オリーブ山での祈り 2006年3月19日(日曜 朝の礼拝)

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オリーブ山での祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章39節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔
22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」ルカによる福音書 22章39節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 主の晩餐を終え、イエス様はいつものようにオリーブ山へと向かいました。弟子たちもイエス様に従ったと記されています。21章37節によれば、イエス様は、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされておりましたから、その夜も、いつものようにオリーブ山に行き、そして御自分と弟子たちしか知らない、いつもの場所で祈りの時を持たれたのでありました。しかし、そこでいつもと違う光景を弟子たちはこの時、目の当たりにいたします。イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、御自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られたのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」。

 イエス様が取りのけてくださいと願われた「この杯」、それは主イエスがこれから受けようとしておられる苦難、ことに十字架の死であります。イエス様は、ペトロの信仰告白以降、御自分の苦難と死を三度予告されてきました。そもそも、エルサレムへの旅は、十字架を目指す旅であったとさえ言えるのです。私たちは、先週、37節の「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。」というイエス様のお言葉を学んだばかりであります。イエス様は、イザヤ書53章の苦難の僕こそ、わたしであると仰せになられたのです。そのイエス様が、ここでは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈り求めているのであります。私たちは、このイエス様のお姿に当惑せざるを得ません。イエス様のお心に一体何が起こっているのだろうか。これまで毅然に振る舞い、十字架で死ぬことを御自分の定めだと言われていたイエス様が、ここでは崩れ落ちてしまうような弱さをさらけ出しておられる。そしてイエス様は実際、父なる神にひざまずいてお祈りになられたのです。ひざまずいて祈る。これはめずらしい祈りの姿勢でありました。当時、ユダヤの人は通常立ってお祈りをしました。地面に足をしっかり踏まえて、天に両手を上げ、頭を上げ、目を見開いて祈ったのです。詩編121篇に、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしは助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」とありますが、これは当時のユダヤ人が、立って、頭を上げて、目を見開いて祈っていたことを私たちに教えているのです。しかし、イエス様はこの時、ひざまずいてお祈りになりました。それは、イエス様のくずおれそうなお気持ちをよく表している姿勢ではないかと思うのです。このイエス様の祈りをきいて、私たちがまず思い起こさなくてはならないことは、イエス・キリストというお方は、まことの神であり、まことの人であられたということであります。イエス様は、聖霊によって処女マリアの胎に宿られるという仕方で、まことの神でありつつ、まことの人としてお生まれになりました。イエス様は人の子でありつつ、神の子であられた。しかし、だからといってイエス様は死を恐れなかったか、と言えばそうではない。私たちと同じように、いや私たち以上に死を恐れたのであります。できるならば、死にたくはないと願われたのです。それゆえに、「父よ、御心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈り求められたのです。こう聞きますと、イエス様は意気地がないなぁ、勇気が欠けているなぁと思う人もいるかも知れません。例えば、旧約聖書のダニエル書に出てくる燃える炉に投げ込まれた三人の友人たちと比べて、イエス様は意気地がないなぁと、何だかがっかりする人もいるかも知れません。また、旧約時代と新約時代の間の時代、いわゆる中間時代に書かれた旧約続編には、母親と子供たちが喜んで殉教の死を死んでいく物語が記されています。そういうものを読んで、それに比べて、このイエス様の姿は情けないと思うかも知れません。けれども、もちろんそのように考えるのははなはだ大きな間違いであります。イエス様がここで、避けたいと願われたのは、イエス様個人の死にとどまらない。イエス様は、ここで御自分の死そのものを死のうとされているのではないのです。それでは、イエス様は、これからどのような死を死のうとされていたのか。イエス様は、「この杯を取りのけてください」とお祈りになりました。ここでの杯は、あるもののたとえ、象徴として用いられています。旧約聖書において、杯は何を象徴的に表していたのか。それは「神の裁き」でありました。そして、その杯になみなみとつがれているものは一体何かと言えば、それは罪に対する神の聖なる怒りであったのです。一つだけ旧約聖書から引用しますと、イザヤ書第51章17節にこう記されています。「目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム/主の手から憤りの杯を飲み/よろめかず大杯を飲み干した都よ。」。

 紀元前586年に、バビロン帝国によって滅ぼされたエルサレムを、イザヤは、主の手から憤りの杯を飲み干した都と呼ぶのであります。イエス様がこれからお受けになろうとする杯、その中には、全世界、全人類の罪に対する神の聖なる怒りがなみなみと注がれていたのです。イエス様が御自分の上に必ず実現すると仰せになられた苦難の僕として、私たちの罪を担い、その刑罰としての呪いの死をこれから死のしておられる。その裁きを他でもない、父なる神から受けようとしておられるのです。ですから、誰もここで、イエス様を情けないとか、勇気がないと非難することは赦されません。なぜなら、イエス様は、これから、私たちの罪のために、私たちの身代わりとして呪いの死を死のうとしておられるからです。

 全世界、全人類の罪の刑罰としての呪いの死が、一体どのようなものであるのか。それは私たちには分かりません。そもそも、私たち人間は死というものがどのようなものであるかを知らないのです。生きている者のうち、死を体験したものは誰もいない。死後の世界に何が私たちを待ち受けているのか、聖書はそれをおぼろげには教えてくれますけども、本当のところ私たちにはよく分かっていないのです。ですから、私たちはこの地上で辛いことがあると、もう死んでしまいたいと、たやすく口にしてしまうのです。それは、罪人として死ぬことがどれほど恐ろしいことか。罪人として神の裁きを受けることが、どれほど恐ろしいことであるかを私たちが知らないからです。それゆえに、死というものを軽んじる。死などたいしたことなどないと、うそぶいて見せるのです。それは、ペトロが「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ってのけたのと同じであります。人間は、生きとし生ける者が皆死ぬということは知っている。しかし、生まれながらの自分が罪人として、裁かれる者として死ぬことを知らないのです。それがどんなに恐ろしいことかを知らないのであります。ただ主イエスだけが、それを知っておられた。だからこそ、イエス様はひざまずいて祈らざるを得なかったのであります。

 

 イエス様の願い、それは「この杯をわたしから取りのけてください」ということでありました。イエス様はここで、率直に自分の願いを父なる神に打ち明けております。けれども、それを父なる神に押しつけは致しませんでした。自分の願いよりも、あなたの御意志が実現しますようにとイエス様は祈られたのです。このイエス様の祈りを聞くとき、私たちは主の祈りの第三の祈願、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを思い起こします。まさに、イエス様はここで、何よりも御心が実現することを祈り願ったのです。そして、父の御心を自分の心とするために、イエス様はいよいよ切にお祈りになられたのでありました。

 ヘブライ人への手紙第5章の7節から8節にこう記されています。新約聖書の406頁です。ヘブライ人への手紙第5章7節から8節。

 キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

 おそらく、この背後には、オリーブ山で祈る主イエスの姿があると考えられています。ヘブライ人への手紙によれば、主イエスは激しい叫び声を上げ、涙を流しながらお祈りになられたのです。先程のルカによる福音書の、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と描かれている姿と重なるものであります。ここで注目したいのは、主イエスの祈りが、「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた」と記されていることであります。これを読んで、私たちはどこか違和感を覚える。それは、イエス様が取りのけてくださいと願われた杯、つまり十字架の呪いの死をイエス様は死なれたからであります。ヘブライ人への手紙は、「キリストの願いが聞き入れられた」と言うけども、主イエスは、その杯を飲み干されたではないか、十字架の呪いの死を死なれたではないか、そう反発したくなるのです。私たちはこのヘブライ人への手紙の言葉をどのように理解すればよいのか。それは、切に祈られた祈りの中で、主イエスの願いと、父なる神の御心が一つとなったということであります。父なる神に祈りをささげる中で、御自分の願いであった「この杯をわたしから取りのけてください」という願いが、「御心が行われますように」という願いに飲み込まれる。イエス様御自身の願いが退けられて、父なる神の御心が行われることが、主イエスの唯一の願いとなるのです。ですから、ヘブライ人への手紙の著者は続けてこう記しているのです。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」と。

 従順を学ぶ。それは、自分の意志を父なる神の意志に従わせることであります。自分の思いよりも、父なる神の思いが実現することを願う。父なる神の御意志を自分の意志として受け取り直すこと、それが従順を学ぶということであります。それでは、主イエスはどこでその従順を学ばれたのか。それは他でもない父なる神に祈りをささげることによってでありました。主イエスは、祈りの中で父なる神への従順を学ばれたのであります。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書の155頁です。

 祈りこそが、父なる神への従順を学ぶ場である。それゆえに、イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と仰せになられたのです。このイエス様のお言葉を元の言葉から直訳しますと、「誘惑に入っていかないように祈りなさい」となります。誰かに背中を押されて誘惑へと入って行くのではない。自分から誘惑に入っていくのです。それでは、どのように自分から誘惑に入っていくのか。それは神の御心を退けて、自分の願いを貫くという仕方によってであります。そもそも始めの人類であるアダムとエバはどのようにして罪を犯したのか。それは、蛇の「それを食べれば、目が開け神のようになれる」という言葉を真に受けたからです。蛇の言葉を聞いて、自分で考えてみても、神のようになることは望ましいことだと考えたからであります。主なる神から「決して食べてはならない。食べたら必ず死ぬぞ」と言われてにも関わらず、彼らは自分の思いを貫くことによって禁断の木の実を食べてしまったのです。このように、私たちは、主なる神の思いを退けて、自分の思いを貫くことによって、自ら誘惑へと入り込んでいくのです。主の兄弟ヤコブも、その手紙の中で、こう語っています。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」。 

 こう考えてきますと、私たちを誘惑から守る祈りが、「御心がなりますように」という祈りであることがよく分かってくるのです。イエス様は、弟子たちに「誘惑に入っていかないように祈れ」と仰せになりました。それは、祈りこそが、自分の願いを神の御意志に従わすことのできる、従順を学ぶ修練の場であることをイエス様は、よくご存じであられたからです。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」。

 父なる神は、この主イエスの祈りに、天使を送るという仕方で答えられました。天使を送ることによって、主イエスの祈りを力づけ、その祈りがくずおれてしまわないように、父なる神も主イエスと共に、お苦しみになられたのです。父なる神は、独り子である主イエスを死に引き渡される。父なる神ご自身が、その杯を主イエスに差し出すのであります。しかし、その時私たちは、夢だにも、父なる神が涼しい顔をしておられたなどと考えてはなりません。父なる神も、主イエスと共に苦しみもだえておられた。そしてこの主イエスの祈りを、その根底から支えられたのであります。

 44節に「汗が血の滴るように地面に落ちた」とあります。このことによって、イエス様のお祈りがどれほど真剣で、神経をすり減らすものであったかが分かります。また、ここで「血」という言葉が使われる時、私はこの「血」を、十字架で流される血潮の先取りではないかと思うのです。そしてそれは、この時主イエスが、この杯を飲み干す決意を為された。その覚悟ができたことを示しているのだと思います。これからイエス様は、ユダに裏切られ、最高法院やポンテオ・ピラトの面前で裁きをお受けになる。その時、イエス様にもう迷いはないのです。毅然とした態度で、裁判へと臨まれる。十字架の死へと臨まれるのであります。それは、このオリーブ山での祈りによって、イエス様のお心が定まったからに他ならない。この祈りによって腹が据わったからに他ならないのです。ユダヤでは、日没から一日が始まり、次の日の日没で一日が終わると考えられていました。私たちは朝から一日が始まると考えるのでありますけども、ユダヤの人々は、日没から一日が始まると考えたのです。ですから、イエス様は、このオリーブ山でお祈りになられた、その同じ日に裁きを受け、十字架へとおつきになるのです。このオリーブ山での祈りは、十字架につけられる日の始まりに為された祈りであったのです。そして、この苦しみもだえられた祈りがあったからこそ、イエス様は十字架の道をしっかりと歩み抜くことができた。父なる神から与えられた、その杯を飲み干すことができたのであります。

 イエス様が祈り終わって立ち上がり、弟子たちの所へ戻ってご覧になると、弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでおりました。祈りなさいと言われていたのに、弟子たちは眠り込んでいた。しかし、私は思うのです。たとえ、誰であっても眠り込んでしまったのだろうと。たとえ、もし、私たちが、主イエスの傍らにいたとしても、私たちは眠りこんでしまったと思うのです。なぜなら、人間は誰もこの主イエスの思いを共有することはできないからであります。また、人間は誰も、この主イエスの祈りを共に担い、祈ることはできないからです。それは、そうでありましょう。イエス様は、弟子たちのために、私たちの罪のために、その身代わりとしてこれから刑罰を受けようとしておられるのでありますから。ここに、全く孤独なメシアとしての主イエス・キリストのそのお姿があるのです。

 イエス様は、悲しみの果てに眠り込む弟子たちにこう仰せになります。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

 ここで、「起きて」と訳されている言葉は「立ち上がって」とも訳すことができます。45節に、「イエスが祈りを終わって立ち上がり」とありますが、ここで「立ち上がり」と訳されている言葉と46節の「起きて」と訳されている言葉は同じ言葉であります。私は先程、汗が血にたとえられるのを読んで、ここに十字架で流される血潮の先取りがあると申し上げました。そうであれば、この「立ち上がった」は、主イエスのよみがえりを先取りしているのであります。そして、事実、ここで「立ち上がった」と訳される言葉は「よみがえった」とも訳すことができる言葉なのです。40節と46節のイエス様の言葉を比べると、ほとんど同じでありますけども、しかし、46節には「起き上がって」「立ち上がって」「よみがえって」という言葉が記されているのです。それは、主イエスの復活の光の中で、祈り続けなさい、ということであります。私たちの身代わりとして呪いの死を死んでくださった主イエスが、復活し、今、聖霊において私たちと共にいてくださるのです。それゆえに、私たちは祈り続けることができる。「わたしの願いよりも、御心のままに行ってください」、この主イエスの言葉をなぞるように祈りつつ、誘惑に勝利することができるのです。

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