葉が語られているのです。

 更にイエス様のお言葉は続きます。

 「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 ルカによる福音書は、復活の主イエスと弟子たちとの再会をエルサレムの出来事として描いています。マルコによる福音書やマタイによる福音書は、復活の主イエスと弟子たちが再会するのはガリラヤの地であります。しかし、ルカはエルサレムでの出来事として記しているのです。どちらが本当なのだろうかと戸惑うわけでありますけども、ここにはルカの神学的な意図が働いていると考えられます。あるいは、2つの異なった伝承があったのかも知れません。つまり、マルコとマタイは、ガリラヤの伝承を用いた。そして、ルカとヨハネはエルサレムの伝承を用いたと考えられるのです。しかし、そうであったとしても、ルカがエルサレムにこだわっていることは確かなことであります。これによってルカは、キリスト教と旧約宗教との連続性を主張しているのだと思います。つまり、キリスト教というものは、ナザレのイエスという男を開祖とする新興宗教ではなくて、旧約聖書を引き継ぐ有史以前からのものであるということであります。旧約宗教の実現こそが、キリスト教なのだ。こう言いたいのだと思います。そして、福音がエルサレムから始まることは、考えてみれば当然のことと言えます。なぜなら、まず神の救いに招かれるべきは、旧約の民であるイスラエルであったからです。神から遣わされたメシア、そのメシアを殺してしまったイスラエルこそが、悔い改めて罪の赦しにあずかるべきであったのです。そして、それを証しするのは、これまたイエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちであるのです。イエス様と共に歩み、イエス様の十字架の死と復活の事実を目撃した「あなたがた」が、これらのことの証人となるのです。この「これらのこと」、これは二重カッコに記されていることを指しております。ここには、大きく3つの事が記されています。1つ目は、メシアが苦しみを受けるということ。そして、2つ目は、メシアは死者の中から復活するということ。そして、3つ目は、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられることであります。この3つのことが、旧約聖書が予め預言してきたことであり、またイエス・キリストにおいて実現したことなのです。弟子たちは、このことを証する証人となると言われているわけです。ですから、ここでの証人は、ただ自分たちが見た事実を告げるということでは終わりません。イエス・キリストの十字架の死と復活とが、旧約聖書に照らし合わせて、どのような意味を持っているのか。そこまで告げ知らせることができなくてはならないわけです。ただ、イエス様が死んでよみがえった。だから、どうしたということではありませんで、その死と復活の意味を旧約聖書から説き明かし、それに基づく罪の赦しを告げ知らせなくてはならないかったわけであります。そして、それは高い所からの力に覆われて初めてできることなのです。

 イエス様は、「高い所からの力に覆われるまで、都にとどまっていなさい。」と命じられました。自分たちでがんばって伝道しなさいと突き放されたのではなくて、わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送るから、それを待ていなさいと言われたのです。このイエス様の言葉には、イエス様が天に昇られることが前提とされています。そして、使徒言行録を見ますと、五旬祭の日、弟子たちに聖霊が降ったということが記されているのです。ここに「わたしは、・・・あなたがたに送る」とありますように、イエス様が聖霊を遣わしてくださるのです。そして、罪の赦しを得させる悔い改めをすべての国の人々に宣べ伝えるのは、この聖霊であるのです。罪の赦しを得させるための悔い改めを宣べ伝えるのは、弟子たちと共に働く聖霊であります。ですから、イエス様は弟子たちに「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われたのです。

 ヨハネによる福音書の15章26節、27節にもこれと同じようなことが記されています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

 この所を読むと、イエス様について証しするのが「聖霊」と「あなたがた」の2者いるように記されています。

 使徒言行録の5章32節にも同じようなことが記されています。イエスの名によって教えてはならないという祭司長たちにペトロは、こう語りました。「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます。」

 このところでは、「わたしたち」と「聖霊」の2者があげられていますけども、それは一つとされています。つまり、ペトロは、私たちの証は、自分たちに与えられた聖霊の証であると言っているのです。自分が証しているのではなくて、私たちの内におられる聖霊が証しているのだ。こう言っているのです。

 また、イエス様はルカによる福音書の12章で弟子たちが迫害されることを予告しました。そのときイエス様はこう仰せになられたのですね。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(11節)。

 ここには、聖霊が弟子たちを通してイエス様について証しをする、その姿がよく描かれていると思います。

 そもそも、「イエスは主である」と告白することは聖霊によらなければできないことであります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と語っています。つまり、聖霊を受けたものは、その力のゆえに、キリストの証人になる、ということであります。洗礼を受けてクリスチャンになるということは、キリストの証人になることと一つのことであるのです。考えてみてください。洗礼を受けるときに、私たちは六項目を誓約をいたします。それはキリストの証人となるということでありますね。

 証人になるということ、これは伝道ということを考えていく上でとても重要なことだと思います。証人というのは、自分が体験したことを証しするわけであります。自分がイエス様にあって救っていただいた。イエス様にあって罪赦され、心の平安が与えられ、死を超える希望が与えられた。そのように自分が体験したことを証するのですね。それは、決して薄っぺらな言葉にはならないはずです。なぜなら、その言葉は、その言葉を語るその人の実存と深く結びついているからです。ですから、その言葉には、言葉が持つ本来の力がそこでよみがえってくるのです。聖書に、「イエス・キリストは死から三日目に復活した」と書いてあるからそうなんだ。そのように伝えるのではなくて、今、自分が生けるキリストとの交わりに生かされている。それによって自分がどれほど大きな力と慰めを与えられているか。そのことを私たちは自分の体験として証しすることができるのです。それは主が遣わしてくださった聖霊が、私たちの内にも宿ってくださっているからであります。私たちは、およそ2000年前の、エルサレムで復活されたイエス様を直接見たわけではありません。けれども、その私たちが、キリストの復活を証することができるのは、私たちがイエス・キリストとの交わりに今、生かされているからであります。何より、私たち自身が主イエスの名によって罪をゆるしていただいた者たちであるからです。イエス・キリストの名によって神を礼拝することのできる、この現実のゆえに、私たちはイエス・キリストは死から三日目によみがえられたと大胆に証しすることができるのです。

 私は、時々、自分は何で生きているのかなぁと考えます。また、ときどき、本当に今生きているのは自分であろうか、などと変なことを考えます。そして、さらには、本当に神様はいるのだろうかなどということまで考え出します。昔、ある哲学者は、「我思う、ゆえに我あり」と申しました。全ての存在を疑ってみても、その疑っている自分の存在は疑うことはできないということであります。そうであるならば、この空と大地、私たち人間の存在は、創造主である神の存在をどれほど雄弁に物語っているでしょうか。また、キリスト教会の存在と歴史は、イエス・キリストの復活をどれほど雄弁に物語っているでしょうか。私たちが、週ごとの礼拝で証することは、まさにそのことであります。イエス様は、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、あなたがたはその証人になると仰せになりました。先日、私たちは、一人の姉妹の洗礼式を共に祝いましたけども、証人となるとはそういうことではないでしょうか。私たちを通して、聖霊が働いてくださる。その聖霊が主イエスを信じる者を起こしてくださる。その神の御業を私たちは証しするものとなる。まさに、このことについては目撃者となることができるのです。先日、私たちの教会の25年史を読んでおりました。1979年12月30日に羽生栄光伝道所の設立式が行われましたけども、その時の現住陪餐会員はわずか5名でありました。しかし、今、神様は、この教会に34名の現住陪餐会員を備えてくださったのであります。キリストの証人となるということは、そのような喜びの証人となるということであるのです。

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