信じがたい喜び 2006年7月09日(日曜 朝の礼拝)

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信じがたい喜び

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章33節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。ルカによる福音書 24章33節~43節

原稿のアイコンメッセージ

今朝の御言葉では、お話しの舞台がエマオからエルサレムへと移っています。エマオの村で、復活の主にであった二人の弟子は、時を移さずして出発し、エルサレムに戻ったのでありました。この所を口語訳聖書は、「すぐに立ってエルサレムに帰ってみると」と訳しています。新改訳聖書も「すぐさま二人は立って戻ってみると」と訳しています。このように、元の言葉には、「立ち上がる」とか「起き上がる」また「よみがえる」と訳される言葉が記されているのです。12節に、婦人たちの話しを聞いたペトロが立ち上がって墓へ走ったということが記されていました。この「立ち上がった」と訳されている言葉と同じ言葉が、この33節でも用いられているのです。復活の主に出会う、また主の復活の知らせを聞くということは、そのように、人を立ち上がらせる力を持っているということでありましょう。おそらく、二人の弟子は、喜びに溢れて、足取りも軽く、エルサレムへと戻ったのだと思います。かつての自分たちと同じように、暗い顔をしている仲間たちに、一刻も早くこの喜びを伝えたいと願い、彼らは夜道を急いだのであります。

 エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活してシモンに現れたと言っておりました。これは、コリントの信徒への手紙一でパウロが記している通りであります。パウロは、コリントの信徒への手紙一15章5節で、三日目に復活したキリストが、ケファに現れ、その後12人に現れたと記しています。ルカによる福音書においても、イエス様は、まずシモン・ペトロに現れくださいました。イエス様が真っ先にペトロに現れてくださったこと。これは、イエス様の牧会的配慮と言えましょう。主の晩餐の席において、ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と申しました。けれども、ペトロは、その数時間後、イエス様のことを3度知らないと言ってしまうわけであります。3度知らないと言ったこと、それはイエス様との関係を完全に否定してしまったということであります。イエス様との交わりの外に、自ら出てしまったということであります。しかし、復活の主は、最初に、そのペトロに御自分を現してくださいました。それは、イエス様の方から、ペトロとの交わりを回復するためであります。イエス様は、主の晩餐の席において、ペトロに対してこう仰せになりました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様との関係を完全に否定し、イエス様の処刑を目の当たりにしたペトロが、どのようにして立ち直ることができるのか。それは、復活の主イエスがペトロに現れてくださるという仕方によってであったのです。復活の主イエスは、ペトロを立ち直らせるために、まずペトロの前に現れてくださったのです。

 二人の弟子も、エマオへ向かう途上で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエス様だと分かった次第を話しました。ペトロだけではない。復活の主は、エルサレムから60スタディオン離れた二人の弟子にも現れてくださったのです。旧約聖書の申命記19章15節によれば、ある事柄が立証されるには、二人、ないし三人の証言が必要でありました。ここに、証言として、主イエスが復活されたことが立証されたのです。イエス様の逮捕によって、ちりぢりになっていた弟子たちが、イエス様の復活によって、また一つになろうとしていたのであります。

 このようなことを話していると、イエス様御自身が彼らの真ん中に現れました。そして、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。突然、彼らの真ん中に現れたわけですから、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。ヨハネによる福音書を見ますと、家の戸にはみな鍵をかけていたが、イエス様が来て真ん中に立たれたと記されています。つまり、復活された主イエスは、空間にとらわれない体をお持ちであるということでありますね。前回の、説教で、私は瞬間移動という言葉を用いましたけども、復活の主は、空間にとらわれない、空間を超越しておられることが分かります。つまり、主イエスは地に属する体ではなくて、天に属する体へとよみがえられたのです(一コリント15章47節)。

 弟子たちの前に現れたイエス様が最初に口にされた言葉、それが「あなたがたに平和があるように」という言葉でありました。これは、ヘブライ語ですと、シャロームという言葉です。今でも、イスラエルでは、シャローム、「平和がありますように」と挨拶いたします。

 旧約聖書の学者に、ヴェスターマンという人がおりますけども、その人がこのシャロームという言葉について次のようなことを述べています(現代神学の基礎知識 旧約聖書、時田光彦訳、ヨルダン社、94、95頁)。

 「シャロームというこの言葉を理解するためには、旧約において挨拶は単なる形式ないし礼儀ではなかったことを知らねばならない。むしろそれぞれの挨拶で、挨拶を受ける者と挨拶する者との間に何かが起こるのである。それゆえ、誰かに『平安がありますように』と語られると、この言葉によってその人にある程度平安が近寄り、その人を取り囲むのである。」

 シャローム、平和がありますようにという言葉は、これは小さな祝祷とも言えます。そして、それは形式的な挨拶ではなく、神によってもたらされる現実であると言えるのです。

 37節に「亡霊」という言葉があります。この言葉を読むとおそらく多くの人が、マルコによる福音書6章に記されている、湖の上を歩くイエス様のお話を思い出すのではないかと思います。湖の真ん中で、逆風のために漕ぎ悩んでいる弟子たちの船を見て、イエス様は湖の上を歩き、近づいて来られた。すると、弟子たちは、そのお姿を見て幽霊だと思い大声で叫んだと記されています。ですから、ここでも弟子たちは、イエス様の幽霊を見ていると思い恐れおののいたのではないか、こう連想するわけです。けれども、ルカの言葉使いを見ますと、どうもそうではないようです。なぜなら、ここで亡霊と訳されている言葉は、ただ「霊」と訳されるプニューマという言葉が使われているからです。先程の、湖の上を歩くイエス様のお話では、これはちゃんと幽霊と訳される言葉が使われています。日本語ですと、幽霊でも亡霊でも同じように思いますけども、ルカはちゃんと使い分けているのです。つまり、弟子たちは霊、プニューマを見ているのだと思い、恐れおののいたのであります。弟子たちは、イエス様の霊がこのところに現れたと思ったわけです。しかし、イエス様はこう仰せになりました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

 ここで、イエス様は御自分がただ霊として現れたのではなくて、手や足を持つ、また、骨や肉を持つ、触ることのできる体をもってよみがえられたことを、弟子たちに教えられたのです。

 このイエス様のお言葉を読むと、おそらく多くの人がヨハネの手紙一の最初のところを思い出すのではないかと思います。ヨハネはその手紙をこう書き始めています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」

 ここで、ヨハネは自分がこれから伝えるのは、初めから伝えられていたイエスについてである。それは、私たちがその声を聞き、その姿を見、その体に触れたイエスである」と記しています。なぜ、ヨハネはこのように人間の五感に訴えて、この手紙を書き始めたのか。それは、この手紙をお読みしていただければ分かりますように、イエス・キリストが人となられたことを否定する者たちが教会を惑わせていたからです。ヨハネの手紙一の4章1節にはこう記されています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうか確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」(~2節)。また、ヨハネの手紙二の7節にもこう記されています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」

 こういう者たちは、イエス様が人となったのではない。人になったように見えただけだと主張しました。この背景には、霊と肉とを対立するものと見なすギリシャ哲学的な二元論があると考えられます。彼らにとって、霊である神が肉を取られたことは、考えにくいことでありました。そしてこのようなことは、イエス様の復活を考えるときにもあったのです。古代ギリシャの哲学者のプラトンは、魂が肉体という牢獄から解放されることに、一つの救いを見出しておりました。そのような人々にとって、イエス様が、肉体をもってよみがえったことは、これはやはり受け入れにくいことであったのです。イエスの復活は、霊的な事柄であったのではないか、そう考える人たちがいたのです。けれども、今朝の御言葉によれば、そうではないことが分かります。復活した主イエスは、確かに手と足をもって、肉と骨をもって、触ることのできる栄光の体をもってよみがえられたのであります。ヨハネによる福音書によりますと、イエス様のその手には十字架にはりつけにされた釘の傷跡が残されておりました。それは、十字架にかけられたイエス様、そのイエス様がよみがえったのだということであります。弟子たちと共に三年間寝食を共にしたあのイエス様がよみがえられたのです。イエス様は、手と足をお見せになり、「まさしくわたしだ」と言うことができました。それは、この地上の体と復活の体とにある連続性があるということであります。もちろん、朽ちることのない栄光の体によみがえるのでありすけども、しかし、そこには連続性もあるわけです。そして、ここに、私たちが今与えられているこの体をよく管理しなくてはならない理由があるのです。このわたしが復活するということは、そういうことであります。

 弟子たちは、イエス様が手や足を見せてくださっても、喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていました。詩編の126篇にも同じように喜びのあまり信じられない様子を歌っている詩篇があります。こういう歌です。 

 主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。

 バビロン捕囚からの解放の知らせを受けて、私たちは夢を見ている人のようになったと詩人は歌います。待ちに待った事柄が実現したとき、喜びのあまり現実とは思えなかった、まるで夢のようであったと言うのです。おそらく、この時の弟子たちも同じであったと思います。イエス様が復活された。それは、婦人たちからも、またペトロからも、エマオの弟子たちからも聞いておりました。しかし、それが現実として、目の前に現れたとき、彼らは喜びのあまり、夢を見ている人のようになった。喜びのあまり信じることができなかったのです。

 そこで、イエス様は「ここに、何か食べ物があるか」と言い、彼らが焼いた魚を一切れ差し出すと、彼らの前でそれを食べられました。焼いた魚を食べることによって、イエス様は御自分が確かに肉体をもって復活したことを証しなされたのです。イエス様は、ただ霊として弟子たちの前に現れたのではありません。イエス様は栄光の体によみがえって、弟子たちに現れてくださったのです。そして再び、弟子たちと食事を共にしてくださったのです。

 

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