あなたのための祈り 2006年3月05日(日曜 朝の礼拝)

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あなたのための祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章31節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ルカによる福音書 22章31節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 最後の晩餐の席で、イエス様は、シモン・ペトロにこう仰せになります。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」

 12人の一人であるイスカリオテのユダに入ったサタンは、今度は、残りの使徒たちを、小麦のようにふるいにかけることを神に願い、聞き入れられました。「小麦のようにふるいにかける」とは、小麦のもみがらとその実を分けるように、信仰が試されるということであります。サタンは、使徒たちの信仰が本物であるかどうか試すことを神に願い、父なる神はそれをよしとなされたのです。私たちが、このイエス様の御言葉を理解するもっともよい助けとなるのは、旧約聖書にあるヨブの物語であります。旧約聖書の775頁をお開きください。ヨブ記の1章6節から12節までをお読みいたします。

 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

 ここには、サタンが、神の僕ヨブの信仰を試すことを神に願い入れ、聞き入れられたことが記されています。神は、ヨブについて、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていると仰せになりました。けれども、サタンは「ほんとうにそうでしょうか。ヨブが神を敬っているのは、自分の利益のためではないでしょうか」と神に挑戦するのです。つまり、御利益があるから、神を敬っているに過ぎない。神を畏れ、悪を避けて生きているというけれども、それは自分の利益に適っているからではないかと、サタンは言うのです。それどころか、もし神が彼の財産に触れるならば、面と向かってあなたを呪うに違いない、とまで断言するのです。神は、このサタンの願いを聞き入れ、ヨブのものを一切、サタンの手に委ねられたのです。

 ここで、私たちが知らなくてはならないことは、どのような試みも主なる神のみゆるしなくては起こり得ない、ということであります。たとえ、それがサタンの誘惑であったとしても、神のみゆるしなくしては起こり得ないのです。聖書において、「誘惑」と訳される言葉は、「訓練」とも訳されます。文脈によって、「誘惑」とも訳されるし、「訓練」とも訳される。つまり、サタンの側から見れば、ヨブにこれから起こることは、神を呪うことへの誘惑と言えます。しかし、主なる神の側からすれば、さらに御自分との信頼関係を確かなものとするための訓練であると言えるのです。イエス様が、「サタンがあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と仰せになった時、私たちは、父なる神が、サタンの誘惑を信仰の訓練としてお用いになることを、ヨブの物語から思い起こすべきであるのです。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書の154頁です。

 続けてイエス様はこう仰せになります。32節。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」。

 サタンからの試みを受けるのは、「あなたがた」、つまり全ての使徒たちでありました。けれども、イエス様はここで、「あなたのため」つまり、シモン・ペトロのために祈ったと仰せになります。これから、お祈りになられるのではありません。もう、すでに祈られたのです。それもペトロの信仰が無くならないようにと、イエス様はお祈りになったのです。これを聞いたとき、ペトロは驚いたことでありまでしょう。ペトロは、自分が誰よりも主イエスに熱心に従ってきたと思っていたはずです。その自分から信仰が無くなってしまわないように、主イエスは祈られたというのです。そして、それはペトロのためだけではない。兄弟たちを力づけるためでありました。イエス様の祈り、確かにそれはペトロのための祈りと言えます。けれども、イエス様の祈りは、ペトロ個人に留まらない。そのペトロによって、兄弟たちが力づけられるようにと、イエス様はお祈りになったのです。

 ここで、「立ち直ったら」と訳されている言葉は、「立ち帰ったら」とも訳すことができます。「立ち直ったら」という言葉は、「倒れてしまう」ことを前提としています。また、「立ち帰ったら」という言葉は、イエス様のもとから離れてしまうことを前提としているのです。ですからイエス様は、ペトロに、あなたはわたしにつまずく、あなたはわたしから離れていくと仰せになられたのです。しかし、イエス様は、それだから、あなたはもう使徒失格だ、弟子失格だなどと仰せになったのではありません。その倒れてしまうペトロ、離れてしまうペトロのために祈り、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、とお命じになるのです。この時、イエス様が見ていたペトロは、主の食卓にいたペトロだけではありません。主イエスの祈りによって、これからなろうとするところのペトロの姿でありました。イエス様は、もうこのとき、使徒言行録の2章において、十一人と共に立ち上がって説教をする、あのペトロの姿を祈りの中で見ていたのです。

 「今現在の姿の中に、将来なるであろう、その姿を見る」。これは、私たちもよくしていることではないかと思います。自分のことを申し上げて恐縮ですけども、ご存じように、1月の末、私たち夫婦に女の子が与えられました。今は、おっぱいを飲んで、排泄をして、眠ることしかできません。その繰り返しです。最近はやっと、自分で首を左右に動かすことができるようになりました。私がその娘の姿を見るときに、いつも思い描くのは、これから成長するであろう、その姿であります。生まれたばかりの娘の姿を見るとき、これから、はいはいができるようになって、歩くことができるようになる姿を重ねて思い描く。さらには、幼稚園、小学校といった成長した姿まで思い描くのであります。「今現在の姿の中に、将来なるであろう、その姿を思い描く」。これは、私だけではない。誰もがしていることであろうと思います。

 ドイツの実践神学の教授にルードルフ・ボーレンという人がおります。そのボーレン先生が記した書物に『説教学』という書物があります。その第五部は「聞き手」について論じています。説教を語る説教者が、説教を聴く聴衆をどのように理解すればよいのかが、そこで論じられているのです。その中でボーレン先生は、「説教者は聴衆を創造的に発見すべきである」と語っています。「説教者は聴衆を創造的に発見すべきである」。そこに集う聴衆の現在のありのままの姿を見るのではない、その聴衆が、神の言葉によって変えられるであろう、その将来の姿を創造的に発見しなければならない、というのです。ボーレン先生はこのように語っています。「聴衆を創造的に発見するというのは、すでにそこにあるものとして発見されている者を、改めて神の御前にあるものとして発見すること、つまり神の恵みによる選びの中でこれを見るということを意味する。」。つまり、聴衆を、イエス・キリストにある選びの光の中で改めて発見すること。これが説教者が持つべき眼差しであるとボーレン先生は語るのです。

 もう少し具体的に言いますと、例えば今ここに、まだ信仰告白をしていない契約の子供たちがおります。その契約の子供たちを見るとき、この子供たちはやがて信仰告白をしていくという光の中で見なくてはなりません。また、求道者の方を見るとき、この人はやがて主イエスを信ずる者となるという光の中で見なくてはなりません。また、信徒の方を見るとき、その人のためにも、主イエスは死んで下さったという光の中で見なければならない、ということであります(ローマ14:15)。

 これは、何も説教者だけが持つべき眼差しではありません。わたしたちの誰もが、互いに互いを、創造的に発見しなければならない。つまり、主イエスの選びの光の中で、互いに見つめ合わなくてはならないのです。私たちは、互いを兄弟姉妹と呼び合います。これは、主イエスにあって神の家族とされた者、主イエスにあって兄弟姉妹にされた者という意味です。そうであるならば、私たちが互いに互いを兄弟姉妹と呼び合うとき、すでに創造的発見が始まっているのです。私たちは、互いをじかに、裸のままの姿で見るのではない、主イエス・キリストの光の中で、その恵みをまとう姿を信仰によって見出すべきなのです。そして、何より主イエスは、ペトロをそのような眼差しを持って見つめられたのです。

 イエス様は「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と仰せになりました。これは、神と人との仲介者としての主イエスの祈りであります。先程、ヨブ記の言葉を長々とお読みしましたが、ヨブが願っていた者は、神と自分との間を調停してくれる仲裁者でありました。例えば、ヨブ記の9章32節から35節にはこう記されています。旧約聖書の787頁です。9章32節から35節。

 このように、人間ともいえないような者だが/わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座にでることができるなら/あの方とわたしの間を調停してくれる者/仲裁する者がいるなら/わたしの上からあの方の杖を/取り払ってくれるものがあるなら/その時には、あの方の怒りに脅かされることなく/恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。

 また、16章の18節から21節にはこう記されています。旧約聖書796頁です。16章の18節から21節。

 大地よ、わたしの血を覆うな/わたしの叫びを閉じ込めるな。このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。人とその友の間を裁くように/神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。

 何もかも失い、重い病を負ったヨブは、天における弁護者、執り成す方を信仰によって、仰ぎ見ていました。ヨブは信仰によって、来るべき主イエス・キリストを仰ぎ見ていたのです。そして、イエス様は、御自分の民の弁護者、執り成す方としてシモン・ペトロのためにお祈りになったのです。いや、ペトロだけではない、私たち一人一人のために、信仰がなくならないようにと祈ってくださったのです。使徒パウロは、ローマの信徒の手紙第8章34節でこう語っています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」。

 かつて、シモン・ペトロのために祈られた主イエスが、今、天において私たちのために執り成してくださる、私たちはこのことを今朝、深く覚えたいと願います。そして、私たちも、互いを主イエスの選びの光の中で再発見したい。私たち羽生栄光教会の営みを、主イエスの救いの光の中で見つめ直したいと願います。

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