イエスの死 2006年5月28日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの死

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章44節~49節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。ルカによる福音書 23章44節~49節

原稿のアイコンメッセージ

 44節に、「既に昼の12時ごろであった」と記されています。ルカによる福音書は、イエス様がいつ十字架につけられたのかを記しておりませんけども、マルコによる福音書によれば、イエス様が十字架につけられたのは、午前9時であったと記されています。ですから、イエス様は、3時間もの間、十字架の上で苦しまれていたことになります。昼の12時、それは太陽が最も照り輝く時でありましょう。しかし、聖書は、「全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた」と記しています。

 昼間に全地が暗くなる。太陽が光を失う。これは、真に驚くべきこと、恐ろしいことであります。しかも、それが3時まで続いたというのです。このことについて、色々なことが考えられてきました。ある人は、イエス様の死を悲しんで、全地が喪に服していると考えます。私たちが、葬儀に出席する際、黒い服を着るように、ここで全地は喪に服していると考えるのです。また、ある人は、22章53節、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」というイエス様の御言葉から、今、まさしくイエス様の上に、闇の力、悪魔の力が振るっているのだと考えるのです。また、ある人は、旧約の預言者たちが預言してきた主の日の到来と結びつけて解釈いたします。主の日の裁きがイエス様の上に臨んでいるのだと解釈するのです。私はこの解釈がよいと思っております。主の日、それは、主なる神による裁きの日であります。神さまの御支配が明らかとなる日、それが主の日であります。その主の日の特徴としていつも語られますのは、その日は闇であって、太陽も光を失うということであります。例えば、アモス書の5章18節にはこう記されています。旧約聖書の1435頁です。第5章18節をお読みいたします。

 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。 

 主の日、それは主の民であるイスラエルにとって待ち望んだ希望の日でありました。主の日がくれば、神の民である自分たちは救われ、神を知らない異邦人は滅ぼされる、こう考えられていたのです。しかし、預言者アモスは、主の日を待ち望む者は災いだと語り、主の日は闇であって光りではないと言うのです。それはなぜか。それはイスラエルの民が、主の民としてふさわしくない者となっていたからです。イスラエルの中に、主の憎むべき罪が横行していたからであります。同じアモス書第2章6節から8節にはこう記されています。旧約聖書1430頁。2章6節から8節をお読みいたします。

 主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。  彼らが正しい者を金で/貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。祭壇のあるところではどこでも/その傍らに質にとった衣を広げ/科料として取り立てたぶどう酒を/神殿の中で飲んでいる。

 イスラエルがこのような状態にあってアモスは、「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と勧告するのです。そのような状態で、主の日を迎えたらどうなるか、考えてみよ。罪に汚れたお前たちにとって、主の日は光ではなく、闇ではないかとアモスは語るのです。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書の159頁です。

 東京恩寵教会の牧師であられた榊原康夫先生の著書に『聖書読解術』という書物があります。榊原先生は、その書物の中で預言の成就について次のように記しています。週報の中に挟んでおきましたので、それをご覧いただきながら、聞いていただきたいと思います。

 協会訳聖書では「成就した」という翻訳が使ってあります。新改訳聖書では、「実現した」という翻訳になっています。けれども、意味は結局同じであり、預言の本質からいいますと、どちらも誤解を与えやすい訳であります。「成就した」「実現した」といいますと、何か、それまで預言は成就していなかったし、実現していなかった、かりそめの宙ぶらりんであったが、たとえばあのインマヌエル預言は、マリアの処女懐 胎という時になってはじめて実現した、実を結んだ、意味をなした、それまでは七百年ぐらいの間、宙に浮いていた、というような感じを与えます。一つのことが預言されれば、一つの事件で成就がある、こういう組み合わせを私たちにまちがって考えさせる翻訳であります。

 旧約聖書のヘブル語も新約聖書のギリシャ語も、「成就する」「実現する」という言葉をもっておりません。「満たす」という表現です。たとえば、イザヤならイザヤの語ったことが「満たされる」と申します。満たしていくのは、もちろん、コップに水を満たしていくのに、何回も分けて満たしてもいいわけですし、だんだん満ちるわけです。一つの事件で一ぺんに虚が実になるというようなことは、聖書では考えられないわけです。イザヤならイザヤ、エレミヤならエレミヤの言ったことの意 味が満ちていくという考え方です。その時代の人が約束を聞いて「アーメン」と言い、そこで慰められたならば、それなりに一つ満ちたわけです。次の時代の人が、またそれを聞いて励ましを受けるならば、またそこで満ちるわけです。そうしてほんとうに救い主が来たならば、もちろん、申し分なく満ちるでしょう。

 ですから、預言の成就というのは決して、一つのことばに一つの出来事、一つの予告に一つの実現というような組み合わせではないのです。預言というものは、ずうーっといつの時代にも神のことばとして慰めを与え、脅かしを与え、悔い改めを迫りまして、生ける神のことばとしてメッセージを持ち続けています。それを読み取っていく人々の心においてずうーっと満たされていくわけなのです。

 少し長く引用いたしましたけども、ここで、榊原先生が言っておられること、それは預言の成就は、一つの言葉に一つの出来事という組み合わせではなくて、むしろ、コップに水が満たされていくように、だんだんと満ちるのだということです。私は、この考え方は、旧約の預言者たちが預言してきた主の日の到来についても言えることではないかと思います。新約時代に生きる私たちにとって、主の日とは、主イエス・キリストが再びこの地上に来てくださる、キリストの再臨の日のことであります。旧約の預言者たちが預言してきた主の日の到来は、イエス・キリストの再臨において完全に満たされると考えられるのです。それでは、主の日の到来の預言は、その時まで宙ぶらりんのままなのかといえば、そうではないのです。主の日の到来の預言も少しずつ満たされているわけです。紀元前586年のバビロン帝国によるエルサレム陥落も、主の日の到来を満たす一つであると言えます。また、今朝の御言葉に記されているイエス・キリストの死もその一つであると言えるのです。主の日の到来の預言は、イエス様が十字架につけられたこの日、大きく満たされたと言えるのです。

 イエス様が息を引き取られる前に、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と聖書は記しています。神殿の垂れ幕、これはおそらく聖所と至聖所を隔てる垂れ幕ではなかったかと言われています。神殿にはいつも祭司たちが礼拝をささげる聖所と神が御臨在される至聖所がありました。その至聖所は厚いカーテンで仕切られており、年に一度、大祭司だけが入ることができたのです。そこで大祭司は、民の罪を贖うために動物の血をもって贖いの儀式をしたのです。その至聖所の垂れ幕が真ん中から裂けた。これは、一体何を意味しているのでしょうか。ヘブライ人への手紙第9章11節から12節にはこう記されています。新約聖書の411頁。9章11節から12節をお読みいたします。

 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいで になったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この 世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い 雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永 遠の贖いを成し遂げられたのです。

 聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が真ん中から裂けたこと。それは、イエス様が御自分を神にささげられたがゆえに、神と民とを隔てる壁が取り除かれたことを教えているのです。イエス様は、ヨハネによる福音書第4章で、サマリアの女に対して「婦人よ、わたしを信じなさい。あながたがこの山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と仰せになりました。特定の場所に縛られることのない礼拝が御自分において実現すると言うのです。なぜなら、イエス・キリストが私たちの先駆者として至聖所へと入り、御自分の血をもって永遠の贖いを成し遂げてくださったからです。

 ルカによる福音書に戻ります。新約聖書の159頁です。

 46節をお読みいたします。

 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

 「わたしの霊を御手にゆだねます」。これは、詩編31篇6節からの引用であると言われます。そしてこの祈りは、当時のユダヤ人たちの就寝の祈りでもあったのです。敬虔なユダヤ人たちは、「わたしの霊を御手にゆだねます」と祈り、その床についたのです。眠っている時、これは意識も不確かな時でありまして、無防備な時であります。寝ている間に、敵が忍び込んできて、殺されてしまうかもしれない。寝ている間に何が起こるか分からない。だから、主なる神に自分の霊をゆだねますと祈って眠りについたわけです。その祈りをイエス様は息を引き取られる前にお祈りになられたのです。この「息を引き取る」という表現、これは日本語の表現でありまして、元の言葉では「息を出す」という言葉です。息と訳される言葉は、霊とも訳すことができますから、イエス様は文字通り、霊を吐き出されたと読むことができるのです。創世記の2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されておりますけど、死とは、その命の息である霊を神にお返しすることであると考えられていたのです(コヘレト12:7参照)。

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。このイエス様の祈りを通して教えられますことは、イエス様が父なる神に最後まで従順であられたということです。そして、その死は、真に安らかな死であったということであります。

 私たちは、眠る時、朝になれば、また目を覚ますことができることを信じて眠りにつきます。もし、朝になっても目を覚ますことができるかどうか分からないのであれば、不安で眠ることはできないと思います。そして、そのことは死においてこそ言えるのです。死んだ後に、自分がどうなるのか分からないのであれば、私たちは平安な思いをもって死んでいくことはできません。けれども、イエス様は、就寝の時の祈りを唱え、夜、眠りにつくかのように息を引き取られたのです。それは、なぜか。それは御自分が目覚めることを信じていたからであります。父なる神が自分を必ず復活させてくださる。父なる神は自分を決して陰府に捨て置かれることはないと信じていたからです。イエス様は、エルサレムへと向かうその途上において、3度、御自分の苦難と死を予告して参りました。しかしそれは同時に、復活の予告でもあったのです。例えば、最初の予告である9章22節で、イエス様はこう言われています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日目に復活することになっている。」

 イエス様は、御自分が指導者たちに捨てられ、殺されてしまうだけではなくて、父なる神が三日目に復活させてくださるとも予告していたのです。 イエス様の心にあったであろうイザヤ書第53章の主の僕の預言。その11節には、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する」と記されています。なぜ、自らを投げ打ち死んで、罪人の一人に数えられる主の僕が、自らの苦しみの実りを見、満足することができるのか。それは主なる神が御自分の僕をよみがえらせてくださるからであります。ですから、イエス様は、十字架の上にあっても、父なる神への全き信頼と平安をもって息を引き取ることができたのです。

 百人隊長は、この出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と神を賛美しました。神を賛美する。これは、ルカによる福音書において、イエス様の奇跡を目の当たりにした人々の示す反応であります。十字架の上で、神を賛美するような出来事が起こった。奇跡と呼べるような出来事が起こったのです。そして、イエス様の処刑を取り仕切っていた百人隊長の口から、「本当に、この人は正しい人だった」と語られたのです。祭司長たちが罪人として訴えてたイエス様を、ピラトは「この男には何の罪も見いだせない」と3度主張しました。また、共に十字架につけられた犯罪人の一人も「この方は何も悪いことはしていない」とイエス様を弁護しました。そして、今、イエス様を十字架につけた百人隊長が、「本当に、この人は正しい人であった」と宣言するのです。

 この正しい人の死は、群衆にも大きな衝撃を与えたようです。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」と聖書は記しています。この正しい人の死は、十字架につけろと叫び、その様子を見物していた群衆の心に、悲しみと悔い改めの心を起こさせたのです。 

 また、これらのことを見て、立ちすくむ者たちもおりました。それは、イエス様を知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちであります。ここで、弟子という言葉は使われていませんけども、おそらくこの人たちの中には弟子たちも含まれていたと考えられています。しかし、ルカはここで弟子という言葉を使わないのです。ただルカは、イエス様の知り合い、知人とだけ記すのです。私たちも、友人と知り合いとの区別をいたします。様々な人々のお付き合いの中で、この人は友人と呼べる親しい人、しかし、あの人は知り合いに過ぎないと自分と他人との距離を測ろう、保とうとするのです。そのように考えますとき、ここでルカが弟子という言葉が使わずに、知り合いという言葉を用いていることは意味があると思います。彼らは、物理的に、遠くに立っていただけではなく、イエス様との関係においても遠くに立っていたのです。また、48節には「群衆」という言葉が出ておりました。これは、おそらく35節の、立って見つめていた民衆を含むのであると考えられます。民衆とは、ルカ福音書において、神の民を表す言葉でありました。しかし、それが48節では、「群衆」という言葉でひとまとめにされているのです。なぜでしょうか。なぜ、ルカは、民衆を群衆と記し、また弟子とは言わずにイエス様の知り合いと記したのでしょうか。それは、主の日の裁きが臨んだとき、神の民と呼べる人、キリストの弟子と呼べる人は誰もいなかったからであります。神の民に値する者、それはただイエス・キリストだけでありました。主の日の裁きを通して、イエス様だけが神の民であることが明らかになったのです。十字架の死を通して、イエス様だけが神の御心に適う正し者であることが明らかとなったのです。

 後に使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第3章で、こう語っています。

 正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を捜し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

 けれども、百人隊長は、イエス様についてこう語るのです。

「まことに、この人は正しい人であった。」神の目に正しい人は、誰もいない。いや、一人だけいる。それが人となられた神の御子イエス・キリストでありました。イエス・キリストだけが主の日の裁きにおいても、神の民として立ち続けたのです。十字架の死においてさえも、父なる神に信頼し続けたのです。それゆえ、使徒ペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と力強く語ることができたのです。父なる神は、イエス・キリストにおいて御自分の民を御前に立たせようとしておられる。イエス・キリストにおいて、神は御自分の民を御前に集めようとしておられるのです。

 「この人は、本当に正しい人であった」。この百人隊長の言葉は、彼の思いを越えて、まことに深い真理を物語っているのです。イエス・キリストがまことに義なるお方であられた。そこに、私たちの希望がある。「正しい人は誰もいない」そう嘆かざるを得ない罪の世にあって、まことに正しい方がここにおられる。それが私たちの主イエス・キリストなのであります。

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