共に歩むイエス 2006年7月02日(日曜 朝の礼拝)

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共に歩むイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章13節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。ルカによる福音書 24章13節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉には、二人の弟子が出て参ります。この二人は、「ちょうどこの日」つまり、週の初めの日に、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かっておりました。60スタディオンとは、およそ12キロメートルの道のりであります。29節を見ますと、二人はイエス様に「一緒にお泊まりください」と申しておりますから、エマオは、彼らの故郷であったと考えられます。この二人の弟子は、エルサレムからエマオにある自分の家へと帰ろうとしていたのです。「ちょうどこの日」は過越の祭りの期間が終わった日でもありました。ですから、エルサレムからは多くの巡礼者がそれぞれの故郷へ帰って行ったのです。それでは、この二人も、過越の祭りの巡礼を終えたので故郷に帰ろうとしてたのかと言いますと、どうやらそうではないようです。過越の祭りは、主なる神が、イスラエルの民を奴隷の国エジプトから解放してくださったことを覚える喜びの時であります。しかし、この二人は暗い顔をしていたのです。お祭りに行って、暗い顔をして帰ってくる。これは異様なことであります。このことから、この二人が、祭りの期間が終わったので帰るのではないことが分かるのです。この二人はイエス様の弟子でありました。おそらく、イエス様と共に歩み、そしてエルサレムへと共に入った、そういう者たちでありました。19章の11節を見ますと「エルサレムに近づいておられ、それに人々が神の国はすぐにも現れると思っていた」と記されています。この二人の弟子もイエス様が、エルサレムで、ダビデのような王として君臨し、神の支配を打ち立ててくださるに違いないと期待していたのです。けれども、その望みは潰えてしまった。主イエスは死んでしまわれた。ここに、彼らが暗い顔をしながら、故郷へと帰らざる得ない理由があったのです。

 その道すがら、一人の人が近づいてきて、一緒に歩き始めます。聖書は、それがイエス様御自身であると記しておりますけども、彼らにはそれが分かりません。二人の目は遮られていてイエス様だとは分からなかったのです。不思議なことでありますけども、彼らにはそれが主イエスであることが分からなかったのです。おそらく、この二人はその人を故郷へと帰る巡礼者の一人であると考えたのでありましょう。イエス様が、「歩きながら、やり取りしているその話しは何のことですか」と尋ねますと、二人は暗い顔をして立ち止まり、その一人のクレオパがこう答えるのです。「エルサレムに滞在しながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

 これは、少々厳しい言い方であります。「よくエルサレムに滞在しながら、そのことを知らずにいれましたね。それを知らないのはあなただけですよ」と少々あきれた物言いであります。イエス様が「どんなことですか」と尋ねると、二人は、こう答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」

 その昔、モーセが主なる神は、自分のような預言者を遣わしてくださると預言しておりましたけども(申命記18:15)、ナザレのイエスこそ、モーセのような預言者であると彼らは信じていたのです。そして、モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から贖い出したように、イエス様が、イスラエルの民をローマ帝国の支配から解放してくださると望みをかけていたのです。けれども、その望みは、皮肉にも、自分たちの指導者たちの手によって奪われてしまったのです。ユダヤの民間信仰では、死人の魂は三日目にその肉体から離れると信じられておりましたから、イエス様が息を吹き返される望みももうなくなってしまったわけです。死んでしまったと思っていた人が息を吹き返したと、時々耳にしますけども、それも三日経てば起こらないということでありましょう。

 二人の話はまだ続きます。「ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましてが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 息を吹き返すことのない三日目に、婦人たちが朝早く墓へ行きますと、イエス様のご遺体はありませんでした。その代わり、婦人たちは天使たちの幻を見、その天使たちから「イエスは生きておられる」と告げられたというのです。仲間の者が何人かお墓に行きましたけども、イエス様にお会いすることはできませんでした。前回、ペトロが立ち上がって、走ってお墓に向かったことをお話ししましたけども、この仲間の何人かは、ただ婦人たちが言ったとおり、イエス様のご遺体がそこにあるか、ないかよりも、イエス様にお会いできるか、どうかという期待をもってお墓へと向かったのであります。しかし、彼らはイエスにお会いすることはできなかったのです。

 

 この二人の話を聞いて、イエス様はこう仰せになります。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられないものたち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 二人の弟子たちは、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者イエスが、なぜ呪いの死を遂げなければならなかったのか。なぜ、神はイエスを呪いの死に引き渡したのかを不可解に思っていました。そして、そのことを話し合い論じ合っていたのであります。けれども、イエス様は、それこそ預言者たちが預言してきたことである。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではないか。と仰せになるのです。つまり、イエス様がかつて予告されていたように、メシアの歩むべき道は、苦難から栄光へという道であるのです。イエス様が苦難の死を遂げたこと、それはメシアではないことのしるしではなくて、逆にこの苦難の死こそがイエス様がメシアであることのしるしであるのです。そして、モーセとすべての預言書からはじめて、つまり旧約聖書全体から、御自分について書かれていることを説明されたのであります。

 この二人は、イエス様を前にしながら、イエス様を認めることができませんでした。それは、二人の目が遮られていたからであります。これは、神様によって、二人の目が遮られていたと言えますが、人間の側からすれば、彼らの心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない不信仰によると言えるのです。イエス様を前にしても、それがイエス様であることを認められない。それは、イエス様の容姿が分からなくないほど変わっていたからではなくて、復活の主を見る弟子たちの目に問題があったのです。つまり、彼らは全ての希望が潰えたと思い、主イエスの出来事をもう済んだ過去の出来事としてしまっていたのです。私たちも、思っても見ないところで、思っても見ない人に会うと、その人を認めることがなかなかできないことがあります。目で見ているのですけども、なかなか認識できないということがあります。この二人の弟子たちは、婦人たちが天使の幻を見、「イエスは生きておられる」と告げられたのを聞いておりましたけども、彼らはその話をたわごとのように思い、婦人たちを信じておりませんでした。それゆえに、復活の主が目の前に現れ、共に歩んで下さっても、彼らはその男がイエス様であることを認めることができなかったのです。彼らの霊的な眼、信仰の眼は、それほどまでに閉じていたのであります。

 それでは、イエス様はどのようにして、彼らの霊的な眼を開こうとされたのか。それは、聖書を説き明かすということによってでありました。聖書全体から、御自分について書いてあることを説教なされた。説教することによって、弟子たちの心の目を開こうとしてくださった。メシアの苦しみは神のご計画の一部であることを悟らせ、復活の主に出会うその心を備えてくださったのであります。

 

 どのくらい時が経ったのでしょう。一行は、もうエマオの村に近づいておりました。「イエスは、なおも先へ行こうとされる様子だった」と記されています。このことは、イエス様が、無理に二人のところに泊めてもらおうとはしなかったことを教えています。当時の慣習において、旅人をもてなすことは、一つの義務とも呼べる善行でありました。しかし、もてなされる側は、それを何度も断り、しつように頼まれるまで、それに応じてはならなかったと言われています。イエス様は、自分から泊めてくださいと言い出すことはなさらずに、二人が熱心に願うことを待っていたのです。二人は、もっとイエス様のお話を聞いていたいと思ったのでありましょう。

二人は、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き留めたのでありました。

 イエス様は、二人が「一緒にお泊まりください」と願い出るのを待っておられた。このことから、イエス様というお方は、信仰を無理強いしないお方であることが分かります。熱心に求める者には、喜んで交わりをもってくださいますけども、それを押しつけるようなことはなさらないのです。

 家に入り、一緒に食事の席についた時、イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。イエス様は、お客さんでありますけども、なぜかここで主人として振る舞っています。パンを取り、分け与えるということ。これは、その家の主人がすることでありました。ここでイエス様は、この家の主人として振る舞っておられるのです。まさに、主イエスは私たちそれぞれの家庭の主でもあるのです。また、はじめの読者である初代教会の人々は、この「家」に教会を重ねたと思います。なぜなら、初代教会の人々は、会堂を持たず、まさに家に集まって礼拝をささげていたからです。イエス様が家庭と教会の主であることを、私たちはこの所から教えられるのです。

 「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」、この記述は、主の晩餐の時と同じ記述であります(22:19)。聖餐式を思い起こさせる言葉がここに記されているわけです。その一連の動作を通して、彼らは目の前の男がイエス様であることが分かったのです。しかし、その時、イエス様のお姿は消えてしまったのです。新共同訳聖書は「見えなくなった」と訳しておりますけども、これは誤解を与える訳でありまして、「現れなくなってしまった。消えてしまった」という方が正しい訳であります。「見えなくなった」というと、そこにいるけども、見えなくなってしまった。透明人間のように見えなくなってしまったという誤解を与えますけども、そうではなくてどこかに行ってしまったということであります。

 こう考えてきますと、イエス様の復活というものは、真に独特なものであることが分かります。イエス様は、死から舞い戻ってただ息を吹き返したのではなくて、死を突き抜けて、朽ちることのない栄光の体に復活なされたのです。イエス様の復活は、ヤイロの娘の復活とか、ラザロの復活とか、そういったものとは違う次元のものであることが分かるのです。復活されたイエス様を誰もが認めることができるのではない。誰でも感覚的に、復活の主イエスに出会うことができるのではないのです。目がよく見えればイエス様に出会えるというわけではないわけです。復活の主を見るには、肉体の眼だけではなくて、信仰の眼が必要なのであります。そして、復活の主は、どうやらどこにでも瞬時に移動することができたようであります。あまり想像をたくましくすべきではないかも知れませんけども、いわゆる瞬間移動をすることができたわけです。事実、エマオから消えてしまったイエス様は、エルサレムのシモン・ペトロに現れてくださいました。ですから、瞬間移動することができたイエス様が、わざわざエマオまでの道のりを弟子たちと共に歩まれたことは、意味深いことであります。なぜ、イエス様はエマオへと向かって歩まれたのか。この二人の弟子の目的ははっきりしています。それは自分の家に帰るためであります。イエス様の弟子としての歩みを終わりにしまして、再び、自分の日常へと帰るためであります。そして、イエス様の目的というものは、この二人が御自分の弟子として歩み続けることにあったのです。二人が弟子として歩み続けるようにと、復活の主は彼らと共に歩んでくださり、聖書を説き明かし、聖餐式を思わせる食卓を囲んでくださったのであります。

 二人がそれがイエス様であると認めたとき、イエス様は消えてしまいました。それでは二人はがっかりしたのかというと、そうではありません。二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。主イエスのお姿が見えなくとも、主イエスのお言葉が、その心を静かに燃やし、その火は今なおくすぶっていたのです。その火照りが、確かに主イエスは復活して現れてくださったことを証ししていたのです。

 イエス様は、このようにして、悲しみ、落胆し、当惑する弟子たちに、御自分を現してくださったのです。そして、復活の主イエスは、今も同じ仕方で、私たちに御自身を表してくださるのであります。前回も申しましたけども、主イエス・キリストが生きて働いておられる場所、それは何と言っても主の日の礼拝においてであります。そのことは、今朝の御言葉を読んでいただければ、なおさらよく分かっていただけると思います。主イエスは、エマオへ向かう二人の弟子たちに、どのように御自分を現してくださったか。それは、聖書を説き明かすことと聖餐を祝うことによってでありました。この二つを通して、イエス様は御自分を弟子たちに現してくださったのです。

 イエス・キリストは死から三日目に復活した。そう言うけども、それではどのようにすれば、復活の主に出会うことができるのか。その復活の主を見ることができれば信じよう、こういう人もいるかも知れません。しかし、私たちがわきまえ知らねばならないことは、復活の主イエスに出会うのは、信仰生活においてであるということであります。信仰生活の中でしか、私たちは復活の主にお会いすることはできないということです。

 突然、夜道を歩いていて、輝かしいお姿でイエス様が「こんばんは」と現れるのではないのです。夜中、トイレに行こうとしたら、輝かしいイエス様が、そこに立っていた。そういう仕方で、イエス様は、私たちに出会ってくださるのではないのです。復活の主イエスが出会ってくださるのは、聖書を説き明かし、聖餐を祝うということによるのです。今、天におられ、父なる神の右に座し給う主イエスが、説教者を通して、聖書を説き明かしてくださる。また、司式者を通して、聖餐式を執り行ってくださる。そのことを通して、私たちは復活の主に出会うのであります。そして、それは私たちの心を静かに燃やすのであります。心が燃える。それは復活の主が出会ってくださったしるしであります。

 イエス様は、今も、説教と聖餐式を通して、御自身を現してくださいます。特に今朝は、更なる恵みをいただきまして、私たちはこの礼拝の中で、洗礼式を執り行うことができました。イエス様を信じ、洗礼を受ける者が与えられる。これは、神が生きて働いておられることの確かなしるしであります。そのしるしを今朝私たちは与えられたのであります。私たちは、これから聖餐の恵みにあずかろうとしております。先程、洗礼を受けました新井瞳さんは、はじめて聖餐の恵みにあずかるわけでありますけども、そこで、裂かれるパンを通して、共に主イエスの復活の恵みにあずかりたいと願います。

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