時の転換 2006年3月12日(日曜 朝の礼拝)

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時の転換

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章31節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
22:35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、
22:36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
22:37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
22:38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。ルカによる福音書 22章31節~38節

原稿のアイコンメッセージ

イエス様は、主の晩餐の席で、シモン・ペトロにこう仰せになりました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」。

 ここで、イエス様はシモンに、「あなたはわたしにつまずく」、「あなたはわたしから離れていく」と仰せになられたのです。そして、そのシモンのために、信仰が無くならないように祈り、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいとお命じになるのであります。これを聴いて、ペトロは、大変驚いたと思います。自分がイエス様を見捨てることなどあり得ない、その思いがシモンにこう言わせるのです。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。

 シモンは、これからイエス様の身に起こることが、必ずしも明るい、輝かしいものではないことに気づいていたようです。過越の食事の祝いの席で、断食をする主イエスの姿に、ただならぬ決意を感じていたのではないかと思います。イエス様を待つもの、それはきらびやかな王宮ではなくて、薄暗い牢獄であるかも知れない。いや、それどころか死であるかも知れない。しかし、わたしは、もしそうであったとしても、あなたと一緒にいたい。いや、その覚悟はもうできているのだと、シモンはイエス様に申し上げたのです。このシモンの言葉は、真心から出た言葉であると思います。シモンは、この時、本当にその覚悟が自分にはできていると思っていたのです。しかし、イエス様はこう仰せになるのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」。

 ここで、イエス様は、シモンのことをペトロと呼びかけております。シモンとは、本名であります。親から名付けられた名前がシモンでありました。そのシモンに、イエス様はペトロという名前を付けられました。私たちは、ペトロという名前に親しんでおりますから、ペトロを本名のように考えやすいのでありますけども、ペトロとは、イエス様が付けられた、いわばクリスチャンネームでありました。イエス様は弟子たちの中から12人をお選びになられたときに、シモンをペトロと名付けられたのであります。ペトロとは、岩という意味です。岩とは、堅く動かないもの、確かな土台となるものを意味しております。このように聞きますとき、私たちが思い起こすのは、マタイによる福音書第16章に記されているペトロの信仰告白の場面ではないかと思います。そこで、シモン・ペトロは、イエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表しました。それを受けてイエス様はこう仰せになったのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」。

 イエス様は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したペトロに、あなたはまさにペトロだ、岩だと喜んで仰せになられた。そして、そのように告白するペトロを土台として、イエス様はわたしの教会を建てると仰せになられたのです。このとき、ペトロはどれほどうれしかったかと思います。自分はそのような揺るぎないもの、岩なのだと自らを誇らしく思ったに違いないのです。けれども、今朝の御言葉では、このペトロという名前が、岩という意味を裏切るかのように、空しく用いられているのです。かつて主イエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した岩、ペトロが、鶏が鳴く前に三度主イエスを知らないと言うであろうと、予告されるのであります。鶏とは、朝を告げる鳥でありますね。また、三度知らないと言うことは、その人との関係を完全に否定することを意味しています。ですから、今夜、夜が明ける前に、あなたはわたしとの関係を完全に否定するだろうとイエス様はここでペトロに仰せになられたのです。この34節を原文から直訳するとこのようになります。「今日、あなたがわたしを知っていることを三度否定するまでは、鶏は鳴かないであろう。」。鶏が鳴かないことは考えられませんから、それほど確実に、ペトロが御自分との関係を否定するとイエス様は仰せになったのです。

 それから、イエス様は使徒たちにこう言われました。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」

 ここで、イエス様はガリラヤ伝道の日々を思い起こして語っておられます。かつて、イエス様が、十二人を神の国を宣べ伝え、病人をいやすためにお遣わしなったことが第9章に記されておりました。その際、イエス様は12人にこう仰せになったのです。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」。

 イエス様は、ガリラヤ伝道において、本来、旅の必需品とも言える財布も袋も履物も持たせずに12人をお遣わしになりました。手ぶら同然で旅へと遣わされたわけです。これは無謀と思えることでありますけども、12人によれば、不足したものは何もなかったのでありました。それは、人々が、彼らを好意的受け入れてくれたからであります。人々は、主イエスを好意的に受け入れていたがゆえに、その弟子たちをも好意を持って受け入れ、宿や食べ物を提供してくれたのでありました。それゆえ、彼らは何も持たずに旅を続けることができたのであります。それは、まことに喜ばしい、輝かしい思い出として使徒たちの胸に刻まれていたと思います。けれども、イエス様は、こう仰せになるのです。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」。

 ここでイエス様は、かつて仰せになったことの全く反対のことを使徒たちに命じております。かつて、イエス様は「財布も服も履物も持って行くな」と仰せになりましたが、しかし今は、「財布も、袋も持って行け。剣のないものは、服を売ってでもそれを買いなさい」と仰せになるのです。ここでの剣は、戦うための剣ではなくて、旅人が護身用に携帯していた剣を指しています。かつて、杖も持って行くなと言われたイエス様が自分の身を守るために剣を持って行けと言われたのです。そればかりか、服を売ってでも剣を買いなさいと言うのであります。服、上着は、夜冷え込みの厳しいイスラエルにおいて、とても大切なものとされておりました。出エジプト記第22章25節には、「隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない」と記されています。それは上着がないと寒くて眠れないからです。その大切な上着を売ってでも、剣を手に入れなさいとイエス様は仰せになるのです。ですから、これは、文字通りの命令というよりも、今という時がどのような時なのかを教える誇張表現であると理解できるのです。大切な上着を売ってでも、剣を手にしなければならない、そのような時がこれから来る、いやすでに来ているとイエス様は使徒たちに教えられたのであります。

 なぜ、今は、財布や袋を持って行かなければならないのか。また、服を売ってでも剣を買わなければならないのか。それは、彼らの先生であり、主であるイエス様のうえに、『その人は犯罪人の一人に数えられた』という預言が実現しようとしているであります。彼らの先生であり、主であるイエス様が犯罪人の一人に数えられる。犯罪人の一人として、十字架刑に処せられる。その時、これまで好意的であった人々の眼差しが敵意をもった眼差しに変わる。それは、イエス様だけに限られたことではない。わたしを信じるあなたがたにも及ぶことなのだとイエス様は仰せになるのです。そのような人々の敵意にさらされて、使徒たちはこれから歩まなければならない。それゆえに、イエス様は彼らに、財布や袋、剣さえも持って行きなさい、と仰せになられたのです。

 これからイエス様の上に実現する『その人は犯罪人の一人に数えられた』という言葉は、旧約聖書のイザヤ書第53章12節の御言葉であります。イザヤ書53章を読みますと、まるでイエス様の歩まれた御生涯がそのまま書き記されているような錯覚を覚えます。けれども、この預言が記されたのは、イエス様がお生まれになる何百年も前のことなのです。その預言が今、まさにイエス様のうえに実現しようとしているのです。実際に開いて見たいと思います。旧約聖書の1150頁です。イザヤ書の53章11節から12節をお読みいたします。

  彼は自らの苦しみの実りを見

  それを知って満足する。

  わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

  彼らの罪を自ら負った。

  それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし

  彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

  彼が自らをなげうち、死んで

  罪人のひとりに数えられたからだ。

  多くの人の過ちを担い

  背いた者のために執り成しをしたのは

  この人であった。

 この12節の真ん中に、「罪人のひとりに数えられたからだ」とあります。この預言が、これからわたしの上に実現するとイエス様は仰せになられたのです。そして、それは他でもない、主イエスを信じる者たちが正しい者とされるためでありました。イエス様は、何の罪もないお方であったにもかかわらず、私たち罪人が正しい者とされるために、私たちの罪を自ら担い、十字架につき、罪人の一人と数えられるのです。けれども、このことが誰に対しても明らかに示されたわけではありません。イエス様がペトロの信仰告白を受けて、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と仰せになられたように、イエス様が罪人の一人に数えられ、十字架におつきになるのは、このわたしのためであったことを誰もが知っているわけではないのです。それは、ただ父なる神の霊のお働きによって、知ることができるのです。むしろ、多くの人々は、イエスが十字架につけられたのは、彼自身が何か罪を犯したからであろう、それゆえに、神は彼を打たれたのであろうと考えたのです。そもそも、「十字架につけられた男が救い主である」などという教えは、人間の理性からすれば、受け入れがたいこと、馬鹿げたことであります。使徒パウロも、コリントの信徒への手紙一第1章18節でこう申しております。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」。こう語った後で、パウロは、神の思いを悟らせる聖霊の働きについて論じているのです。パウロは、さらにこう語っています。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるのです。」。

 聖霊を与えられて初めて、人はイエス・キリストの十字架がこの自分のためであったということを悟ることができるのであります。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書の155頁です。

 私たちの主イエスが、十字架につけられたということ。そのこと自体が、私たちの歩む道の険しさをすでに指し示しています。十字架につけられたイエスを主として歩むということは、主イエスへの敵意を私たちへの敵意として受け入れるその覚悟をしなければならないということであります。主イエスを憎む者たちが、その主イエスを信じる私たちに好意を寄せることは考えられません。主イエスに対して、人々の敵意が燃え上がる時、それはキリストの弟子である私たちにもその敵意は向けられるのであります。ですから、イエス様はヨハネによる福音書第15章でこう仰せになったのです。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」。さらにこう仰せになります。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」。

 主人が迫害されるならば、その僕たちも迫害されるのです。また、先生が迫害されるならば、その弟子たちも迫害されるのであります。このように、主イエスと私たちの歩みは一体的な関係にあるのです。こう聞いて、それなら、イエス様を信じない方がいいと考える人もいるかも知れません。この地上の損得だけを考えるならば、そう言えるかも知れません。けれども、イエス・キリストによって選ばれ、その聖霊をいただいた者たちにとってはそうではないのです。なぜなら、私たちキリスト者は、主イエスが「犯罪人の一人に数えられた」のが、この私のためであったということを知っているからであります。そして、何より主イエスが、十字架の死から三日目によみがえり、天に昇り、今も生きて働いておられることを知っているからであります。37節の「犯罪人」という言葉を読みますときに、私たちはここに、自分を見出すべきであります。イエス様がこの罪人である自分の仲間となってくださった。そして、この罪人である私の罪を代わりに担ってくださった。それゆえに、たとえそれが迫害の伴う苦難の道であったとしても私たちは主イエスと共に歩み続けるのであります。その道がやがては復活へと通じることを知っているがゆえに、また、主イエスがすでにこの世に勝利してくださったということを知っているがゆえに、主イエスと共に歩み続けるのであります。

 「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」。このイエス様の言葉を受けて、使徒たちは「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と申しました。イエス様は、「服を売って剣を買え」という誇張表現によって、今これから迎えようとしている時がどのような時であるのかを教えようとなされた。けれども、使徒たちは文字通り剣を指し示したのであります。イエス様はそれに対して「それでよい」とお答えになりました。この「それでよい」という言葉は、使徒たちの言葉を肯定したとも、話しを打ち切られたとも解釈することができます。「それでよい」と肯定した。もしくは、「この話しはこれで終わりにしよう」という意味で「それでよい」と打ち切られた。両方、解釈することができるのです。

 使徒たちは、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」というイエス様の言葉を「剣をもって敵に立ち向かえ」と理解したのかも知れません。事実、イエス様が捕らえられようとした時、ある者は「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い、大祭司の手下に打ちかかり、その右の耳を切り落としたのでありました。けれども、イエス様は、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れてお癒しになられたのです。マタイによる福音書の並行個所によれば、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とさえイエス様は言われているのです。また、ヨハネによる福音書第18章36節で、イエス様はポンテオ・ピラトを前にしてこう仰せになっています。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったであろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」。

 このように、イエス様の教え全体から考えるならば、ここで、使徒たちが剣をもって敵に立ち向かうことをよしとされた。肯定されたと考えるのは大きな間違いであります。事実、ルカによる福音書の続編である使徒言行録を読みますと、使徒たちが迫害する者たちに剣をもって立ち向かったということは一切記されておりません。ですから、今朝の御言葉から、イエス様が教会に武器を取ることを教えられたと決して解釈してはならないのです。

 使徒たちは、ここで、物理的に剣を二振り差し出しましたけども、やがて、ここで主イエスが教えられたことを身をもって知ったことでありましょう。主イエスの名のゆえに、人々から憎まれるということを通して、確かに、今は自分で財布も袋も、剣さえも用意しなければならない戦いの時であると理解したと思います。けれども、その時、使徒たちはそれをこの世の戦いではない、霊的な戦い、信仰の戦いであると理解したのです。それは、ちょうどイエス様が「わたしの国はこの世に属していない」と仰られたのと同じであります。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第6章で、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と語っております。そして続けて、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と命じているのです。

 私たちは、私たちを憎み、迫害するその人自身ではなくて、その人の心を捕らえて離さない悪魔の働きを、霊的な眼(まなこ)をもって見抜かなければなりません。そして、その霊的な戦いに必要なのは、二振りの剣ではなくて、どんな諸刃の剣よりも鋭い神の言葉であるのです。神の言葉を、日々心に蓄えつつ、信仰の戦いを立派に戦い抜きたいと、願うのであります。

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