十字架のとりなし 2006年5月14日(日曜 朝の礼拝)

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十字架のとりなし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章32節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。ルカによる福音書 23章32節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは今、イエス様が十字架につけられる場面を共に読み進めています。十字架刑、これはローマ帝国における処刑方法でありました。それも最も重い罪を犯した者に課せられる刑罰であったのです。ローマ皇帝の支配に逆らい、謀反を起こした者はこの十字架刑に処せられたと言われています。イエス様もその十字架刑をローマの総督ポンテオピラトによって宣告されたのです。けれども、これまで見てきたように、ピラトは、イエス様に何の罪も見出すことができませんでした。ピラトは、イエス様に裁くべき罪がないことを3度も主張しております。ローマの法律に照らし合わせても、イエス様には何の罪も見出せなかったのです。それはそうでありましょう。なぜなら、祭司長たちを初めとする指導者たちがイエス様をピラトのもとに連れてきたのは、イエス様が自分を神と等しいものであると主張しているという宗教的な問題であったからです。けれども、ピラトは、祭司長たちと言葉を交わす中で、バラバを釈放し、イエス様を十字架に引き渡すという祭司長たちの思惑に引きずり込まれて行きました。また、民衆も同じでありました。祭司長たちを初めとする最高法院の決定は、神の名によるものであり、それに従わない者は死刑に処せられるべきであると申命記の18章には記されています。それゆえ、民衆も最高法院の決定に従って「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだのです。そして、ピラトはその人々を恐れて、彼らの要求通り、イエス様を十字架へと引き渡したのです。

 十字架刑に処せられた死刑囚は、自分でその十字架の横木を担いで、処刑場へと向かったと言われます。また、その前に、ひどく鞭を打たれたと言われています。イエス様が、途中で十字架を背負うことができなかったことは、この時、イエス様が大変衰弱しておられたことを教えているのです。このイエス様の後を民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して従って来ました。彼女たちは、イエス様のお姿に深い同情を寄せ、悲しみの涙を流したのです。しかし、イエス様はその婦人たちの方を振り向いてこう言われました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」

 今、これから殺されようとしているイエス様が心を砕かれたこと。それは、自分のことではなくて、エルサレムの婦人たちやその子供たちのことでありました。それは、イエス様が御自分の裁きに、エルサレムの裁きを重ねて見ていたからであります。いや、エルサレムがより恐ろしい裁きを受けなければならいないことを見ていたのです。イエス様は、その最後で、「『生の木』さえもこうされるなら、『枯れた木』はいったいどうなるだろうか」と仰せになります。火にくべられるのは、まず枯れ木であります。それは、枯れ木がよく燃えるからです。しかし、ここでは生の木、青々とした木が、その幹から切り取られて、燃やされようとしている。それほどまでに、神の裁きの炎は燃え上がっているのです。罪のないイエス様さえ十字架につけられるならば、罪人であるあなたたちは、どれほどの裁きを覚悟しなければならないだろうか。そのことを思って、自分と子供たちのために涙を流せを言われたのであります。古代の世界において、女性と子供は社会的に弱い立場に置かれておりましたけども、イエス様はここでも、その女性と子供に心を砕いておられるのであります。

 さて、今朝の御言葉であります32節から33節をお読みいたします。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこでイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に一人は左に、十字架につけた。

 ここに、二人の犯罪人がイエス様と一緒に十字架につけられたことが記されています。これは、最後の晩餐の席においてイエス様が弟子たちに予告しておられたことでありました。イエス様は22章37節でこう言われていたのです。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」

 このイエス様の言葉は、二人の犯罪人と一緒に十字架につけられるということによって実現したのです。そして、それは旧約聖書の預言、イザヤ書第53章に記されています主の僕の姿でもあるのです。

 十字架につけられたイエス様は、その時こう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 これは、まことに驚くべき言葉であります。自分を殺そうとする者たちのために、イエス様は父なる神に赦しを願い求められた。イエス様は、執り成しの祈りを為されたのです。十字架につけられた者の口から出る言葉、それは通常、汚い言葉、呪いの言葉であります。自分をこのような苦痛へと引き渡した者たちを呪う、その呪いの言葉であります。けれども、イエス様は、そうではありませんでした。イエス様は自分を十字架につける者たちのために父なる神の赦しを祈り求められたのです。先程私は、イエス様は御自分のことよりもエルサレムの娘たちとその子供たちに心を砕かれたと申しましたけども、ここでもイエス様は、自分よりも他者のために、それも自分を十字架につける者のために、心を砕いておられるのです。かつてイエス様は平地の説教において、弟子たちにこう仰せになりました。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者には祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」 

 敵を愛し、侮辱する者のために祈るということ。それがどのようなことなのかをイエス様は身をもってお示しになっているのです。そして、このとりなしの祈りによって、イエス様こそが、イザヤ書が預言した苦難の僕であることがいよいよ明かとされるのです。イザヤ書の第53章11節から12節にはこう記されております。

 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼は自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 多くの人を罪を自ら背負い、罪人の一人に数えられ、背いた者のために執り成す主の僕の姿、それはまさに、主イエス・キリストのそのお姿であるのです。

 このイエス様のお姿とは全く対象的に、続けて、くじを引いてイエス様の服を分け合うローマ兵の姿が記されています。これは、死刑を執行する者が死刑囚の持ち物を自由にできた、当時の貧しさを教えるものでありますけども、これは同時に詩編第22篇19節の預言を実現するものでありました。詩編の22篇17節から19節にはこう記されています。

 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとくじを引く。

 十字架につけられたイエス様をここでは様々な人々が取り囲んでおります。そこには、民衆がおり、議員たちがおり、ローマの兵たちがいたのです。先週も申し上げましたけども、ここで「民衆」と訳されている言葉は、神の民を表す言葉であります。ルカによる福音書において、この民衆は祭司長たちと共にイエス様を十字架につけろと叫ぶのでありますけども、十字架につけられたイエス様を嘲ることはしないのです。むしろ、イエス様がかつて沈黙をなされたように、ここで民衆は口をつぐんで、じっと十字架につけられたイエス様に目を注いでいたのです。けれども、議員たちはあざ笑ってこう言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 ここで議員たちも、イエス様が他人を救ったということは認めています。イエス様は、これまで、病を癒し、悪霊を追い出し、盲人の目を見えるようにし、死人を生き返らせ、神の国の福音を告げ知らせてきました。そのような仕方でイエス様はこれまで多くの人々を救ってきたのです。そのことを議員たちもここで認めております。しかし、それならば、イエス様が救い主であることを認めるかと言えばそうではないのです。むしろ、だから自分を救うことができるであろうとイエス様を嘲るのです。ここで、議員たちは深く考えずにおそらく語っているのだと思いますけども、ここで彼らがイエス様について語っていることはどれも真実であります。イエス様がどのようなお方であるかを正しく言い当てているのです。「神からのメシア」、これは第9章に記されている、ペトロの信仰告白と全く同じ言葉であります。また、「選ばれた者」は、同じく第9章の山上の変貌において、弟子たちが聞いた神の声でありました。9章の35節を見ますと、「すると『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」と記されています。さらに、この「選ばれた者」という名称は、イザヤ書第42章の主の僕についての最初の預言にも用いられているのです。イザヤ書第42章1節から2節にはこう記されています。

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。

 議員たちは、イエス様について、「神からのメシアで、選ばれた者」と申しました。ここで議員たちは真に正しくイエス様について言い当てているのです。けれども、それは「もし」とありますように、信仰の告白ではありませんでした。彼らは正しくイエス様について述べているのではありますけども、それは不信仰の言葉、嘲りの言葉に過ぎないのです。なぜ、彼らはイエス様を信じないのか。それはイエス様があまりにも無力であられたからです。何の抵抗をすることもなく、十字架につけられてしまったからです。彼らにとって、十字架につけられてしまうメシアなどは考えられない。ですから、自分を救うことによって、つまり十字架から降りることによって、神からのメシアであり、選ばれた者であることを証明してみよと議員たちはあざ笑ったのです。ここに、彼らが待ち望んでいたメシアがどのようなメシアであったのかがよく表れています。彼らが待ち望んだメシア、それは圧倒的な力によって君臨し、ローマの支配を打ち破るメシアでありました。彼らが待ち望んでいたメシア、それは決してローマ兵の手によって、十字架で殺されてしまうようなメシアではなかったのです。

 そして、この議員たちの嘲りを通しても、先程引用しました詩編第22篇の御言葉が実現しているのです。詩編22篇の8節から9節にはこう記されています。

 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくれるだろう。」

 兵士たちもイエス様に近寄り、酢いぶどう酒を突きつけながら侮辱してこう言いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 酢いぶどう酒は、ローマ兵が飲み物としていたもので、質の悪いものでありました。それを彼らはユダヤ人の王であるイエス様に突きつけることによって侮辱したのです。本来、王様は、上等なぶどう酒を飲むものでありますけども、その王様に酢いぶどう酒を突きつけることによってイエス様を侮辱したのです。そして、それがユダヤ人の王にはお似合いだと戯れてみせたのです。そしてここでも、旧約聖書の預言が実現しているのです。詩編第69篇20節から22節にはこう記されています。

 わたしが受けている嘲りを/恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ/わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず/慰めてくれる人も見いだせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。

 ローマ兵たちは、イエス様を「もし、ユダヤ人の王なら」と申しました。そして、事実、イエス様の頭の上には「これはユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられていたのです。兵士は、王に仕えるものです。この兵士たちも百人隊長に仕え、最終的にはローマ皇帝という王に仕えるものたちでありました。その兵士たちから見ても、イエス様はちっとも王らしくない。自分たちが仕えるには価しない。それでも王様か。王様なら、王様らしく振る舞ってみろ。そう兵士たちもイエス様を嘲ったのです。

 ここで、議員たちと兵士たちに共通していること、それは自分にも救いが必要であるとは決して思っていないということです。議員たちは、イエス様が他人を救ったと申しましたけども、それなら、私たちも救ってくれと願い出たのではありません。自分たちのことはすっかり忘れてしまっている。イエス様は、エルサレムの婦人たちに自分と自分の子供たちのために泣けと仰せになりましたけども、そのように言わざる得ないように、議員たちも、そして兵士たちも自分たちのことをすっかり忘れてしまっている。彼らからすれば、何より救いが必要なのは十字架につけられているイエス様である。そこで、彼らはイエス様よりも優位に立っている。少なくとも、十字架につけられているこの男よりも自分たちに救いが必要だなどとは考えてもいない。神からのメシアと呼ばれるイエス様を辱めることによって、いい気持ちになってしまっている。他人を引き下げることによって、自分をその人の上に置いていい気持ちになっている。この議員たちや兵士たちの気持ちを、私たちも知らないわけではないと思います。

 けれども、ここで救いを必要としているのは、本当にイエス様なのでしょうか。そうではないのです。ここで、救いを必要としているのはイエス様ではない。むしろ、主の僕であるイエス・キリストに敵対し、神に逆らう者たちにこそ、救いが必要なのです。自分が何をしているか分からないほどに、悪魔の支配化に置かれてしまっている。自分を見失ってしまっている彼らこそが、救われるべき存在なのであります。

 議員たちは、「もし、神からのメシアで、選ばれた者なら」と申しました。また、兵士たちは、「もし、お前がユダヤ人の王なら」と申しました。これは、私たちに、荒れ野の悪魔の誘惑を思い起こさせます。悪魔は、イエス様に「もし、神の子なら」と呼びかけ、イエス様の力を御自身のために使うようにと誘惑したのでありました。イエス様にとって、十字架から降りるということはおそらくたやすいことであったと思います。イエス様のお力をもってすれば、それはたやすいことであったと思います。けれども、イエス様はそのようにはなさいませんでした。なぜなら、イエス様は自分を救わないことによって、他人を救う、救い主であられたからです。議員たちは、イエス様が十字架につけられたことは、神からのメシアではないことの証拠であると考えました。十字架につけられる、そんなメシアがあるものか。よって、この男はメシアではないと考えたのです。けれども、事実はそうではないのです。イエス様は自分を救わなかった。自分を救わなかったがゆえに、神からのメシアであられたのであります。イザヤ書第53章にありますように、イエス様は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら担う救い主であられたのです。

 今朝の説教題を「十字架のとりなし」といたしました。この言葉を聞いて、私たちは、すぐに34節のイエス様のお言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」、この言葉を思い起こすと思います。けれども、この祈りの言葉は、口先だけのものではない。イエス様の人格、イエス様の存在、その全てから溢れ出てくる言葉なのです。少し前に、イエス様の沈黙についてお話しをいたしました。イエス様は、裁かれているにも関わらず口を閉ざし続けられた理由。それはイエス様が父なる神に全き信頼をおいていたからであると申し上げました。しかし、そこにあえて付け加えるならば、口を閉ざしたイエス様の心を占めていたものは真に深い悲しみではなかったかと思います。イエス様の心は、悲しみに引き裂かれそうになっていたのではないかと思うのです。なぜ、祭司長たちは自分を殺そうとするのか。なぜ、神から遣わされた自分を神の民は受け入れようとしないのか。なぜ彼らは自ら破滅を招いしまうのか。エルサレムの娘たちが嘆き悲しむよりも、遥かに深い悲しみをもって、イエス様は悲しんでおられたのではないかと思うのです。その悲しみが、十字架の上で、今叫びとして放たれるのです。それが「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」という叫びであったのです。それは自分を他のところにおいて、あの人たちはかわいそうという悲しみではありません。ここでイエス様は、その悲しみに気づかない彼らに変わって悲しんでおられるのです。まさにユダヤ人の王として、彼らのメシアとして悲しんでいるのです。その悲しみのゆえに、イエス様は自らを救わない。自らを救わないメシア、私たちに代わって十字架に死に給うメシア、それが私たちの主イエス・キリストであります。イエス・キリストは、御自分の命という代価を払って、ここに集う私たちを、自分が何をしているのか分からなかった私たちを、罪と死の支配から救い出してくださったのです。

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