パラダイスはここに 2006年5月21日(日曜 朝の礼拝)

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パラダイスはここに

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章39節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカによる福音書 23章39節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉には、イエス様と犯罪人との対話が記されています。しかもそれは、十字架の上でなされた対話であります。32節から33節にはこう記されています。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に一人は左に、十字架につけた。

 イエス様だけではない。イエス様を真ん中にして、右と左にも、十字架につけられた者たちがいたのです。「されこうべ」と呼ばれる場所には、3本の十字架が立っていたのであります。

 私たちは前回、イエス様をあざ笑う議員たちの言葉や兵士たちの侮辱する言葉を読みました。そして、今朝の御言葉では、イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人が、イエス様をののしるのであります。ここで「ののしった」と訳されている言葉は「冒涜した」とも訳すことができます。犯罪人の一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」といってイエス様を冒涜したのです。

 十字架につけられる者は、地上より1メートル以上高いところにつけられたと言われています。十字架刑は見せしめの刑でありますから、民衆によく見えるように、高く掲げられるわけです。その十字架を取り囲む議員たちから嘲りの言葉が聞こえてくる。そして、おそらく十字架のもとにいたであろうローマの兵士たちからも侮辱の言葉が聞こえてくる。そして、さらには、自分のすぐ隣からも冒涜の言葉が聞こえてきたのです。十字架を取り囲む議員たちからも、十字架のもとにいる兵士たちからも、そして十字架につけられている犯罪人の一人からもイエス様は「もし、お前がメシアなら自分を救ってみろ」と嘲られたのです。そして、それはメシアであり、超自然的なお力を持つイエス様にとって、最大の誘惑でありました。イエス様を荒れ野において誘惑した悪魔は、今、議員たちや兵士たち、犯罪人の一人を通して「もしお前がメシアなら自分を救ってみろ」と誘惑するのです。それによって、イザヤ書第53章に預言されていた主の僕であるイエス様のお働きを台無しにしようとしたのであります。多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負うメシア。自らを償いの献げ物とするメシア。それが、イザヤが預言した主の僕の姿でありました。そして、今、イエス様は、この主の僕として、十字架におつきになっておられるのです。

 「もしあなたが神からのメシアならば、自分を救ってみろ」。これは、イエス様にとって、決して軽くない誘惑であったと思います。なぜなら、イエス様は今、苦しみの中で死のうとしておられるからです。。お腹の空いている人が、何か食べたいと願うように。また、のどの渇いている人が、何か飲みたいと願うように。苦しみの中にある者が、その苦しみから逃れたいと願うことは当然のことであります。ましてや、神の子メシアであるならば、なおさらではないか。十字架につけられるメシアなどあるものか。それはまったくメシアにふさわしくないことではないか。さあ、あなたはメシアなのだから、今こそ、十字架からおりて、自分がメシアであることを明らかにしてみよ。こう悪魔はイエス様を誘惑しているのです。

 けれども、イエス様はこのとき、全く別の仕方で御自分が神からのメシアであることをお示しになりました。イエス様は、イザヤ書第53章にある主の僕の預言を実現することによって、自らが神からのメシアであることを証明なされたのです。

 このことは、イエス様が荒れ野の誘惑をお受けになった場面を思い起こしていただければよくお分かりいただけると思います。そこには、悪魔からの3つの誘惑が記されています。悪魔はどれも「あなたがもし神の子なら」と誘惑しました。それに対してイエス様はどれも聖書の御言葉をもってお答えになったのです。イエス様は、神の御言葉に聞き従うことによって、御自分が神の御子であるということをお示しになられたのです。超自然的な力を振るうことによってではなくて、神の御言葉に聞き従うことによって、御自分が神の御子であることをお示しになられたのです。今朝の十字架の場面でもそれは同じであります。イエス様は、神の御言葉に聞き従うことによって、つまり、イザヤ書53章の預言に忠実に従うことによって、御自分が神からのメシアであることを証しなされたのです。

 このことは、悪魔の誘惑に日々さらされている私たちが覚えておくべきことであります。私たちは、イエス・キリストを信じることによって神の子とされております。それならば、なぜ、今、あなたは病の中にあるのか。なぜ、今、あなたは悩み苦しみの中にあるのか。そのような問いが私たちに迫ってくる。そして、それは往々にして私たちの内から沸き起こってくるのです。私たちはイエス様と違って、罪をもって生まれてくる者たちであります。ですから、私たちの内から、悪魔の誘惑とも呼べるものが沸き起こってくるのです。そのとき、私たちが思い起こさなくてはならないことは、十字架の死に至るまで従順であられた主イエス・キリストのお姿であります。私たちが、健やかで、裕福で、この世的な基準からして幸福であるから、私たちは神の子であるのではないのです。忘れてはならないのは、私たちは、主イエス・キリストにあって、神の子とされているということであります。その主イエス・キリストは、どのようにして御自分が神の御子であることを証しなされたのか。それは何といっても、父なる神の御言葉に聞き従うということによってでありました。それと同じように、私たちが自分をキリスト者であると世に知らしめるのは、ただキリストの言葉に聞き従うことによるのです。たとえ、今、苦難や病の中にあったとしても、キリストの言葉に聞き従い生きるところに、私たちの神の子としての証しがあるのです。

 イエス様をののしった犯罪人の言葉と議員たちや兵士たちの言葉を比べると明らかに違うところがあります。それは犯罪人が「我々をも救ってみろ」と言って、自分たちの救いを求めているということです。そもそも、十字架の刑を受けている者が、その同じ刑罰を受けているものをののしることは珍しいことであったと思います。けれども、この犯罪人の一人は、その苦しみの中にあってもイエス様をののしらなくては気が済まなかったと思うのです。なぜなら、彼はユダヤ人であり、さらには、熱心党の一人であったと考えられるからです。そのように考えるとき、メシアという言葉を聞いて、この犯罪人が黙っておれなかった理由がよく分かります。なぜなら、もし彼が熱心党の一人であったならば、彼はメシアの支配を実現するために、異邦人であるローマの支配に立ち向かった者であったからです。自分たちが待望してきたメシア、そのメシアという言葉が十字架の下から聞こえてくる。そのとき、彼は何とも言えない怒りを覚えたのではないか。その怒りから「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしりの言葉が沸き起こってきたのではないか、そう考えられるのです。

 しかし、もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 イエス様と一緒に十字架につけられている二人の犯罪人はどうやら仲間であったようです。なぜなら、イエス様をののしった犯罪人も「我々を救ってみろ」と言っていますし、この犯罪人も「我々は自分のやったことの報いを受けている」と語っているからです。この二人は仲間であった。そして、同じような罪を犯し、同じように十字架につけられているのであります。けれども、イエス様を見る見方は、ここで全く異なっているのです。

 もう一人の犯罪人は、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」と申しました。この犯罪人たちがユダヤ人であることは確かであります。ですから、自分たちがこれから呪いの死を死んでいくことを知っていたはずです。人は死んだ後にどうなるのか。それも呪いの死に定められて死んだ者はどうなるのか。かつてイエス様は、第12章で弟子たちにこう仰せになっています。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。このイエス様が仰せになったことと同じようなことを、もう一人の犯罪人はここで口にしているのです。

 私たちが、神に思いを向ける時、それは何より死の時であります。葬儀において語られる説教こそ、死から復活というキリストの福音が現実味を帯びてくるところはないと思います。いつも聞き慣れている福音の言葉が、身近な人の死を前にした私たちの心に染み込んでくる。もし、そこで、キリストの福音が語られなければ、私たちはその人の死を受け入れることはできない。その葬儀に集う誰もが、キリストの福音を聞きたい、それによって慰めを与えられたいと心から願い集うのです。他人の死においてもそうであるならば、自分の死を前にしては、なおさら神に思いを向けざるを得ないのではないかと思います。そうであるならば、十字架につけられ、今死のうとしている自分たちがすべきことは、神を恐れることではないのか。自分の罪を嘆き、悔い改めることではないのか。こう、もう一人の犯罪人はたしなめているのです。

 ご存じの通り、私は神戸改革派神学校を卒業いたしました。神学生としての学びは3年3ヶ月でありますけども、その間に2回、夏期伝道の奉仕をいたします。7月と8月の2ヶ月間、牧師のいない教会や伝道所に住み込んで、奉仕をするわけです。私のはじめての夏期伝道は仙台カナン教会でありました。今は、吉岡先生が牧会しておりますけども、その当時はまだ無牧でありました。その仙台カナン教会の会員に、重い病を得て、ホスピスに入院されている男性がおられたのです。顔がガンになるという重い病で、あと少ししか生きられないだろうと医師から宣告されていた人です。その方を2度ほど、教会の執事さんたちと共にお訪ねしたことがあります。その時、奥様が仰ったことは、「主人は今、悔い改めへと導かれています」ということでありました。「主人は今、悔い改めへと導かれている」と言うのです。私は、正直申しますと、その言葉の意味がはじめはよく分かりませんでした。なぜ、死を前にして悔い改めへと導かれているのか、よく分からなかったのです。その方と共に、聖書を読み、お祈りをいたしました。そして、その方が何か讃美歌を歌いたいと願われたのです。婦人の執事の方が「先生、どれか讃美歌を選んでください」と言われました。私はひどくあわててしまいました。このような時にどのような讃美歌を歌えばよいかが分からなかったのです。その時、その方が352番を歌いたいと仰せになったのです。352番は、それは、こういう歌です。

 あめなるよろこび/こよなき愛を/たずさえくだれる/わが君イエスよ/すくいのめぐみを あらわにしめし/いやしきこの身に/やどらせたまえ

 これから、死に赴こうとするこの方が、選んだ歌それが352番でありました。その方が「わが君イエスよ、いやしきこの身に宿ってください」と祈り歌うのです。私は、この讃美歌を共に歌うことを通して、先程の奥様の言葉の意味がようやく分かったのです。「いやしきこの身に やどらせたまえ」と力強く歌うその姿を通して、「悔い改めへと導かれている」という言葉の意味が分かったのであります。

 信仰の先人たちは、自分の死を前にして、友人を呼び寄せ、主にあって赦しを乞うたと言われています。また、自分は絶対あの人を赦さないと思っていた相手に、「主にあって赦します」と伝えたと言われます。それは、主イエスに出会うための備えでありましょう。このように、死は、私たちの思いを悔い改めへと導くのです。

 もう一人の犯罪人は、イエス様と自分たちが同じ刑罰を受けていると申しました。けれども、それではイエス様にも自分たちと同じような罪があったのかと言えば、決してそのようには申しておりません。41節であります。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」

 ここで、もう一人の犯罪人は自分の罪を認めております。自分の罪の大きさ、それがこの刑罰に価することを認めているのです。自分の口で認めたのです。お前はこのような刑罰を受けても当然だと、他人から言われたのではなくて、自分の口で私は悪いことをした。私はこのような刑罰を受けて当然のものだと語ることができたのです。そればかりか、「この方は何も悪いことはしていない」とイエス様を弁護したのです。これは真に驚くべきことです。なぜ、この犯罪人はイエス様についてこのように言い切ることができたのか。イエス様の弟子として生活を共にしてきたわけでもないこの男が、なぜこのようにイエス様について語ることができたのか。それは、おそらく、34節に記されている主イエスの祈りをこの男も聞いたからでありましょう。自分を殺そうとする者にために執り成しの祈りを主イエスはなされた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしていているのか知らないのです」と主イエスは自分を殺す者のためにお祈りになられた。その言葉を聞いて、もう一人の犯罪人は、イエス様は何も悪いことはしていないと言い切ることができたのであります。イエス様のご人格に触れたのです。この犯罪人は、イエス様はここで出会ったのです。ですから、彼はイエス様は何も悪いことはしていないと言い切ることができたのです。

 そして、彼は、イエス様に対してこう申します。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。

 ここで、この犯罪人は、イエス様を「この男」とか「お前」とは呼ばずに、イエスという名前で呼びました。これは大切なことだと思います。イエスという名前で呼んだのです。イエス様と交わりを持ちたいからです。名前を呼ぶ、それはその人の人格と向き合いたいということであります。そして彼は、「あなたが、あなたの御国においでになるときに、どうかわたしを思い出してください」と願うのです。「あなたがあなたの御国においでになるとき」。これはイエス様のメシアとしての支配が実現する時ということであります。ここで、この犯罪人は、イエス様を政治的なメシアとしてではなく、もっと深いメシアとして捉えているのです。イエス様の十字架の死が、メシアとしての挫折ではなくて、むしろ御国を実現するものであると言い表しているのです。これは奇跡のような言葉であります。そして、その時、どうかわたしを思い出してくださいと願っているのです。

 この犯罪人は、今、十字架という呪いの死を死のうとしています。呪いの死を死ぬいうこと、それはお前など、生まれてこない方が良かったと皆から言われて死んでいくということであります。この地上から、汚物のように取り除かれてしまうということであります。そのような者のことを誰が覚えているでありましょうか。呪いの死に引き渡される者は、誰の記憶にも残らず死んでいくのです。その名前さえも忌まわしい者として口にのぼらなくなる。その人の名前を誰も呼ばない。しかし、それは私たち人間にとって真に堪えがたいことであります。この私が生きていたことを、誰かに覚えていてもらいたい。こう私たちは願うのであります。そして、この犯罪人は、ここでイエス様にそのことをお願いしているのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国においでになるときは、このわたしをどうか思い出してください。わたしがいたということを思い出してください」。それに対してイエス様はこう仰せになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、わたしはあなたに言う」となります。これは、イエス様が絶対的な権威をもって語り出すときの決まった言い回しであります。イエス様は神の御子としての権威をもって「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださったのです。これは、犯罪人が願ったことよりも、遥かに大きな祝福であります。ここで「楽園」と訳されている言葉を、口語訳聖書は、パラダイスと記しています。このパラダイスの方が元の言葉に近いものであります。パラダイス、これは、元々古代ペルシャの言葉で塀で囲まれた庭園を意味しておりました。古代ペルシャの王様が作られた庭、それは、どれほど美しくすばらしいことでありましょうか。しかし、それは高い塀で囲まれて見ることはできない。そこに入ることができるのは、極限られた人々だけでありました。そのようなあこがれを込めて、人々はこのパラダイスという言葉を用いたのであります。

 ヘブライ語の旧約聖書をギリシャ語に翻訳した七十人訳聖書では、このパラダイスという言葉は、エデンの園を表す言葉として用いられております。はじめの人類であるアダムとエバが罪を犯すことによって追放されてしまった、あのエデンの園であります。そして、イエス様の時代、ユダヤ人たちは、神の国が完成する時、あのエデンの園のような世界が回復されると信じていたのです。そのような信仰がこの43節のイエス様の言葉の背後にあるのです。パラダイス、それは神に義とされた者だけが入ることのできる楽園であります。その楽園に、今日あなたはわたしと一緒にいるとイエス様は言われたのです。いつか先の話しではありません。今日であります。十字架に架けられ、死のうとしている今日であります。私たちが礼拝の中で告白していますウェストミンスター小教理問答の問37が教えているように、信者の霊魂は死の時、全く清くされ、直ちに栄光へと入れられるのであります。

 この犯罪人が最後に聞いた言葉、それは呪いの言葉ではなくて、祝福の約束でありました。いや、救いの宣言と言ってもよいと思います。この犯罪人は呪いの死に引き渡されることを恐れていたのです。けれども、イエス様は、「今日はわたしと一緒にあなたは、パラダイスにいる」と約束してくださったのです。この犯罪人はその生涯の最後に、メシアとしてのイエス様に出会うことができたのです。いや、こうも言うことができます。イエス様はこの犯罪人に出会ってくださるために、今、十字架に架かってくださっているのだと。かつてイエス様は、「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と仰せになりました。その罪人とは、どのような罪人なのか。それは十字架につけられるほどの罪人であります。呪いの死に引き渡される、その罪人であります。私たちは、ここに、イエス様が罪人である私たちを救うために、どれほど自らを低くされなければならなかったのかを見ることができるのです。

 私たちの教会は、「イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」という信仰義認の教理を大切にしております。今朝の御言葉で教えられることは、まさにこのことでありますね。この犯罪人は、自分でも言っているように、死刑にされても当然な罪を犯したものであったのです。呪われて当然であった。けれども、主イエスは、その犯罪人に対して、「あなた今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。それは、なぜなのか。それは、この犯罪人が自らの罪を認め、悔い改めて、十字架につけられたイエス様こそが、メシアであると信じたからであります。いや、もっと言えば、イエス様は、この犯罪人のためにも、呪いの死を死のうとしておられるからです。それゆえに、このイエス様の言葉は真実なのであります。この犯罪人は、このイエス様の言葉を信じて、安らかに神の御許に赴くことができたのです。

 イエス・キリストを信じるということ。それは、死後の刑罰を恐れて、死んでいくのではありません。死んだ後どうなるのか、そのことを恐れて死んでいくのではありません。イエス・キリストを信じるということ。それは、私たちがどんなに罪深い者であったとしても、主イエスのおられる楽園に入ることができることを信じることであります。私たちが死を前にして聞くその言葉、それは「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」、この主イエス・キリストの約束の言葉であるのです。

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