仕える者のように 2006年2月26日(日曜 朝の礼拝)

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仕える者のように

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章21節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」ルカによる福音書 22章21節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様と使徒たち、彼らは今、過越の食事の席におります。その初めにイエス様はこう仰せになりました。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」。イエス様が使徒たちと過越の食事をしたいと切に願われたその理由、それはこれからお受けになる御自分の苦しみ、十字架の死の意味を彼らに教えるためでありました。つまり、イエス様は、パンとぶどう酒を通して、御自分の死の意味を説き明かされたのであります。イエス様は、裂かれたパンを「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」と言われ、ぶどう酒の杯を「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と言われたのです。モーセを通して与えられた旧い契約を覚える過越の食事は、イエス・キリストを通して与えられた新しい契約を覚える主の晩餐として実現したのです。そして、この主の晩餐を、わたしの記念として行うよう、主イエスは教会に命じられたのであります。

 イエス様は、この主の晩餐を通して、御自分の死が、他でもない「あなたがたのため」であることを宣言なさいました。そして、続けてこう仰せになるのです。21節。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」

 イエス様が、これから使徒たちのために死のうとしている。あなたがたを罪から贖うために、わたしはこれから死ぬとイエス様は仰せになられた。しかし、その「あなたがた」の中にイエス様を裏切る者がいると仰せになるのです。この「しかし」は驚くべき「しかし」であります。本来あってはならない「しかし」です。主の食卓にあずかりながら、主イエスの死の意味を教えられながら、主イエスを裏切るのです。以前も、申しましたけども、ユダヤにおいて食卓を共にするということは、最も親密な交わりを意味しておりました。その同じ食卓に手を置きながら、その食卓の主人である主イエスを裏切る者が、その中にいるのです。

 私たちは、22章の始めで、12人の一人であるイスカリオテのユダが、イエス様を引き渡そうと、良い機会をねらっていたことを読んでおりますから、これはユダのことを言っているのだ、ということが分かります。「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」。この主イエスの言葉を聞きます時、私たちはすぐにユダのことを思い浮かべる。イエス様もユダが、自分を裏切る者であるということをご存じであったはずです。しかし、ここでイエス様はあえて、イスカリオテのユダという名前を出しませんでした。ただ、わたしと一緒に手を食卓に置いている者が、わたしを裏切ると仰せになられたのです。なぜ、イエス様は、このような言い方をなされたのか。それは、主の食卓にあずかる者たちに、自分の信仰を吟味させるためであったと考えられます。私たちも、新しい月が来るごとに、主イエスが制定された聖餐の恵みにあずかります。そして、その聖餐の恵みには、主イエスを神の御子・救い主と信じる者しかあずかることはできません。つまり、成人洗礼を受けた者、もしくは、幼児洗礼を受けて信仰告白をした者しか聖餐の恵みにあずかることができない。求道中の方や未信者の方は、同じように讃美歌を歌い、同じように説教を聞いたとしても、この聖餐にはあずかることはできないのです。それは、主の食卓にあずかるということによって、主イエスの弟子であるか否かが明らかにされるためであります。主の食卓にあずかることによって、そこに主の民の姿がくっきりと浮かび上がってくるのです。ですから、聖餐のパンとぶどう酒にあずかることは、主イエスの贖いにあずかる主の民であることのしるしであると言えるのです。それではですね、この主の聖餐にあずかっていれば、それで安心できるのか。聖餐にあずかってさえいれば、真のキリスト者であると断言できるのかと言えば、そうではありません。聖書は、主の食卓にあずかる者の中から、主イエスを裏切る者が出たことを教えているのです。これは、決して人ごとではありません。主の食卓にあずかっている、この私が主イエスを裏切る者になるかも知れない、ということであります。主イエスの聖餐にあずかるものから、主イエスを裏切る者が出てきた。そのことを覚えつつ、自らの信仰と生活を省みて、主の食卓にあずからなくてはならないのです。

 使徒パウロが、コリントの教会に書き送ったことも、このことでありました。コリントの信徒への手紙一第11章で、パウロはこう語っております。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(一コリント11:27-29)

 この21節で、「裏切る」と訳されている言葉は、「引き渡す」と訳される言葉と同じであります。ユダがイエス様を祭司長や神殿守衛長たちに引き渡そうとした。この「引き渡す」という言葉が、ここでは「裏切る」と訳されているのです。イエス様は、ペトロの信仰告白以降、御自分の死を三度予告なされました。その二度目の予告の際、イエス様は弟子たちにこう仰せになります。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」。ここでの人々とは、イエス様を殺そうとする祭司長や律法学者たちのことであります。そして、その人々の手に引き渡す者が、他でもない12人の中から出て来るのです。そして、イエス様はそのことを、神の定められたところだと仰せになる。つまり、主イエスの受難、主イエスの死は、神のご計画によるものだと仰せになるのです。それが、「人の子は、定められたとおり去って行く。」という言葉の意味するところであります。こう聞くと、それでは、主イエスを人々に引き渡す者は悪くないのではないか、と思う方もおられるかも知れません。ユダは、神様のご計画を実現する者であったにすぎないのだから、ユダは悪くないと考える人もいるのではないかと思います。しかし、イエス様は、はっきりとこう仰せになるのです。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」。

 イエス様は、ここで御自分が去っていくのは、神がお定めになられたことだと仰せになられる。そして、同時に、自分を引き渡す者は不幸であると、その者の罪、責任を問われるのであります。主なる神は、人間の罪をも用いつつ、御心を実現なされる。しかし、その罪の責任は、その人自身に問われるのであります。ましてや、主の食卓にあずかりながら、主イエスを裏切る者は、まさしく不幸であります。なぜなら、それは主イエスの贖いの恵みから、自らを閉め出してしまうからです。主イエスは、これから、わたしはあなたがたのために、十字架の上で屠られると仰せになられた。わたしの肉と血、わたしの命をあなたがたは受けよと仰せになられたのです。その招きの中に、その「あなたがた」の中に、イスカリオテのユダも含まれていたのです。イエス様は、イスカリオテのユダのためにも、死んでくださろうとしている。しかし、それにも関わらず、ユダは主イエスを裏切ろうとしていたのです。イエス様がユダを滅びに引き渡すのではありません。ユダ自身が、イエスを引き渡すということによって、自らを滅びに引き渡すのです。ユダを滅びに引き渡すのはイエス様ではない。イエス様を引き渡すユダ自身が自らを滅びへ引き渡すのです。

 

 「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」。このイエス様の言葉を聞いた使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めました。使徒たちは、ユダが主イエスを裏切ろうとしていることを知りませんから、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めたのです。しかし、そこでは、「もしかしたら、自分がイエス様を裏切るのではないか」という発想は抜けていたようです。むしろ、犯人捜しのように、この人ではないか、あの人ではないかと互いに論じあったのです。その証拠に、この議論はいつの間にか「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論にすり替わっていきます。細かいことを言うようですが、23節で、「議論」と訳されている言葉と、24節で「議論」と訳されている言葉は、別の言葉であります。24節で、「議論」と訳されているギリシャ語は、フィロネイキアという言葉です。フィロとは「愛する」という意味であります。哲学をフィロソフィーと申しますが、これは元々、知恵(ソフィア)を愛するという意味です。ですから、ここでの議論は、彼らが愛した議論であった。彼らがよく好んだ議論であったと言えるのです。主イエスは、食卓において、「神の国の到来」について言及なされましたから、その食卓の後に、イエス様が王となられたあかつきには、誰がそれに次ぐ地位につくかを、好んで話題にしたのは当然のことであったと言えるのです。しかし、そこでイエス様はこう仰せになります。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」。

 弟子たちは、偉いということを権力と結びつけて考えておりました。そして、それは異邦人の、つまり真の神を知らない人たちの間に見られることであるとイエス様は言われるのです。この所で「偉い」と訳されている言葉は、元々は「大きい」という言葉であります。大きい者、偉大な者とは、どのような者か。それは人の上に立って、権力を振るう者でありましょう。世の常識からしても、そう言えると思います。しかし、イエス様は、あなたがたはそれではいけないと仰せになるのです。あなたがたの中でいちばん偉大な者は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい、とイエス様は仰せになるのです。つまり、神の国における偉大さは、この世の偉大さとは異なる、むしろ正反対のものであると教えられたのです。そして、それは何より、主イエスにおいて見ることができるものでありました。27節。「食事の席に着く人と給仕をする者とでは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」。

 先週も申しましたけども、ここで「食事に席につく」と訳されている言葉は、「横になる、寝転がる」という言葉であります。横になって、食事を食べる人と、その食事を運び、用意する者のどちらが偉大な者か。それは、誰の目から見ても、食事を取る者であります。しかし、イエス様は、そうではないと仰せになる。むしろ、給仕する者が偉大な者だと仰せになるのです。そして、イエス様御自身が、使徒たちに給仕する者のように仕えられたのです。前回私は、イエス様がこの主の食卓に着かれながら、御自分は、過越の食事をお食べにはならなかったと申し上げました。イエス様は、パンとぶどう酒を取り上げ、感謝の祈りを唱え、弟子たちに配られたが、御自分は何も飲まず、何も食べなかった。このことを覚えるとき、27節のイエス様の言葉が、単なる譬えではないということが分かってきます。事実、イエス様は、この主の食卓において、弟子たちに給仕なされたのです。私たちが、聖餐の恵みにあずかりますとき、御言葉を語る教師が司式をし、長老たちが配餐のご奉仕をなされます。それは、この主イエスのお姿を映し出すものなのです。聖餐の恵みにあずかるとき、皆さんは、食事の席につく者となる。そして、配餐をする長老たちは、皆さんにお仕る者、主イエスの姿を映し出す者となるのです。長老たちが差し出す、パンとぶどう酒を受ける時、主イエスが私たちに給仕する者として、この地上を歩んで下さったことを思い起こしていただきたいと思います。そして、神の国における偉大さは、仕えることにある。自分を他者のためにささげる者こそが、偉大であることを覚えたいと思います。事実、主イエスは私たちのために御自分をささげてくださったがゆえに、誰よりも偉大なお方であられたのです。

 

 使徒たちは、このとき、主イエスが教えてくださったことが分からなかったかも知れません。仕える者、他者のために生きる者こそが神の国では偉大な者だと教えられても、彼らにはおそらく分からなかったでありましょう。「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」。この議論は、実は、9章において、既に出てきた議論でありました。それが、この最後の最後になっても、また出てきた。使徒たちは、イエス様と生活を共にし、教えを受けながらちっとも成長していない。誰も自分のことで頭がいっぱいな者たちであった、と言うことができます。ある人は、この弟子たちの無理解にイエス様はどれほど悲しまれたことか、と申しております。確かに、イエス様は弟子たちの無理解に悲しまれたのかも知れません。けれども、私は思うのであります。イエス様は弟子たちの無理解に悲しまれたよりも、むしろ、御自分のそばにいたことを喜ばれたのだと。なぜなら、イエス様は28節でこう仰せになるからです。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」

 イエス様が遭われた種々の試練、それは他でもない、イスラエルの指導者たちの不信仰でありました。神の御子であるイエス様は、神の民であるイスラエルのもとにおいでになられた。そうであるならば、誰もがイエス様をもろ手をあげて迎え入れるはずでありましょう。イスラエルは、やがて、救い主が与えられることを約束されていた、主によって整えられた民でありました。そこに救い主であるイエス様がおいでになれば、皆がイエス様を信じ、受け入れてもよさそうなものであります。特に、旧約聖書に詳しい律法学者たちは、イエス様を歓迎してもよかったのです。いや、彼らこそ、誰よりも先に、主イエスに従う者となってもよかったはずでありました。けれども、その彼らこそが、イエス様を受け入れようとはしないのです。イエス様が病を癒し、悪霊を追い出すという不思議な業をなされても、それをイザヤ書の預言の成就とは理解しない。それどころか、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」と中傷したのです(11:15)。また、彼らはことあるごとに、しるしを求めたのです。これが、イエス様にとって、どれほどの試練であったか、と思います。御自分の民のところに来ても、受け入れられない。これが、イエス様にとってどれほどの試練であったかと思う。しかし、イエス様のもとにいつも一緒にいる者たちがいたのです。勘違いしながらも、主イエスの話しを聞き続ける使徒たちがいたのです。それによって、主イエスはどれほど励まされたかと思う。大げさな言い方かも知れませんが、主イエスは、十二人が絶えず一緒に留まり続けてくれたお陰で、ここまでやってこれたのであります。

 このことは、説教者のことを考えれば分かりやすいと思います。説教者とは、主イエスによって立てられ、教会の公の会議において按手を受けた者であります。かつて主イエスが御自分の民に語られた言葉を、今生きる主の民に生きた言葉として語る、それが説教者の務めであります。その説教者にとって、いちばんの試練とは何なのか。それは主の民から自分の語る説教が軽んじられるといことです。キリスト者と呼ばれる者の中から、キリストの言葉を語っているにも関わらず、受け入れられず、非難される。これにまさる試練は説教者にとってないと思います。しかし、それでも、説教者が、主イエスの言葉を語り続けることができるのはなぜか。それは、神の言葉を神の言葉として聞き続ける、主の民がいるからです。説教者への何よりの励まし、それは説教に熱心に耳を傾けることであります。説教者のために祈り、その説教に熱心に耳を傾ける者がいる。そのことが説教者の心を励まし、支えるのです。そして、イエス様にとって、十二人はまさにそのような者たちでありました。12人は、どのような時も、主イエスのもとに留まり、主イエスの教えに心を傾け聞き続けた者たちであった。十二人は主イエスの慰めとも言える者たちであったのです。ですから、イエス様はこう仰せになるのです。「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」。

 ここで、「ゆだねる」と訳されている言葉は、20節の「契約」という言葉の動詞形であります。ですから、29節は直訳するとこうなります。「わたしの父がわたしに支配権を契約してくださったように、わたしもあなたがたにそれを契約する」。ここで、イエス様とイエス様の言葉に踏みとどまる者たちとの関係が明らかとされています。つまり、主イエスは、御自分の言葉に留まり続ける者たちを、御国の共同統治者にしてくださると契約してくださったのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第8章17節でこう語っています。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」。

 なぜ、パウロはこのように語ることができたのでしょうか。それは、主イエスが、主の晩餐の席で、「わたしの父がわたしに支配権を契約されたように、わたしもあなたがたにそれを契約する」と宣言してくださったからです。ここで「支配権」と訳されている言葉は、むしろ「王権」と訳すべき言葉であります。王権を授けてくださると契約してくださったのです。それゆえ、使徒たちは、来るべき神の国において、主イエスの食卓の席に着き、共に飲み食いし、王座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる、とイエス様は仰せになるのです。私たちは、主イエスが過越の食事をお食べにはならなかったことを、ここでもう一度思い起こさなくてはなりません。主イエスの再臨によって、神の国が実現するとき、私たちは主イエスと共に飲み食いし、大いなる喜びを味わうことができるのです。ここでのイスラエルとは、主イエスを信じる者たちからなる新しいイスラエルのことであります。その新しいイスラエルを、使徒たちが部族長として治めることになるとイエス様は約束されるのです。しかし、この約束は文字通り12使徒だけに限られるものではありません。12人とは、主イエスを信じる新しいイスラエルであるキリストの教会を、象徴する者たちであります。ですから、この約束は、私たちすべての者への約束、契約であると言うことができるのです。例えば、ペトロの手紙一第2章9節にはこう記されています。あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」。また、ヨハネの黙示録第5章10節には、主イエスが、私たちを「神に仕える王、また祭司となさった」と記されています。このように、主イエスの教えに留まり続けるならば、私たちも神の国において、主イエスと共に王となることができるのです。主イエスと共に治める王となるとき、その支配のあり方はどのようなものでありましょうか。それは、人の上に立って、権力を振るうような仕方では決してありません。そうではなくて、自分を他者のためにささげる生き方、仕えるというかたちでの支配なのです。神の国は、互いに自らを低くし仕え合うところであります。そして、それはこの地上の教会においても、私たちが目指すべき偉大さであるのです。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」。私たちは、聖餐の恵みにあずかるごとに、この主イエスの教えを胸に刻みたいと願います。

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