闇が力を振るう時 2006年3月26日(日曜 朝の礼拝)

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闇が力を振るう時

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章47節~54節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
22:49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
22:50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。
22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。ルカによる福音書 22章47節~54節

原稿のアイコンメッセージ

 47節にこう記されています。

 イエスがまだ話しておらると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。

 私たちは、先週、オリーブ山でお祈りになるイエス様について学びましたけども、今朝の御言葉はその続きとなります。イエス様が弟子たちにまだ話しをしておられると、そこに突然、群衆が現れたのです。夜の出来事でありますから、弟子たちは大変驚いたと思います。何事かと思ったに違いありません。それも、この群衆は見るからに、イエス様に好意を抱いている者たちではない。その手には、剣や棒を持っているのです。なぜ、イエス様がここにいることが分かってしまったのか。それは、12人の一人でユダという者が群衆を手引きしたからでありました。39節、40節を見ますと、「イエス様はいつものようにオリーブ山に行かれ」、「いつもの場所に来た」と記されています。いつもの場所であった。それゆえに、イスカリオテのユダもこの場所を知っていたのです。ユダは、イエス様に接吻しようと近づきます。接吻、くちづけは、親しい間柄で為される挨拶であります。またくちづけは、その人への愛情表現でありました。なぜ、ここでユダはイエス様にくちづけをしようとしたのか。ルカによる福音書は、その理由を記しておりませんけども、マルコによる福音書の並行個所によれば、このくちづけは、どの人がイエスであるかを教える合図であったと記されています。時は夜でありますから、当たりは真っ暗であります。明かりといえば、月明かりや、手に持っていたであろうたいまつの灯火しかありません。ですから、誰がイエスであるか見分けがつきにくいわけです。間違って、他の人を逮捕してしまうかも知れない。あるいは、取り逃がしてしまうかも知れない。そうならないように、イエス様の顔をよく知っていた12人の一人であるユダが、イエスはこの人だと近寄ってくちづけをする。その人を捕らえるよう、予め打ち合わせをしていたことがマルコによる福音書に記されているのです。けれども、ルカはそれを記さずに、ただ主イエスのお言葉だけを記すのです。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。

 ここで「裏切る」と訳されている言葉は、「引き渡す」とも訳すことができます。イエス様は、これまで御自分が祭司長や律法学者たちの手に引き渡されると予告して参りましたけども、いよいよそれが現実のものとなるのです。ユダは、愛情のしるしであるくちづけによって、イエス様を死へ引き渡そうとするのです。しかし、ルカの記述によれば、イエス様はユダにくちづけをさせなかったようであります。くちづけしようとしたユダを「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と遮られた。イエス様は、ユダがこれからしようとしていることをご存じであられたのです。これを聞いてユダはドキっとしたと思います。くちづけの挨拶、これはいわば、イエス様と弟子たちとの間のいつもの挨拶であったと思います。私たち日本人は、くちづけをして挨拶をするということはあまりないと思います。私たちがする挨拶は、お辞儀をしたり、せいぜい手を握る、握手をするという程度です。しかし、ユダヤの人々は、くちづけをもって挨拶をした。身を寄せて、頬やうなじにちゅっちゅとくちづけをするのです。現在でも、欧米諸国では、そのように挨拶している人の姿を見ることができます。ユダもここで、平静を装って、いつものようにイエス様に挨拶をしようとした。それも親しい者の間でしか赦されないくちづけの挨拶をしようとしたのです。そのことによって、イエス様を油断させ、その油断したところを捕らえようとしたのだと思います。けれども、イエス様はそれを見抜いておられた。イエス様は全てをご存じであられたのです。

 49節と50節をお読みいたします。

 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。

 「イエスの周りにいた人々」、これは共にオリーブ山に来ていた弟子たちのことでありましょう。弟子たちは、群衆がイエス様を捕らえに来たこと、ユダが自分たちを裏切ったことを理解したのです。そして、剣をもって、イエス様を守ろうとしたのです。ルカは、この大祭司の手下に打ちかかった弟子が誰であるかを記しておりません。しかし、おそらく主の晩餐を共にした12人の一人ではなかったかと思います。といいますのは、主の晩餐の席で、イエス様は剣についてこう言及しておられるからです。36節から37節。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」

 イエス様は、ここで、服を売ってでも剣を買いなさいと仰せになりました。服、上着は、夜冷え込みの厳しいイスラエルにおいてとても大切なものであります。その上着を売ってでも剣を買いなさいとイエス様は仰せになられたのです。ですから、これは文字通りの命令ではなく、今という時がどのような時であるのかを教えるための誇張表現であると理解できるのです。イエス様は、御自分が犯罪人の一人に数えられるとき、弟子たちはもはや人々の好意をあてにすることはできない。人々がイエス様を敵意をもって見るとき、その時弟子たちも人々の敵意を覚悟しなければならない。信仰の戦いを覚悟しなければならないということを教えられたのです。けれども、そのイエス様の言葉を聞いて、弟子たちは文字通りの剣を差し出してこう言うのです。「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」。イエス様はそれを受けて「それでよい」、「もうこの話は終わりにしよう」と話しを打ち切られたのであります。この剣を振りかざした弟子も、おそらくそのイエス様の教えを思い起こしたに違いない。そして、文字通り、剣を取って迫り来る群衆と戦おうとしたのです。けれども、イエス様は「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れて癒されました。ここで明らかにイエス様は、その弟子を咎めておられる。叱責しておられる。その証拠に、イエス様は、その耳に触れてお癒しになられたのです。なぜ、イエス様はその耳を癒されたのか。ある人は、イエス様が罪の無いお方として捕らえられる必要があったからだと申します。大祭司の手下に打ちかかるとは、大祭司に刃向かうことと同じであります。そうであれば、イエス様は反逆罪、傷害罪の罪で捕らえられることになるかも知れない。そのようなことになってはならない。それゆえに、イエス様はここで大祭司の手下の耳に触れ、癒されたというのです。イザヤ書53章の『その人は犯罪人の一人に数えられた』という預言は、実際に犯罪人となることによって実現するのではない。むしろ、罪のない者が犯罪人に数えられねばならない。それゆえに、イエス様は大祭司の手下の耳を癒されたと説明するのです。なるほど、そうかも知れませんけども、何だか私には思弁的なように聞こえます。むしろ、ここでイエス様が大祭司の手下を癒されたのは、当然のことではなかったかと思います。イエス様はかつて「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と弟子たちにお命じになりました。それゆえ、イエス様は、大祭司の手下の耳をお癒しになられたのです。イエス様の癒し、それは闇の中に輝く光のようであります。おそらく、ざわざわしていた群衆や弟子たちがこの時は静かにその様子を見守ったのではないでしょうか。そして、それはこれから捕らえられるイエス様がどのようなお方であるかを改めて教えているのです。

 イエス様は、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちにこう言われます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

 ここで、イエス様が指摘していることは最もなことです。イエス様を捕らえに来た祭司長、神殿守衛長、長老たちは、日中は神殿の境内で毎日一緒にいたのです。もし、イエス様に逮捕されるべき罪があるならば、いくらでも、その機会があったのです。しかし、彼らはイエス様に手を下すことはできなかった。それは、民衆が皆、夢中になってイエス様のお話に聞き入っていたからです。もし、彼らの前で、イエス様を捕らえるならば、その理由を公に告げなければならない。これこれの理由で、こいつを捕らえていくと言わなければならない。しかし、祭司長たちは、その理由を何も見つけることができなかった。あらゆる問答を通して、イエス様の言葉じりをとらえようとしたのですけども、どうもうまくいかない。イエス様を捕らえることのできる罪を彼らは何も見出すことができませんでした。それゆえに、彼らが考えたことは、闇夜に紛れて、力によってイエス様を捕らえてしまおうということであったのです。イエス様はここで、「まるで強盗にでも向かうように」と仰せになりました。けれども、むしろ、強盗呼ぶべきは祭司長たちの方なのです。先程、ユダが愛情表現であるくちづけを裏切りの合図としたことを見ましたが、ここでも全くおかしなことが起こっているのです。祭司長や神殿守衛長や長老たち、これらはユダヤの最高法院であるサンヘドリンの構成メンバーであります。特に、祭司長などは神に仕える聖職者です。その神に仕える祭司長が、ここでは力に任せて、罪なき人イエスを捕らえようとしているのです。祭司長たちが、まるで強盗のように、闇夜の中を振る舞うのです。

 なぜ、ユダは接吻で人の子を裏切ろうしたのか。なぜ、聖職者である祭司長たちが、強盗のように、闇夜に武器をもって振る舞うのか。今朝の場面は何かがおかしいのであります。罪のないイエス様が、捕らえられるなどおかしい。それは本来あってはいけないことであります。けれども、それが現実となるのはなぜか。それは、今は、闇が力を振るう時であるからです。イエス様は、ここに闇の支配を見ておられる。くちづけをもって裏切ろうとするユダの心に、また、剣や棒をもって御自分を捕らえようと向かってくる祭司長たちの心に、闇の支配、悪魔の支配を見ておられるのであります。

 いや、もしかしたら、イエス様は弟子たちの心にも闇の支配を見ておられたのではないかと思います。少なくとも弟子の一人が、大祭司の手下に剣を振りかざした時、その心は、悪魔の支配下に置かれていたと言えるのです。武器をもって現れた群衆を前にして、同じように、武器をもって立ち向う時、その弟子の心も、闇の支配へと引きづり込まれていたのです。ですから、イエス様は「やめなさい」と仰せになり、大祭司の手下の耳を癒されたのです。武器をもって向かってくる相手に、こちらも武器を持って立ち向かおうとする。それは自ら闇の支配へと足を踏み入れていくことであります。そうならないために、主イエスは、ここで癒しの奇跡を為された。私たちが闇の支配へ足を踏み込まないようにと、イエス様は、敵とも呼べる大祭司の手下の耳を癒されたのです。 

 今朝の説教題を「闇が力を振るう時」といたしました。闇が力を振るう時とは、一体どのような時を言うのか。それは、恐れが人を支配する時であると言えます。そもそも、なぜ、祭司長たちは剣や棒を持ってイエス様を捕らえに来たのでしょう。また、なぜ、大勢の人をつれてやって来たのか。それは、その心の奥底に恐れがあるからです。私たちは恐れるとき、武器を手にします。夜、自分の家で物音がすれば、バットか何かを手にして様子を見に行く。バットなど役に立たないかもしれないけども、それを振りかざして相手を威嚇しようとする。また、剣を振りかざした弟子の心を支配していたのも恐れであると言えます。そもそも、二振りの剣で、剣や棒を持った群衆に立ち向かうことなど不可能であります。それでも、この弟子は剣を振り回さずおれなかった。それはなぜかと言えば、それは怖いからです。彼の心が恐れに捕らえられていたからであります。ユダも、イエス様をまんまと自分の計画通り罠にはめることができたと思ったかも知れませんけども、イエス様に「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた時、やはり恐れおののいたと思います。皆の心が恐れに支配されてしまっている。それが、闇が力を振るう時なのです。

 しかし、ここでイエス様だけが、その心を恐れに支配されていないのです。それは先週学んだオリーブ山での祈りのゆえであります。イエス様は、苦しみもだえ、切に祈ることによって、父なる神の御心を御自分の心となされた。十字架の死という杯を飲み干すことを、自分の定めとして改めて受けとめ直された。それゆえ、イエス様は武器を手にした群衆を前にしても、恐れることはなかった。むしろ、イエス様の祈りに答えるように、父なる神は、ここで闇が力を振るうことをお許しになられたのであります。

 イエス様は37節で「言っておくが『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と仰せになりました。これは、イザヤ書53章の苦難の僕の預言です。そこには、罪のない主の僕が、主の民の罪を背負い、身代わりとして刑罰を受ける姿が描かれています。その預言を実現する者として、イエス様は何の罪がないにも関わらず、祭司長たちに捕らえられることを良しとなされたのです。それではこの時、イエス様の心にあったものは諦めや悲しみであったかと言えば、そうではないと思います。なぜなら、イザヤ書53章には、刑罰を受ける僕の姿だけではなくて、やがて死からよみがえり、高く挙げられ、崇められる僕の姿をも預言されているからです。この時、イエス様の心を支えていたものは、苦難の死を越えた先にある復活の希望であったのです。 

 今朝の御言葉を理解する上で最もよい助けとなるのは、イザヤ書の50章10節、11節であると思います。実際に開いてみたいと思います。旧約聖書の1145頁です。イザヤ書第50章10節、11節をお読みいたします。

 お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。

 この10節、11節は、主の僕についての第三の預言、「主の僕の忍耐」の預言の一部であります。そこで、イザヤは問うのです。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者がお前たちのうちにいるかと。今朝の御言葉を重ねて考えますならば、誰もいませんでした。いや、ただ一人だけ、イエス様だけが、闇の中を、主の御名を信頼し、その神を支えとして歩まれたのです。ここにも、イエス・キリストだけが成し遂げることのできるメシアとしての歩みがあるのです。ただ、イエス様だけが、闇が力を振るう中にあって、主なる神の御支配に留まり続けることができた。闇の中にあって、癒しという命の業をなすことができたのであります。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書156頁です。

 今朝の御言葉の最後である54節に、「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った」とあります。ルカは、ここではじめてイエス様が捕らえられたと記すのです。イエス様が「今は、あなたがたの時。闇が力を振るう時だ」と仰せになられた後に、人々はイエス様を捕らえたのであります。いや、こうも言える。イエス様が闇が力を振るうことをお許しになられてはじめ、彼らはイエス様を捕らえることができたと。ここで、時を支配しておられるのは、ユダでも、祭司長たちでもありません。ここで時を支配しておられるのは、他でもないイエス・キリストであります。嫌がるイエス様を祭司長たちが無理矢理捕らえて行くのではない。むしろ、イエス様自らが、祭司長たちの手に御自分を委ねられるのです。ここに、イザヤが預言した主の僕イエス・キリストのお姿があるのです。

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