イエスの葬り 2006年6月11日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの葬り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章50節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、
23:51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
23:52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、
23:53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。
23:54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。
23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、
23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。ルカによる福音書 23章50節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、ルカによる福音書を初めから共に読んで参りました。飼い葉桶に寝かされた幼子のイエス様、神殿を「わたしの父の家」と呼ぶ12歳のイエス様、そして、およそ30歳となり、公に救い主として活動を始められたイエス様の歩みをわたしたちは共に学んできたのです。そして、今朝はイエス様のご遺体が葬られる場面を一緒に読もうとしているのであります。葬り、これは、その人の生涯の最後のことであります。ですから、どの国においても、遺体を葬るということを大切にいたします。故人への愛を、その遺体を丁重に葬るということによって、表したのであります。わたしたちも、お世話になった方や懇意であった方が、お亡くなりになったと聞けば、何をおいてでも駆けつける。そして、故人への哀悼の意を表す。悲しみの中にあるご遺族の慰めに少しでもなればと願い、葬儀に参列するのです。それでは、イエス様の葬儀、イエス様の葬りはどうだったのでしょうか。イエス様の時代、家族や親しい者が遺体の葬りをいたしました。しかし、イエス様のご遺体を葬ったのは、親族でも親しい弟子たちでもありませんでした。イエス様のご遺体はヨセフという議員によって葬られたのであります。そして、もし、アリマタヤのヨセフが願い出なかったならば、イエス様のご遺体は囚人用の共同墓地に葬られたに違いないのです。なぜなら、イエス様は、十字架の死、呪いの死に定められた者であったからです。イエス様は、家族や親しい者たちに看取られて、布団の上で静かに息を引き取られたのではありません。イエス様は、十字架につけられ、苦しみながら、人々から罵詈雑言を浴びせられながら、息絶えたのです。よって、その遺体も、囚人用の共同墓地に、誰とも分からず葬られるはずでありました。しかし、アリマタヤのヨセフが、ピラトに願い出たことによって、イエス様のご遺体は、真に丁重に葬られたのであります。

 このヨセフは、議員であったと記されています。ヨセフは、イエス様の処刑を決議した最高法院の議員の一人であったのです。しかし、「彼は善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意していなかった」と記されています。。この「同意しなかった」という言葉は、直訳すると「共に一票を投じなかった」となります。イエス様を処刑することに、ヨセフは賛成の票を投じなかったわけです。けれども、それではヨセフが、イエス様を処刑すべきではないと公に主張したかといえば、そうではなかったようです。彼は、神の国を待ち望んでおりましたけども、イエス様を処刑することに、異議申し立てをしたたわけではなかった。彼は、いわば、票を投じないことによって、消極的に反対の意を表したのです。危険人物と目されていたイエス様を自分が慕っていることが、もし、知れるならば、周りから何と言われるか分かったものではない。そのように、ヨセフは周りの目を恐れ、自分の立場を明らかにしなかった。ヨセフはそのような人物でもあったと言うことができるのです。

 そのようなヨセフが、ピラトのところに行き、イエス様のご遺体を渡してくれるようにと願い出た。これは、まことに驚くべきことであります。そして、これは大変、勇気のいることであったと思います。このことがどれほど勇気のいることかを示す例えとして用いられるのが、大逆事件(たいぎゃくじけん)で処刑された大石誠之助(おおいしせいのすけ)の葬儀を行った植村正久の例であります。

 大逆事件とは、1910年に明治天皇の暗殺を企てたという容疑で多数の社会主義者が逮捕、処刑された事件を言います。全国で社会主義者が数百名検挙され、そのうち26名が大逆罪で起訴され、翌11年の1月には、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)をはじめとする12名が処刑されたという事件です。現在では事件の大半は社会主義思想を取り締まるための政府のでっちあげであると考えられておりますけども、その処刑された者の中に、大石誠之助というクリスチャンがおりました。しかし、その大石誠之助の葬儀をどの教会も行ってくれない。それはよく分かることです。当時は、天皇は神聖にして犯すべからず国家の元首でありました。その天皇を暗殺しようと企てたとして、処刑された者の遺体を引き取って葬りをするものならば、自分にも、疑いの目が向けられるかも知れないと人々は恐れたのです。けれども、当時、東京富士見町教会の牧師であった植村正久は、官憲の厳しい監視のもとに、慰安会という名目ではありましたが、大石誠之助の葬儀を執り行ったのであります。これは大変勇気のいったことだと思います。

 アリマタヤのヨセフは、この植村正久と同じように、あるいはそれ以上の勇気を奮い起こして、ピラトにイエス様のご遺体を渡してくれるように願い出たのでありました。イエス様を処刑すること、これは最高法院によって決定されたことでありました。そして、最高法院の決定は、神の御意志であると考えられていたのです。また、それはローマの総督ポンテオ・ピラトの判決でもあったわけですから、イエス様の処刑はローマ皇帝のご意志として行われたとも言えたわけです。そのイエス様のご遺体を葬りたいと願い出ることは、自分がイエスの弟子であると言い表したも同じであったのです。このことはヨセフにとって議員としての地位や名誉を失ないかねないことでありました。そして、おそらく、アリマタヤのヨセフが、イエス様のご遺体を引き取ったということは、後に他の議員たちに知れ渡ったのではないかと考えられるのです。なぜなら、律法には「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」と定められていたからであります(民19:11)。ヨハネによる福音書第18章28節には、最高法院の人々が、イエス様を総督官邸へと連れて行ったこと。しかし、自分たちは官邸の中に入らなかったことが記されています。それは、汚れないで過越の食事をするためでありました。異邦人であるローマの官邸に入って身を汚すことになってしまえば、過越の食事を食べることができなくなってしまう。ですから、彼ら自身は官邸の中に入らなかったのです。これと同じことが、イエス様のご遺体を葬ったアリマタヤのヨセフにも言えたと思います。特に、これから始まろうとしている安息日は、特別な安息日でありました。除酵祭の最終日、最も盛大にお祝いがなされる安息日であったのです。その安息日の祝いの食事に、なぜかアリマタヤのヨセフは出席していない。おそらく、皆の者は、どうしてヨセフはいないのかと問うたに違いないのです。そして、そのとき、アリマタヤのヨセフが、イエス様のご遺体を引き取り、葬ったことが、他の議員の耳にも入ったのではないかと考えられるのです。

 アリマタヤのヨセフは、議会において、消極的にしか、自分の意志を表すことはできませんでした。けれども、ヨセフは自分が最も必要とされるその場面で、信仰をもって大胆に行動したのです。そのヨセフの心を動かしたものは何でしょうか。それはやはり、十字架上のイエス・キリストの出来事であったと思います。おそらく、ヨセフも十字架につけられるイエス様の様子を見ていたはずであります。イエス様が自分を殺そうとする者たちのために執り成しの祈りをなされらたこと。犯罪人の一人に救いを約束をなされたこと。父なる神に、御自分の霊を委ねき安らかに息を引き取ったこと。そういった出来事を、ヨセフもしっかりと目に焼き付けていたのであります。さらには、百人隊長の「本当に、この人は正しい人だった」という言葉に、ヨセフは心の中で、「アーメン」と言ったのではないかとさえ想像できるのであります。

 ヨセフは、神の国を待ち望んでいた人でありました。神が王として支配してくださる、そのことを待ち望んでいたのです。神が王として支配してくださる。そのとき、何が起こるのか。それは、正義が正義として貫かれるということであります。正義が正義として貫かれる。それを求めるがゆえに、ヨセフは、正しい人イエスが、囚人用の共同墓地に葬られることを黙って見過ごすことはできなかったのであります。

 アリマタヤのヨセフ、この人は、自分が最も神様に用いていただける場面で、用いていただいた人であると言えます。おそらく、この時、ピラトにイエス様のご遺体を渡してくれるようにと願い出ることができたのは、このヨセフを除いておりませんでした。イエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちも、イエス様を葬りたいと願っていたはずでありますけども、彼女たちは、ローマの総督であるピラトに話しができる立場にはありませんでした。また、何より、彼女たちはエルサレムの郊外に墓を所有してはおりませんでした。ただ、身分の高い議員であり、エルサレムの郊外に墓を所有していたアリマタヤのヨセフだけが、イエス様のご遺体を葬ることができたのです。イエス様は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫び、息を引き取られましたけども、父なる神は、このイエス様の祈りに答え、アリマタヤのヨセフを通して、そのご遺体を丁重に葬られたのであります。

 今朝の説教題を「イエスの葬り」といたしました。イエス様が葬られたこと。これはイエス様が確かに死んでしまわれたということを教えています。使徒信条に「死にて、葬られ」と告白されている通りです。

 神の御子であり、永遠の命であられるイエス・キリストが死んで、葬られたこと。これは、まことに驚くべきことであります。けれども、イエス様は確かに息を引き取られたのです。それほどまでに、神の御子キリストは、私たちと同じ人となってくださったのであります。イエス様が死にて葬られたこと。それは、私たちにとって、大きな慰めでもあります。命とは最も遠い場所であったお墓、汚れた場所と考えられていたお墓にも、命の君イエス・キリストは来てくださったからです。旧約聖書の詩人は「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」と歌いましたけども、主イエスは、死そのものにおいても私たちと共にいてくださるのです。私たちがこれから体験するであろう死、それはすでに主イエス・キリストが死んでくださった死なのであります。イエス様が、私たちに先立ち、死んで、葬られたこと。ここに、やがて死に行く私たちへの真に深い慰めがあるのです。

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