人々の叫び 2006年4月30日(日曜 朝の礼拝)

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人々の叫び

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章13節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、
23:14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。
23:15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。
23:16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
23:17 (†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。
23:18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
23:19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。
23:21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。ルカによる福音書 23章13節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様がガリラヤ人であることを知ったローマの総督ポンテオ・ピラトは、イエス様の身柄をガリラヤの領主ヘロデのもとへと送ります。時は、過越の祭りの時期であり、ヘロデもエルサレムに滞在していたのです。おそらくこの時、ピラトはほっと胸をなで下ろしたことでありましょう。なぜなら、最高法院が訴えてきた厄介な問題に関わらずに済むかも知れないと思ったからです。もし、ユダヤ人が言うとおりの罪がこの男にあるならば、領主であるヘロデが裁いてくれるであろうと考えたのです。けれども、ヘロデは、イエス様を兵士たちと一緒に嘲り、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトのもとへと送り返してきました。12節に、「この日、ヘロデとピラトは仲が良くなった。それまでは互いに敵対していたのである」と記されています。互いに敵対していた二人がこの日を境に仲が良くなった。それはどうしてでしょうか。ある研究者はこのように説明しています。「ピラトはイエスの身柄をヘロデのもとへと送ることによって、ヘロデの領主権を認めたことになった。逆にヘロデはピラトにイエスの判決を委ねることによって、総督への敬意を表するかたちになったからである」と。イエス様の裁判を通して、ヘロデとピラトは互いの政治的立場を認め合うことになった。ここに、互いに敵対していた二人が仲良くなった理由があるのです。ピラトは、ヘロデのもとからイエス様が送り返されてきたことに当惑しながらも、ヘロデが自分を総督として重んじたことをうれしく思ったのです。

 13節から16節をお読みいたします。

 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆を呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返して来たのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 ここで、私たちは、イエス様の裁きの輪が広がっていることに気がつきます。これまでは、ピラトと最高法院のメンバーだけであったのが、そこに民衆が加わっているのです。つまり、ここに来てイエス様の裁きに、全ての人々が関わるようになっているのです。ここで、「民衆」と訳されている言葉は、神の民を表すラオスという言葉です。マルコによる福音書やマタイによる福音書を見ますと、イエス様の裁きの場面に出てくるのは群衆であります。しかし、ルカはここで群衆と訳される言葉を使わないで、神の民を表すラオスという言葉を用いているのです。まさに祭司長たちと議員たちと民衆は、神の民イスラエルを代表する者として、この所に呼び集められているのです。

 ピラトは、4節で宣言したのと同じように、「訴えているような犯罪はこの男に何も見つからなかった」と宣言いたします。そして、それはヘロデとても同じであったと言うのです。なぜなら、ヘロデは、イエス様を侮辱したあげく、派手な衣を着せて送り返して来たからです。ヘロデは、祭司長たちの訴えを、とんだ冗談だと笑い飛ばしたのです。また、先程も申しましたように、もし祭司長たちの訴えをヘロデが重く受け止めたならば、イエス様を送り返さずに、その身柄を勾留し、自分で裁いたことでありましょう。旧約聖書の申命記第19章には、「いかなる犯罪であれ、二人ないし三人の証人の証言によって、立証されなければならない」とありますが、ここで、ピラトとヘロデの2人が、イエス様に何の罪もないことを証言しているのです。

 ピラトは、裁判官でありますから、イエス様を無罪と宣言することによって、法廷を終わりにしてしまえばよかったのです。しかし、彼は続けてこう言ってしまうのです。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 これまで、ピラトは、イエス様に「何の罪も見いだせない」と言っていたのに、ここでは「死刑に当たるような罪は何もしていない」と語っています。これでは、聞きようによっては、死刑に価する罪は犯していないけども、鞭打ちに価するような罪は犯した、と言っているように聞こえます。なぜ、「何の罪も見いだせない」と言っていたピラトが、「死刑に当たるような罪は何もしていない」と言うようになったのか。それは、ピラトがユダヤ人たちを恐れたからであります。頭に血が上ってしまっているユダヤ人たちが暴動を起こすのではないか。そうすれば、ローマ総督としての自分の立場が危うくなるのではないかと恐れたのです。そして、ユダヤ人たちに入らぬ気をつかい、死刑にはしないけども、鞭で懲らしめて赦してやろうと提案したのであります。

 しかし、人々は一斉に「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫びました。神の民である人々が「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだのであります。烏合の衆である無責任な群衆が叫んだのではありません。神の民である人々がこの言葉を叫んだのです。なぜ、ここで突然人々は、「バラバを釈放しろ」と叫んだのか。その事情は、この頁には記されておりませんけども、17節を読むと分かります。ルカによる福音書の最後の頁、162頁に、「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」と記されており、そこに23章17節が記されています。有力とされる写本には、この17節はないのですが、いくつかの写本にはあるので、補足としてここに記されているのです。おそらく、この17節は、読者の理解を助けるために、書き写していく段階で、後から書き加えられたものであろうと考えられています。その17節には、こう記されています。「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらねばならなかった。」

 法律の言葉に「恩赦」という言葉があります。恩赦とは、行政権によって犯罪者に対する刑罰権の全部または一部を消滅させる処分を言います。簡単に言えば、罪に対する刑罰を帳消しにしてあげるということです。そして、この恩赦は、しばしば国のお祝い事の際になされたのでありました。どうやら、この恩赦のことがここで言われているようです。つまり、慣習としてピラトは、過越の祭りごとに、民衆が望む囚人を一人釈放していたのです。

 157頁に戻ります。それでは、このバラバという男はどのような男であったのか。19節によれば、「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」と記されています。イエス様は、民衆を惑わし、皇帝の支配に逆らう王たるメシアとして訴えられましたけども、このバラバこそが、エルサレムで暴動を起こし、殺人まで犯したローマへの反逆者であったのです。人々はイエス様にそのような疑いをかけ、殺そうとしている。しかし、実際にそのような罪を犯したバラバを釈放せよと彼らは叫ぶのです。これは何という矛盾でありましょうか。しかも、新共同訳聖書は記しておりませんが、「バラバを釈放しろ」という言葉の前には、「私たちのために」という言葉が記されているのです。人々は、ローマの支配に対して立ち上がろうとしないイエス様よりも、ローマの支配に武力を持って立ち上がったバラバの方を選び取ったのです。神の民イスラエルは、神から遣わされたイエス様を捨てて、人殺しであるバラバを自分たちのために釈放せよと要求するのです。

 20節に「ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた」とあります。ここまで来ると、もう事態は後戻りできなくなっているようです。そもそも、イエス様の裁判と、祭りのたびごとに囚人の一人を釈放するという慣習は、別のことでありました。ピラトは、裁判官として、イエス様を無罪のゆえに釈放し、それから、人々の意向に従って、バラバを釈放することもできたはずでありました。けれども、話しはいつの間にか、「イエスか、バラバか」という二者択一の選択へと進んでしまっているのです。なぜ、このようになってしまったのか。その原因の発端は、ピラトがイエス様に何の罪も見出せなかったにも関わらず、ユダヤ人の機嫌を取るために、鞭で懲らしめて釈放しようと提案したことにあるのです。そもそも、ピラトは民衆に提案する必要などなかったのです。自分は裁判官なのですから、権威を持って宣言し、閉廷すればよかったのです。しかし、ピラトはユダヤ人たちと駆け引きを始めてしまいました。あなたたちの思いを少しでも満足させるために、鞭で懲らしめてから釈放しようではないか。そうピラトはユダヤ人たちに提案を持ちかけてしまったのです。

 「何の罪も見いだせない」という宣言が、やがて「死刑に当たるような罪はない」という宣言となり、イエス様の有罪はいつしか議論の前提となりました。そして、いつしか、祭りの度に、囚人を一人釈放するという慣習の話題と一体的となり、イエスか、バラバかのどちらかを選択するという問題となってしまったのです。

 ピラトがイエス様を釈放しようとしたのは、当然のことでありましょう。なぜなら、彼は、イエス様に何の罪も見出すことができなかったからです。そのような者を、十字架につけて殺すということがあってはならないと彼は考えていたはずです。罪にはその大きさによってふさわしい刑罰というものがあります。何の罪もない人を罰するということ、それも極刑である十字架の刑に処することは、あってはならないと彼は考えたはずです。また、ピラトは、バラバを釈放したくはなかったと思います。なぜなら、バラバこそ、祭司長たちが訴えているところの者であり、ローマに反逆する危険人物であったからです。しかし、人々はイエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました。ピラトは三度目にこう申します。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 今朝の御言葉で、ピラトは、三度もイエス様の無罪を宣言しています。結局、イエス様は十字架につけられ処刑されるのでありますけども、ローマの総督ポンテオ・ピラトは、イエス様に対して、三度も罪はないと宣言したのです。それなら、なぜ、イエス様は十字架につけられるのか。それはユダヤ人、神の民であるイスラエルの人々がイエス様を十字架につけるようにとあくまで要求し続けたからです。

 私たちは、なぜ、これほどまでに人々が十字架の刑を望むのかと不思議に思います。神殿の境内で、朝からイエス様のもとに集まって熱心に耳を傾けていた人々はどこへ行ったのだろうか。イエス様の処刑に反対する人はいなかったのかしらと不思議に思うのです。けれども、「その声はますます強くなった」と記されているように、民衆は、十字架につけろと叫び続けたのです。なぜでしょうか。それは、イエス様の有罪が、何よりユダヤの最高機関である最高法院において決議されたことだからであります。ユダヤ人である彼らが、異邦人であるローマの総督が何と言おうと、自分たちの指導者たちの判断が正しいと考えたことはむしろ当然のことでありました。なぜなら、最高法院の判決は、神の名によるものであったからです。最高法院は、イエス様を、神の名によって有罪と定めたのです。ですから、ローマの総督が何と言おうと、人々はイエス様の有罪を信じ疑わなかったのです。いや、むしろ、憎むべきローマの総督がイエス様をかばえばかばうほど、民衆は逆に叫び続けたのではないかとさえ思うのです。

 私たちは信仰の告白として、イエス様が私たちに代わって、神の裁きを受けてくださったと申します。そして、まさにイエス様は、今、人々の手を通して、神の名による裁きを受けておられるのです。

 人々は「十字架につけろ」と叫びました。これは、ローマ帝国による処刑方法です。ユダヤの国には十字架につけるという処刑の仕方はありません。ユダヤの処刑方法は、石打の刑であったからです。ですから、イエス様はこの時、ユダヤ人としても処刑してもらえなかったのです。ある人は、このイエス様の死を「人でなしの死だ」と申しました。旧約聖書の申命記第21章によれば、木にかけられた死体は、神に呪われたものでありました。人々は、イエス様にその呪いの死を要求したのです。

 サムエル記上第8章を見ますと、イスラエルの民がサムエルに王を求めるという場面が描かれています。神は、時満ちて、イスラエルの民に、御子イエスを平和の王として与えてくださいました。しかし、祭司長たちをはじめとするイスラエルの民は、このイエスを拒絶し、呪いの死をもって、この地上から除いてしまおうとしたのです。

 

 ピラトは、人々の声がますます強くなることによって、彼らの要求をいれる決定をいたしました。ピラトは、裁判官として正義を貫くことよりも、イエス様を引き渡すことによって、ユダヤ人たちの憤りを宥めようとしたのです。このようにして、ピラトはユダヤ人たちによる暴動を回避し、自らの地位を守り抜いたのであります。そして、ここに、ピラトの罪があるのです。それは決して軽い罪ではありません。なぜなら、他でもないポンテオ・ピラトが、裁判官として、ユダヤ人の要求を入れることを宣言したからです。

 さて、今朝の御言葉をよんで、私たちは、どこに自分を見出すべきでしょうか。その答えは、イエス様を「十字架につけろ」と叫ぶ人々の中にであります。私たちがイエス様を十字架につけたということが分かる時、そこに私たちの救いの道が開けてくるのです。使徒言行録第2章に記されているペトロの説教にはこう記されています。新約聖書の215頁です。使徒言行録2章22節から23節までをお読みいたします。

「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」

 また、36節にはこう記されています。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 ここで、ペトロは、イエス様を十字架につけたのは他でもない「あなたがたである」と語っています。そして、イエス様を十字架につけたのが他でもない自分たちであるがゆえに、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねるのです。イエス・キリストを十字架につけたのは、この私であるということを知るとき、そこから命に至る悔い改めが始まるのです。

 私たちは、実際には「十字架につけろ」と声に出して叫んだことはないかも知れません。しかし、一体どれほど他人を呪う言葉を口にしたことでありましょうか。一体どれほど「死ね」という言葉を心の中でで叫んだことでありましょうか。他者の死を願う、それは呪いの言葉であります。私たちの心にうごめく殺意を、イエス様はここで、一身に浴びておられるのです。私たちが、もう誰も呪わなくていいようにと、イエス様はここで、全ての人の呪いの言葉を、お受けになってくださったのです。そればかりか、御自分を呪う私たち罪人の身代わりとして、イエス様は呪いの死を引き受けられるのであります。

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