見つめるイエス 2006年4月02日(日曜 朝の礼拝)

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見つめるイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章54節~62節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。
22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。ルカによる福音書 22章54節~62節

原稿のアイコンメッセージ

 真夜中に人々は、イエス様を捕らえ、引いて行き大祭司の家へ連れて入りました。「ペトロも遠く離れて従った」と記されています。ここでの「従った」は、ただ後をついて行ったというよりも、弟子としてイエス様に従ったということです。5章に、「漁師を弟子にする」というお話しが記されておりました。イエス様が漁師であったペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と仰せになる。すると、ペトロはすべてを捨ててイエス様に従ったのです。その「全てを捨てて従った」と同じ「従った」という言葉がここに記されているのです。ペトロは、まだこの時、イエス様に従う者でありました。距離をおいてでしたが、ペトロはまだイエス様に従う者、イエス様の弟子であったのです。

 季節は、ちょうど今頃、早春の頃でありました。また真夜中でありましたから、人々は屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座って暖まっておりました。ペトロも中に混じって腰を下ろします。ペトロが、この時、何を考えていたのかは記されておりません。彼はそもそも、なぜ、こんなところまで来てしまったのか。ペトロは、かつてイエス様に「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と申しました。その言葉をもしかしたらペトロは思い起こしていたかも知れません。イエス様が大祭司という公の権力によって捕らえられてしまった。しかし、自分はイエス様に従っていくのだと、自らの心を震え立たせていたのかも知れないのです。

 先週、私たちはイエス様が捕らえられる場面を共に読みました。罪のないイエス様が罪人として捕らえられる。それは本来あってはならないことであります。しかし、それが現実となるのはなぜか。それは闇が力を振るう時であったからです。イエス様が、かつて弟子たちに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と仰せになられたように、今はサタンが力を振るう時、信仰が試される時なのです。前回、私は、闇が支配する時とは、人々の心が恐れに支配される時であると申し上げました。闇夜に武器を手にして、イエス様を捕らえに来た祭司長たちの心。また、剣を手にして大祭司の手下に打ちかかった弟子の心。その心を支配していたのは恐れであります。そして、彼らはその恐れを武力をもってぬぐい去ろうとしたのです。現代に生きる私たちの心にも、いつも恐れがあると思います。その恐れの中で、最たるものは戦争への恐れでありましょう。戦争が起こらないかと恐れる。もし、戦争が起こったらどうしようか。そのような不安が私たちの心にはいつもあると思います。私は体験として戦争というものを知りませんけども、文書や映像を通して、戦争はごめんこうむりたいと心から思います。それでは、どうすればよいのか。戦後まもなく制定された日本国憲法は、その前文でこう記しています。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。それから60年たち、現在では、自衛軍の保持を明確にするために憲法を改正しようとする動きが盛んになっております。敗戦焦土の中で制定された日本国憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、わられの安全と生存を保持しようと決意した」と歌っておりますけども、それは理想論であって、あまっちょろいということでありましょう。平和に過ごすためには武器を持つ必要がある。武器を持って相手を威嚇し続ける必要があると考えるのです。罪人である人間の世にあっては、その通りなのかも知れません。私たちは、現代においても、闇が力を振るっている姿をまざまざと見ることができるのです。

 闇が力を振るう時、私たち人間の心は恐れに支配される。そして、この時、ペトロの心にあったのも、やはりその恐れであったと思います。ペトロは、遠く離れてイエス様に従って参りました。ペトロは勇気を奮い立たせて従ってきたのです。そして、人々に紛れて火にあたって座っていた。しかし、この時、ペトロの心は恐れに支配されつつあったのです。屋敷の中庭に来たものの、その心は恐れに取りつかれていた。自分がイエスの弟子であることが分かったらどうしよう。自分も捕らえられるのではないかと恐れたのです。そして、その恐れていたことを、ある女中に指摘されるのであります。56節です。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。

 ペトロは、一番弟子とも呼べる弟子でありましたから、イエス様と一緒にいるところを何度も見られていたのでしょう。イエス様と一緒にいること。これはいつものペトロならば、喜びとしていたこと、誇りとしていたことであります。けれども、ペトロはそれを打ち消して「わたしはあの人を知らない」と言うのです。一緒にいたことなどない。それどころか、あの人なんか知らないと言ったのです。少したってから、ペトロは他の人からも「お前はあの連中の仲間だ」と言われる。ここでも、ペトロは「いや、そうではない」とイエス様との関係を否定するのです。おそらく、この時、ペトロはとっさに、いわば本能的にイエス様との関係を否定したのではないかと思います。それは自分を守ろうとする自己保存本能と呼べるものかも知れません。ここで、イエスの仲間であることが分かれば、自分も捕らえられるのではないか。自分も殺されるのではないか。その恐れが、ペトロの口に「わたしはあの人を知らない」という言葉をのぼらせたのです。また、ペトロはその場の雰囲気に飲み込まれてしまったとも言えます。これまでペトロはイエス様を信じる者たちと生活を共にして参りました。彼の周りにはいつも信仰の友がいたのです。しかし、今は、イエス様を信じる者たちではなくて、イエス様を殺そうとする者たちと、彼は一緒に座っているのです。教会の交わりの中で、イエス様のことをお話するのは喜ばしいことでありますし、やさしいことであると言えます。教会は、イエス・キリストを信じる者たちの群れでありますから、そこでイエス・キリストのことをお話しするのやさしいことです。しかし、それぞれの生活の中で、特に、神などいないと主張する人々の中で、「イエス・キリストこそ真の神である」とお話しすることは大変度胸のいることであります。何人かで話しをしていて、神などいない、宗教などいらないと話しが一致している中で、「自分はイエス・キリストを信じて、毎週教会に行っている」と胸を張って言えるだろうか。そのように言うことによって、仲間はずれにされたらどうしようかと心配してしまうのです。しかも、命を取られる恐れがあるならば、口が裂けてでも「イエス・キリストを信じている」と言えないのではないだろうか。そのように考えて、私たちはこのペトロの姿に深い同情を寄せつつ、このところを読むのだと思います。

 59節に「1時間ほどたつと」とあります。ペトロは、自分の身に危険が迫りつつあることをひしひしと感じながらも、なお1時間もの間そこに居続けたのです。ここでも、何とかしてイエス様に従っていこうとするペトロの姿を見ることができます。イエス様のおそばに居続けようとするペトロの姿を見ることができるのです。しかし、そのペトロに、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張りました。この人はペトロがイエス様と一緒にいたことを間違いないこと、確かなことだと断言したのです。そしてその根拠も明白でした。それはペトロもイエス様と同じガリラヤ地方の出身であるということです。なぜ、ペトロがガリラヤ地方の出身であると分かってしまったのか。マタイによる福音書の並行個所を見ますと「話し方でそれが分かる」と記されています。ガリラヤ地方特有の方言やなまりによって、ペトロがガリラヤ地方出身であることがばれてしまったのです。しかし、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と申しました。そして、まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴き、主は振り向いてペトロを見つめられたのです。そしてペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出したのであります。

 ペトロがイエス様との関係を否定するという今朝のお話しは、全ての福音書に記されています。しかし、ルカだけが、主イエスがペトロを見つめられたことを記しているのです。他の福音書を見ますと、ペトロは鶏の鳴き声を聞くことによって、主イエスのお言葉を思い出すのでありますけども、ルカは、主イエスの眼差しによって、ペトロが主のお言葉を思い出したと記すのです。ペトロは、イエス様との関係を三度否定いたしました。三度の否定は、完全な否定を意味しています。ペトロはイエス様に従う弟子でありたいと願いながらも、結局はイエス様との関係を自ら断ち切ってしまったのです。このペトロに注がれた主イエスの眼差しがどのような眼差しであったのか。これは、私たちの想像力をかき立てるところであります。ある人は、ペトロを責める、厳しい裁きの眼差しではなかったかと想像いたします。イエス様がペトロをにらみつける、そのような眼差しを想像する人もいるのです。しかし、わたしは決してそうではなかったと思います。イエス様の眼差し、それはあの主の晩餐の席と変わらない、親しい主の眼差しであったと思うのです。ペトロが、イエス様の眼差しによって、主の言葉を思い出したのはなぜか。それはイエス様の眼差しが主の晩餐の時と変わらない、親しい眼差しであったからです。ペトロはイエス様との関係を完全に否定いたしました。けれども、そのペトロに注がれたイエス様の眼差しは、先生の眼差しであった、主の眼差しであったのです。だからこそ、ペトロはその眼差しに堪えることができなかった。だからこそ、ペトロは外に出て激しく泣いたのです。主イエスに従いきれない自分。死を前にして、恐れおののき、自分の心を偽ってしまった、その自分に泣いたのであります。そして、その自分をも諭し、受け入れてくださる主イエスの眼差しを思って、激しく泣いたのであります。

 66節に「夜が明けると」とありますから、ルカは、ペトロの三度の否定を夜の出来事として記しております。つまり、ペトロの否定も闇の支配のもとで起こったことなのです。今朝の御言葉で明かとなったことは、闇が力を振るうとき、弟子たちの誰もが主イエスに従うことはできなかったということです。一番弟子であるペトロでさえ従い得なかったのです。それはなぜかと言えば、悪魔には取って置きの切り札があったからです。それは「死」であります。殺すぞと言われて、ピストルを突きつけられる。また、殺すぞと言われて、刃物を突きつけられる。そうすれば従わざるを得ない。それが公に権力を与えられた者によって為されるならば、なおさらであります。その力ある者を前にして、どんな言葉も無力なように思われる。結局は力だけが、死という恐怖によって支配していく。そのような中にあって誰も自分の心を偽らざるを得ないのではないか。ここで、ペトロはイエス様との関係を否定いたしましたけども、ペトロはそれによって、自分自身をも否定してしまったのです。イエス様に何もかも捨てて従がってきた自分、その自分をペトロは大好きだったと思います。その自分が気に入っていたはずです。自分はイエス様の弟子だ。自分はイエス様に従う者だ。自分とはそういう者だとペトロは思っていたのです。しかし、ペトロはイエス様を否定することによってその自分をも否定してしまったのです。ある人は、このところでこう語っています。ここでペトロが思い起こした言葉は、この61節の言葉だけではないはずだ。ペトロはこの時、もう一つ言葉を思いだしたはずだ、と語っているのです。それは、32節の主の言葉であります。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。ペトロがイエス様を否定し、自分の弱さに激しく泣き崩れた時、ペトロはこの言葉をも思い起こしたのです。この主イエスの祈りが自分を見失ってしまったペトロを、支え続けたのであります。

 ペトロがイエス様に従い得なかったということは、「外に出た」という言葉からも明かであります。イエス様の周りを距離を保ちながら、ぐるぐると回ていたようなペトロが、ここで自ら、イエス様との交わりの外へと出てしまうのです。このように弟子たちは、サタンによって小麦のようにふるいにかけられ、誰も彼もイエス様から離れて行きました。イエス様はこれで一人となりました。イエス様はこれから一人で、父なる神から杯を受けなければならない。人間は誰もこの杯を主イエスと共に飲み干すことはできなかったのです。ただイエス・キリストだけが、闇が力を振るう中で、父なる神の御支配に留まり続けた。ただイエス・キリストだけが、私たちの主として父なる神の御支配に従い続けたのであります。

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