最高法院において 2006年4月09日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

最高法院において

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章63節~71節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:63 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。
22:64 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。
22:65 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
22:66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、
22:67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。
22:68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。
22:69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
22:70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
22:71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。ルカによる福音書 22章63節~71節

原稿のアイコンメッセージ

 今週は、イエス様のお苦しみを覚える受難週であります。私たちは、もうだいぶ前から、ルカによる福音書を通して、イエス様の受難週の歩みを学んで参りました。今朝の御言葉も受難週に起こった出来事であります。ですから、引き続きルカによる福音書の御言葉から、イエス様のお苦しみについて思いをはせたいと願っております。

 このルカによる福音書は、一つの資料としてマルコによる福音書を用いたと考えられています。はじめの3つの福音書、つまり、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は、共観福音書と呼ばれています。共観福音書とは、共に並べて観ることのできる福音書という意味です。マタイ、マルコ、ルカ、この3つの福音書には、並べて観ることができるほど並行個所が多いということであります。なぜ、この3つの福音書に並行個所が多いのか。それは、昔から疑問とされていたことでありました。その解答として、現在の聖書学ではマルコ優先説というものがほぼ定説となっています。マルコによる福音書がはじめに記された福音書であって、マタイとルカが、それを一つの資料として用いたのであろうと考えられているのです。マルコによる福音書は、紀元70年代に執筆されたと考えられています。そして、マタイによる福音書、ルカによる福音書はそれぞれ80年代に執筆されたと考えられておりますから、マタイやルカが、マルコによる福音書を資料として用いたことは確かなことであろうと思います。ルカが、いくつかの資料を用いてこの福音書を執筆したこと。それは、ルカがこの福音書の最初において明らかにしたことでもありました。しかし、ルカによる福音書の記述とマルコによる福音書の記述を比べてみると似ているようでも異なっている部分が多くあることが分かります。書いてある事柄は大体同じなのでありますけども、よく比べてみると違うわけでありますね。そこには、大きく2つの理由が考えられます。1つは、ルカが他の伝承をも資料として用い、この福音書を記したということです。そしてもう一つは、この福音書の執筆者であり編集者であるルカ自身の意図によるものであります。つまり、執筆者であり編集者であるルカの神学がルカによる福音書固有のメッセージを生み出しているのであります。私は、これまでルカによる福音書から説教して参りましたけども、そこでいつも心がけていたことは、このことであります。つまり、ルカによる福音書の描くイエス・キリストを語っていきたいということでありました。

 今朝の御言葉である66節以下には、「最高法院で裁判を受ける」という小見出しが付けられています。そして、その横にカッコ書きでこのところの並行個所が記されているのです。マタイによる福音書、マルコによる福音書の並行個所を見ますと、やはり同じく「最高法院で裁判を受ける」と小見出しが付けられています。しかし、ヨハネによる福音書の並行個所を見ますと「大祭司、イエスを尋問する」と小見出しが付けられているのです。何を言いたいのかを結論から申しますと、私は今朝の御言葉に付けられている「最高法院で裁判を受ける」という小見出しは、ルカによる福音書の記述にはふさわしくないのではないかと考えております。小見出しは、もともとの聖書本文ではありません。新共同訳聖書の編集者が便宜上に付けたものです。ですから、それほど気にしなくてもよいのかも知れませんけども、やはりある先入観を私たちに与えるのだと思います。小見出しによって、書かれていることの内容が一目で分かるという便利さはありますけども、やはりそこには読む者にある先入観を持たせるという負の面、マイナスの面もあるのです。私は、むしろ今朝の御言葉は、内容的にはヨハネによる福音書に近いと考えております。つまり、ここで最高法院によって行われたのは裁判というよりも、取り調べであり、尋問であったと思うのです。

 このルカによる記述が裁判と呼べないことは、マルコによる福音書と読み比べるとすぐに分かります。ルカによる福音書には、最高法院の人々以外に証人は現れません。また、神殿の崩壊についてイエス様が語ったとされる言葉の確認も記されていません。さらには、イエス様を神を冒涜する者として死刑にするという正式な判決も記されていないのです。よって、今朝の御言葉は、最高法院による裁判というよりも、むしろローマ総督にイエス様を引き渡すための最高法院による取り調べ、尋問と言えるのです。

 マルコによる福音書では、最高法院での裁判によってイエス様の死刑が決議されます。しかし、ルカによる福音書には、それがないのであります。なぜ、それがないのかと言えば、それはもう決定済みのことであったからです。19章にイエス様が「神殿から商人を追い出す」というお話しが記されておりました。神殿での商売、それは最高法院の監督のもとで行われていたのです。その売り上げによって、神殿祭儀は支えられ、最高法院の人々もそこから大きな利益を得ていたのです。それをイエス様は、「強盗の巣にした」と公に非難なされた。そして、神殿を占拠するかのように境内で民衆を教え始めたのであります。その様子を見て、祭司長、律法学者、民の指導書たちは、イエスを殺そうと謀った。しかし、どうすることもできなかった、と記されています。また、20章の19節には、「ふどう園と農夫の譬え話」を聞いた律法学者たちや祭司長たちが、やはりイエス様に手を下そうとしたと記されています。さらに、22章の2節には「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」と記されているのです。このように、イエス様を死刑にすることは既に決定済みのことでありました。おそらく、イエス様が神殿から商人を追い出した時に、最高法院の中でイエス様を死刑にすることは決定されていたのです。イエス様が最高法院に連れ出される前に、死刑が決定済みであったということ。このことを裏付けるもう一つの証拠は、イエス様が最高法院に連れ出される前に、見張りの者によって侮辱され、殴られたということです。マルコによる福音書を見ますと、最高法院によってイエス様の死刑を宣告された後、イエス様は嘲りや暴行をお受けになるのです。それはそうでありましょう。まだ判決がおりていないのに、暴力を振るうということはあってはならないことです。しかし、ルカによる福音書によれば、最高法院に連れ出される前に、イエス様は侮辱を受け、殴られるのです。それは、この時すでにイエス様の死刑が、彼らの間で決定済みであったことを示しているのです。

 また、もう一つ最高法院の中で決定済みであったことは、イエス様をローマ総督の手に引き渡すということでありました。マルコによる福音書を見ますと、最高法院全体で相談した後に、イエス様をピラトのもとへと連れて行くのでありますけども、ルカの記述によれば、即座に全会衆が立ち上がり、イエス様をピラトのもとへと連れて行くのです。それは、イエス様をローマの手に引き渡すことが既に決定済みであったからであります。20章の20節以下に、「皇帝への税金」の問答が記されておりましたけども、そこには、祭司長や律法学者たちが、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした、と記されています。既にこの時、最高法院ではイエス様をローマ総督の支配と権力に引き渡すことが決定済みであったのです。つまり、イエス様を最高法院に連れ出した時、彼らは既に、イエス様をローマ総督の手に渡して処刑するということを決めていたのであります。ですから、彼らがこれからしようとしていたことは、これからイエス様をどうしようかということではなくて、ローマ総督の手に引き渡すための証言を引き出すということであったのです。

 最高法院の人々は、イエス様にこう言います。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」。 

 当時、多くの人々は、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる政治的メシア、軍事的メシアを待望しておりました。実際、メシアと自称し、人々を率いて反乱を起こす者がいたのです。そのような状況でしたから、メシアと自称する者をローマ総督が厳しく取り締まったのは当然のことでありました。ですから、最高法院の人々は、イエス様の口から自分はメシアであると言わせようとしたのです。

 それに対してイエス様はこう言われます。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」

 最高法院の人々は、イエス様に「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言いましたけども、そこには、もしそうであれば信じたいのだがという気持ちは毛頭ありませんでした。むしろ、イエス様が御自分をメシアであるというならば、それを根拠にローマ総督の手にイエス様を引き渡そうとしたのです。イエス様は、彼らが悪意をもって、いや殺意をもって、このように言っていることをご存じでありました。それゆえに、イエス様は、「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」と言われたのです。この言葉は、私たちにペトロの信仰告白の場面を思い起こさせます。そこで、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられました。それに対して、ペトロは弟子たちを代表して「神からのメシアです」と答えたのであります。イエス様の「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」という言葉の背後には、イエス様への信仰告白のことがあるのです。つまり、イエス様の方から「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と尋ねても、彼らが決して答えないこと、御自分に対して心を閉ざしていることをイエス様はご存じであったのです。しかし、イエス様は続けてこう仰せになります。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」

 このイエス様のお言葉は、ダニエル書7章13節と詩編110篇1節の預言を組み合わせたものであります。ダニエル書の7章13節から14節にはこう記されています。旧約聖書の1393頁です。

 

  夜の幻を見ていると、

  見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り

  「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み

  権威、威光、王権を受けた。

  諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

  彼の支配はとこしえに続き

  その統治は滅びることはない。 

 

 ここでの、「人の子」は救い主を指し、ここでの「日の老いたる者」は主なる神を指すと考えられておりました。ですから、これは救い主が、やがて主なる神から全世界を支配する権威、王権を与えられる幻と理解されていたのです。また、詩編110篇にはこう記されています。旧約聖書の952頁です。1節と2節をお読みいたします。

    ダビデの詩、賛歌

  わが主に賜った主の御言葉

  「わたしの右の座に就くがよい。

  わたしはあなたの敵を足台としよう。」

 

  主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。

  敵のただ中で支配せよ。

  あなたの民は進んであなたを迎える

  聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ

  曙の胎から若さの露があなたに降るとき。

 

 古来、王の右には、皇太子や大臣が座り、王と共に国を統治したと言われます。それと同じように、ダビデは、わが主メシアが主なる神の右に座し、主なる神と共に全世界を統治する姿を預言したのです。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書の156頁です。

 先程のダニエル書も詩編110篇もメシアの到来を預言する、いわゆるメシア預言と考えられておりました。その二つを組み合わせて、イエス様は「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と仰せになられたのです。

 「人の子は全能の神の右に座る」。これは彼らが思い描いていたメシア像を越えるものでありました。彼らが思い描いていたメシア、また彼らがイエス様に認めさせようとしていたメシアは、地上的な、この世的なメシアでありました。ローマ帝国の支配からユダヤの国を開放し、かつてのダビデ王国のような栄光を取り戻すこと。それが彼らがメシアに期待していたことであったのです。そして、ここに最高法院の人々がイエス様をローマ総督の手に引き渡す理由があるのです。なぜ、メシアを待望していた人たち、その代表者とも呼べる人たちが、イエス様を異邦人であるローマの手に引き渡そうとするのか。それは、彼らの目からすれば、イエス様はメシア失格であったからです。イエス様は彼らが待ち望んでいたメシアとはかけ離れたメシアでありました。彼らにとってイエス様は、自分たちの支配を脅かす危険人物でしかなかったのです。イエス様のようなメシアならば、彼らはいらないと考えたのであります。しかし、イエス様はここで、彼らが思い描くよりも遥かに偉大なメシアの姿をお示しになられたのです。

 

 「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」。この言葉を私たちはどう理解するでしょうか。おそらく、私たちはイエス様は立派に御自分について証しをなされたと読むのだと思います。死を前にして、イエス様は立派に御自分について証しをなされたと読むのだと思います。私たちはイエス様が御自分について「人の子」という称号を用いることを見てきましたから、この「人の子は全能の神の右に座る」という言葉を無意識のうちに「わたしイエスは、全能の神の右に座る」と置き換えて読んでしまうのであります。そして実は、最高法院の全ての者たちもそうであったのです。皆の者たちも、イエス様がここで御自分について証言なされたと受け取った。だから、即座に「では、お前は神の子か」と問いただしたのです。けれどもイエス様はこう仰せになりました。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」

 イエス様は、先ずはじめに「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう」と言いました。これは、イエス様を取り調べている最高法院の人々の了解事項ではなかったかと思います。彼らは、自分たちからイエス様が何者であるかを論じないということを取り決め、ただイエス様御自身の口からそれを言わせようとしたのです。彼らの関心事、それは自分たちがイエスを何者かと言うことにあるのではなくて、イエス様が御自分を何者であると言うかにあったのです。なぜ、彼らはそのように取り決めていたのか。それはおそらく、彼らがイエス様の死について何の責任も負いたくなかったからでありましょう。自分で判断するということは、もし間違えた時に、その責任を負わなくてはなりません。それを負いたくなかったんです。だから、自分で判断しない。イエスについて自分たちでは判断しない。ただ、イエス様の口からそれを言わせようとしたのです。しかし、イエス様はそのような彼らの考えを見抜いておられた。そして、彼らが自分で判断しなければならないような答え方をイエス様はここでなされたのです。それが「今から後、人の子は全能の神の右に座る」という言葉でありました。ここでイエス様は、「わたし」とは言わず「人の子」という言葉を用いています。イエス様は「わたし」とは言いませんでした。ここがポイントであります。先程も申しましたように、私たちは無意識に「人の子」を「わたしイエス」と置き換えてこのところを読みます。しかし、イエス様は「人の子」と仰っているのです。「人の子」とはこれは三人称であります。代名詞で言えば、「彼」です。決して、「私」ではないのであります。ですから、ここで、イエス様は必ずしも、御自分について発言しているとは言いきれないのです。むしろ、ここでイエス様は、自分ではない第三者について語っているとも読むことができるのです。

 それでは、「人の子」が、イエスのことを指していると判断したのは誰か。それは、この言葉を聞いた最高法院の人々でありました。そして、イエス様を神の子と言ったのも、他でもない彼らであったのです。ですから、イエス様は「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と言われたのです。最高法院の人々、彼らは自分たちでイエスが何者であるかを言うつもりはありませんでした。けれども、イエス様を人の子であると判断し、イエス様を神の子と言うのは彼らであったのです。

 それにも関わらず、人々はこう言います。「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」。

 人々は、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」という言葉の「わたしがそうだ」という言葉だけを都合よく聞き取ったようであります。彼らは自分たちに都合の良いことだけを聞き取り、イエス様が御自分で証言したと真実をすり替えたのです。

 けれども、もう一度申しますけども、ここでイエス様を人の子であると判断したのは、最高法院の全ての者たちなのです。「人の子」はイエス様のことを指すと、彼らが判断したのであります。それにも関わらず、彼らはイエス様を殺そうとするのです。いや、イエス様が人の子であり、神の子であるからこそ、彼らはイエス様を殺そうとするのです。ここに、私たち人間の最も深い罪の姿があるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す