沈黙するイエス 2006年4月23日(日曜 朝の礼拝)

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沈黙するイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
23:2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
23:3 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。
23:4 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
23:5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、
23:7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。
23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
23:9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
23:10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。
23:11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。
23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。ルカによる福音書 23章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 ユダヤの最高法院の人々は皆立ち上がり、イエス様をローマの総督ポンテオ・ピラトのもとへと連れて行きました。当時、ユダヤの国はローマ帝国の属州であり、ポンテオ・ピラトが総督としてユダヤの地を統治していたのです。全会衆が即座に立ち上がり、イエス様をピラトのもとに連れて行ったこと。これは、最高法院で、イエス様をピラトの手に渡し処刑することが決定済みであったことを教えています。先々週学びましたように、最高法院は、イエス様を連れ出す前から、イエス様をローマの手に引き渡して処刑することをもう決定していたのです。彼らはイエス様をピラトの前に連れ出し、こう訴えました。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」

 この訴えは、最高法院での尋問を土台としてなされているのでありますけども、ずいぶん内容がすり替えられていることが分かります。先ず始めに気づくことは、最高法院では宗教的メシアについて論じられていたのに、ピラトの前では、政治的メシアとして訴えられているということです。最高法院において、決定的な証言として受け取られたのは、イエス様が御自分を神の子であると証言したことでありました。実際には、イエス様は、「わたしは」とは言わず「人の子は」と言われたのでありますけども、最高法院の人々は、その「人の子」をイエス様自身を指すと理解し、それを決定的な証言であると判断したのです。よって、最高法院で問題とされたのはイエス様が自分を神と等しい者であると主張し、神を冒涜する罪であったのです。しかし、それがピラトに訴える時になると、ユダヤ民族を惑わし、皇帝に税を納めることを禁じ、自分を王とする政治的なメシアへとすり替えられているのです。それはなぜかと言いますと、ピラトの関心はもっぱら政治的なことにあったからであります。ローマの総督としてユダヤの地を治め、秩序を保つこと。それが彼の務めであり、彼の関心事であったのです。このことは、使徒言行録の18章を読むとよく分かります。使徒言行録の18章には、パウロがコリントで活動したことが記されています。そこで、ユダヤ人たちは一団となって、パウロを法廷に引き立てて行き、こう訴えました。「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」。それを聞いて地方総督ガリオンは、こう申しました。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分で解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」。そして総督ガリオンは、ユダヤ人たちを法廷から追い出したのです。

 もし、最高法院の人々が、「この男は、自分が今から後、全能の神の右に座る、神の子であると言っていることが分かりました」と訴えたとしたら、ピラトの口からも先程のガリオンと同じ答えが返ってきたことでありましょう。ですから、祭司長たちはピラトが自分たちの訴えを受理せざる得ないように、イエス様を皇帝に税金を納めることを禁じる政治的メシアとして訴えたのです。しかし、この訴えが偽りからなっていることは明かであります。祭司長たちは、イエス様を「わが民族を惑わしている」と訴えました。惑わすとは、正しい道から誤った道へと人々を導くことです。しかし、使徒言行録の3章に記されているペトロの説教によれば、イエス・キリストこそ、命への導き手であったのです。また、イエス様は皇帝に税を納めることを禁じたことはありませんでした。第20章20節以下に記されている「皇帝への税金の問答」によれば、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しさない」とお答えになっています。イエス様は、神が皇帝を立てられたがゆえに、皇帝が民から税金を徴収することを認められたのです。さらにイエス様は御自分が王たるメシアであると主張したことはありませんでした。むしろ、イエス様は人々のそのような期待から逃れようとしたのです。イエス様が御自分について「ダビデの子」とう称号を一度も用いなかったことは、そのことを教えているのです。また、ヨハネによる福音書の6章15節には、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」と記されています。このように、祭司長たちの訴えはどれも偽りであったのです。

 このような祭司長たちの訴えを受け、ピラトはイエス様に「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問しました。このピラトの尋問は単刀直入であります。「祭司長たちが、お前が王たるメシアであると主張したと訴えているが、それは本当なのか」とその真偽を問いただしたのです。それに対してイエス様は「それは、あなたが言っていることです」とお答えになります。これは最高法院でなされたのと同じ答え方です。つまり、イエス様は肯定しているとも、否定しているとも判断しかねる、どちらともとれる答え方をなされたのです。肯定的に解釈すれば、「わたしは、あなたが言っている通りのものである」と理解できます。しかし、否定的に解釈すれば「あなたが言っていることで、わたしはそんなことは言っていない」と理解できるのです。最高法院の人々は、このイエス様の答えを肯定的に理解しましたけども、しかし、ピラトはそれを否定的に理解したのです。それゆえ、ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と答えたのです。

 イエス様は、なぜ、ここでも「それは、あなたが言っていることです」と答えられたのでしょうか。つまり、肯定とも否定ともどちらにも解釈できる曖昧な答えをなされたのでしょうか。そのことを少し考えてみたいと思います。まず、私たちが知らなくてはならないことは、イエス様はこの問いに対して完全に否定することはできなかったということです。イエス様は、最高法院の「お前は神の子か」という問いに対しても、またピラトの「お前はユダヤ人の王なのか」という問いに対しても、「そうではない」と断言することはできなかったのです。なぜなら、イエス様は事実、神の子であり、ユダヤ人の王であるからであります。もし、イエス様が「そうではない」と否定すれば、それは自分を偽ることになってしまうのです。神の御子であるイエス様にとって、自分を偽ることは決してできないことでありました。テモテへの手紙二の2章13節にこう記されています。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」。キリストは御自身を否むことができない。それゆえに、イエス様は彼らが悪意をもって質問していることを知りながらも、「そうではない」と否定することはできなかったのです。しかし、そうかと言って、完全な肯定もいたしませんでした。「わたしはそうである」とは断言されなかったのです。イエス様を何者というかは、イエス様本人の口から語られるものではなくて、人々の口から信仰の告白としてなされるべきであるのです。しかし、イエス様は、祭司長たちに尋ねても答えないということをご存じでありました。またピラトが尋ねるユダヤ人の王が、御自分とはかけ離れた王であることをイエス様はご存じであったのです。ここに、彼らに対して心を閉ざしているイエス様のお姿があります。イエス様はもう何も言わない。どれもこれも、あなたたちが言っていることだ。そう、イエス様は知らんぷりしておられるのです。もし、これが信仰の伴う問いであったならば、イエス様の答えは全く違っていたことでありましょう。イエス様は御自分を求める者たちには、その教えと御業を通して、御自分が何者であるかを明らかに示してきました。ヨハネによる福音書によれば、イエス様はサマリアの女に、キリストは、「あなたと話しをしているこのわたしである」と断言なされました。また、生まれつき盲人にも、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と御自分が人の子であることを断言なさいました。しかし、ピラトの前では、その同じイエス様が「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とピラトとの対話を打ち切っておられるのです。このことは、イエス様が人格的なお方であることを考えるならば、むしろ当然のことであります。私たちも、誰に対しても誠実に答える義務があるわけではありません。そして実際に、その人その人によって違った答え方をするものであります。それは私たちが人格的な存在であるがゆえに当然のことと言えるのです。ここで、イエス様も人格的なお方として彼らにふさわしい答え方をなされました。それが、「それは、あなたが言っていることです」という答えであったのです。

 ピラトは、祭司長たちと群衆に「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。しかし、彼らは「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。ガリラヤは、熱心党の発祥の地であります。熱心党とは、ローマ帝国による異邦人支配を拒み、武力の行使をもよしとする国粋主義的過激派グループであります。その熱心党の発祥の地であるガリラヤ出身だと訴えることによって、自分たちの訴えが確かであることをピラトに印象づけようとしたのです。けれども、ピラトは、イエス様がガリラヤ人であることを聞いて、別の反応をいたしました。なぜなら、当時ガリラヤは、ヘロデの支配下にあったからであります。ここでのヘロデとは、ヘロデ大王の息子、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのことであります。兄弟の妻であるヘロディアを自分の妻とし、それを責めた洗礼者ヨハネを殺害した、あのヘロデです。ローマの時代、犯罪人は犯罪を犯した県でよりも、彼が生まれた県で裁かれたと言われます。ですから、ピラトは、イエス様がガリラヤ出身であることを知って、その裁きをガリラヤの領主ヘロデの手に委ねたのです。

 ヘロデはイエス様を見ると、非常に喜びました。なぜなら、イエス様のうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエス様が何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからです。ヘロデは、いろいろと尋問しましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。ピラトは、イエス様をヘロデの支配下にあると考えましたし、ヘロデにしても、イエス様を領主である自分の支配のもとにあると考えていたはずです。ヘロデは領主であり、イエス様は領民なのです。領民は領主が質問したら、何か答えるものであります。まして、裁きの場にいるならば、必死になって弁明し、審判者であるヘロデに、おもねってくるのが普通であります。皆さんも想像していただきたいと思います。もし自分が訴えられ、その訴えによって死刑に処せられるかもしれないとしたらどうでしょうか。まず私たちは怯えるでしょう。そして、必死になって弁明するのではないでしょうか。さらには、裁判官に対して少しでもよい印象を持ってもらおうと、お世辞を言ったり、少なくとも礼儀正しく振る舞うのではないでしょうか。けれども、ここでイエス様は何もお答えになりませんでした。ヘロデがいろいろと尋問しても、イエス様は何もお答えにならなかったのです。それに対して周りは騒がしいものであります。ここでも祭司長たちや律法学者たちはイエス様を激しく訴えました。沈黙するイエス様の姿と騒ぎ立てる人々の姿が、ここに真に対照的に描かれているのです。

 さて、今朝の説教題を「沈黙するイエス」と付けました。今朝の御言葉でイエス様が発言されたのは、3節だけであります。そして、これを最後にイエス様は御自分が裁かれているにも関わらず、口を閉ざしておられるのです。なぜ、イエス様は沈黙しておられるのか。沈黙しておられたイエス様の心にあったものは何か。そのことを最後に考えてみたいと思います。この時、イエス様のお心にあった御言葉はおそらくイザヤ書53章7節であると考えられます。実際に開いてみたいと思います。旧約聖書の1150頁です。イザヤ書の53章7節をお読みいたします。

  苦役を課せられて、かがみ込み

  彼は口を開かなかった。

  屠り場に引かれる小羊のように

  毛を切る者の前に物を言わない羊のように

  彼は口を開かなかった。

 ここに口を開かない苦難の僕の姿が描かれています。なぜ、彼は口を開かないのか。それは自分を屠り場に引いていくお方が、他でもない神であられることを知っているからです。神が自分を屠り場へと引いていく。その神を信頼するがゆえに、彼は口を開かず、ただただその苦難を受け入れるのです。ここに、今朝の御言葉に描かれている主イエスのお姿があるのです。

 また、この時イエス様のお心にあったと思われる御言葉は、イザヤ書50章にある主の僕の預言であります。旧約聖書1145頁、イザヤ書の50章5節から9節までをお読みいたします。

 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くにいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。

 主の僕は、暴行を受け、嘲りを受けながらも、主が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わないと申します。そして、自分の正しさを認める方が近くにいるがゆえに、誰も自分を罪に定めることはできないことを知っているのです。ここにも、私たちの主イエス・キリストのお姿を見ることができます。主イエスは父なる神の正しい裁きを信じるがゆえに、沈黙しておられるのです。主イエスの沈黙、それは父なる神への全き信頼から生じる真に深い沈黙なのです。人々からの嘲りや侮辱をイエス様が口を閉ざして堪えることができたのは、この父なる神への全き信仰のゆえであったのです。

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