主の晩餐 2006年2月19日(日曜 朝の礼拝)

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主の晩餐

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章14節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。ルカによる福音書 22章14節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 ニサンの月の14日の夜、それは、過越の食事を取る日でありました。遥か昔、その夜エジプトでは、どの家からも大いなる叫びが上がったのです。主の御使いがエジプトの町を巡り歩く時、エジプト人の長子は皆、死んでしまったからです。しかし、イスラエル人の長子は死ぬことはありませんでした。それは、彼らが、小羊を屠り、その血を門の柱、鴨居に塗っておいたからです。主の御使いは、小羊の血が塗ってある家をしるしとされ、過越されたのです。それは、神がモーセを通して、予め告げておられた約束によるものでありました。過越の夜に食べる小羊、それは自分たちに代わって屠られた、身代わりのいけにえの小羊であったのです。そして、この神様の御業のゆえに、イスラエルは、奴隷の家エジプトから解放されたのでありました。過越祭とは、このエジプトからの脱出、いわゆる出エジプトを祝う祭りであります。そして、それはイスラエルが神の民として歩みだした。その誕生を祝う祭りでもあったのです。その過越の食事が、今始まろうとしているのであります。 

 14節にこう記されています。「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。」。

 ここで、ルカは、イエス様が食事の席に着かれたこと、そして使徒たちも一緒であったことを記します。この背後にあるルカの思いというものは、この席の主人は、主イエスであるということです。主イエスが食卓の主人として、使徒たちをこの食卓へと招き、もてなしておられるということであります。使徒たちとは、イエス様が弟子たちの中から特別に選び、おそばにおいていた12人のことであります。その12人が一緒であった。つまり、イエス様を含めて13人で、これから過越の食事を取ろうとしているわけです。少し細かいことを言いますが、ここで「席に着かれた」と訳されている言葉は、「横になった、寝そべった」という言葉です。ユダヤでは、正式な食事の時、横になり、左肘をついて、上半身を起こしながら、右手で食事をしたのです。よく、絵画などで、イスに座って、テーブルを囲んでいる光景を目にします。例えば、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」を見ると、イスに座って、テーブルについている。しかし実際には、イエス様と使徒たちは、寝そべって過越の食事を取られたのです。

 ドイツの学者に、ヨアヒム・エレミアスという人がおります。このエレミアスが書いた本に『イエスの聖餐のことば』という書物があります。その書物の中で、エレミアスは、当時の過越の儀式を再構成しております。それを、今朝の週報に挟んでおきましたので御覧いただきたいと思います。読み上げてみます。

A.前菜

 第一の杯についてなされる家長の聖別のことば

 前菜。この内容は緑菜、苦菜、ジャムから作ったソースその他。

 食事が運ばれるが、まだ手はつけられない。第二の杯が混ぜられ、前におかれるが、まだ手はつけられない。

B.過越の儀式

 家長による過越の意味の説き明かし

 過越祭のハレル(詩編113~118)の最初の部分。詩編113篇もしくは、114篇まで。

 第二の杯が飲まれる。

C.食事の主要部

 家長が種入れぬパンについてする食卓の祈祷

 食事。この内容は過越の小羊、マッツァー、苦菜であり、それにジャムとぶどう酒とが添えられる。

 第三の杯についての食卓の祈祷

D.結末部

 第四の杯が注がれる。

 過越祭のハレルの第二部。詩編114篇、もしくは115~118篇まで。

 第四の杯についての賛美

 これを見ると、ただ、集まって食事をしただけではないことがよく分かります。そこでは、祈りが献げられ、賛美が歌われ、過越の意味が説き明かされたのです。それも、秩序をもって行われた。過越の食事は、まさに礼拝であったのです。ルカによる福音書の主の晩餐の記述を見ますと、杯が2回出てきます。17節に、「そして、イエスは杯を取り上げ」とあります。また、20節にも「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。」とあります。ルカ福音書には、杯について2度記されているから、おかしいという意見が昔からありました。しかし、先程の、エレミアスのものを見るならば、全然、おかしくないということが分かるのです。それによれば、杯は4度注がれたからであります。おそらく、17節の「杯」は、第一の杯を指すと考えられます。そして、20節の「食事を終えてからの杯」は、第四の杯を指すと考えられるのです。ついでに申しますと、19節のパン裂きの儀式は、食事の直前に行われたと考えられます。つまり、ここでルカは、過越の食卓のすべてのことを報告しているわけではない。むしろ、ユダヤ人の慣習から外れた主イエスの言葉をこの所に書き記しているのです。たとえば、このルカの記述には、小羊への言及がありません。過越の食事のメインディッシュは、何といっても小羊です。けれども、ルカはその小羊については記していない。しかしだからと言って、小羊がなかったかと言えばそんなはずはありません。過越の食事である以上、それは当然あった。そして、当然あったからこそ、ルカは小羊について記していないのです。むしろ、ここで、ルカは、当然ではないこと、特筆すべきことだけを記していると考えられるのです。

 その食事の席で、イエス様は何と仰せになられたか。15節。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」

 イエス様は、御自分に苦しみが迫っていること、御自分の死が迫っていることをご存じでありました。イエス様は、これまでに三度、弟子たちに御自分の死を予告なされた。その死が迫っていることをイエス様はご存じであられたのです。そのイエス様が切に望まれたのは「あなたたちと共にこの過越の食事をしたい」ということでありました。ここで「切に望む」と訳されている言葉は、直訳すると「願いに願った」となります。つまり、願うという言葉が重ねて記されているのです。それほどに強い願望を表す言葉がここに用いられているのです。先週お話ししたことでありますが、12人の一人であるイスカリオテのユダは、すでにこの時、イエス様を引き渡す良い機会をねらっておりました。サタンはすでに、ユダの心にイエス様を裏切る考えを抱かせていた。そのユダを警戒して、イエス様は、自ら密かに、エルサレムに住む弟子と打ち合わせて、事前にこの食卓の場を設けられていたのです。まさに、この食卓は主イエスが備えてくださった食卓。主の強い願望によって実現した食卓であったと言えるのです。なぜ、主イエスは、それほどまでに、使徒たちと過越の食事を取ることを願われたのか。それは、これからお受けになる苦しみの意味を、事前に弟子たちに、教えるためでありました。御自分の苦難、十字架の死が、過越の食事を実現するものであることを教えるために、イエス様は、何としても使徒たちと共に、この過越の食事をしたかったのです。

 しかし、私たちは、続けて奇妙な主イエスの言葉に遭遇いたします。16節。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」。18節にも同じような言葉が記されています。「言っておくが、神の国が来るまで、わたしはぶどうの実から作ったものを飲むことは決してない。」。

 「あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と仰せになられたイエス様が、続けて、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事を取ることはない。」と仰せになる。これを私たちはどのように理解すればよいのか。大変戸惑います。これから過越の食事が始まろうとしている。それなのに、イエス様は、この過越の食事をとることは決してない、と言われる。これをどのように理解すればよいのか。その答えは、主イエスは、この過越の食事はお食べにはならなかったということです。同じ食卓にはついている。しかし、主イエスは何も飲まず、何もお食べにならない。食べたのは、使徒たちだけであった。主イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱え、「これを取り、互いに回して飲みなさい。」と仰せになりました。しかし、主イエス御自身は、それをお飲みにはならない。つまり、主イエスはこの過越の食事の時、何も飲まなかったし、何も食べなかった。主イエスは、すでにこの時、断食をしておられたということが分かるのであります。かつてイエス様は、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、弟子たちは断食するようになる」と仰せになりました(5:34、35)。その弟子たちに先立って、イエス様御自身がすでに断食しておられたのです。断食をもって、これから自らを襲う悪魔の誘惑に備えておられたのです。

 イエス様が、この過越の食事において断食しておられた。それは、先程、ご紹介した、エレミアスの書物によって、私も教えられたことであります。私自身、そのエレミアスの言葉を読んだ時に、大変衝撃を受けました。私は、これまでイエス様も使徒たちと一緒に食事と取られたと思い込んでいたからです。けれども、エレミアスは、主イエスは、この過越の食事をお取りにはならなかったと言うのです。エレミアスはただ思いつきで、そう言っているのではありません。それこそ、厳密な釈義に基づいて、この結論を下しているのであります。それをすべて、ここで紹介することはできませんけども、一つだけご紹介したいと思います。先程取り上げた、15節の「願っていた」と訳されている元のギリシャ語はエピスメオーという言葉です。この言葉は、ルカ福音書において、これまで3回用いられています。そして、それは、どれも実現されない願いについて用いられているのです。これも、週報に挟んだものに記しておきましたので御覧ください。

1.ルカ15:16(「放蕩息子」のたとえ)

 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物 をくれる人はだれもいなかった。

2.ルカ16:21(金持ちとラザロ)

 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

3.ルカ17:22(神の国が来る)

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の 日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。

 このように、エピスメオーという言葉は、ルカ福音書において、どれも実現されない願望について用いられているのです。よって、このルカ22章15節も、実現されない願望として主イエスが語られたとエレミアスは言うのです。つまり、主イエスは、「使徒たちと共に過越の食事を取ることを切に願われたが、しかし、わたしは、それを諦めなければならない」と仰せになられたと言うのです。主イエスが、過越を祝うのは、神の国が到来した時である。その時まで、主イエスは過越の食事、ぶどう酒を断たれた。いわば、物断ちの宣言をなされたと言うのです。神様に願をかけ、ある飲み物、ある食べ物を一定の期間取らない。これは、日本においても見られることであります。「物断ち」という言葉も日本語にございます。ある願いが叶うまで、自分の好物を食べないことにする。または、ある願いが叶うまで、自分のしたいと思うことをしないようにする。戦時中に、「ほしがりません。勝つまでは」というスローガンがありましたけども、これも一種の物断ちであると言えます。イエス様は、過越の食事、またぶどう酒を断つことを宣言することによって、父なる神が、神の国を実現してくださることを願った。神の国で過越が実現されるまで、つまり神の国が到来するまで、御自分は祝いの食事、祝いのぶどう酒を遠ざけられた。この次ぎに自分が、祝いの食事をし、祝いのぶどう酒を飲む時は、それは神の国の宴会に他ならない、とイエス様は仰せになられたのです。この物断ちの宣言は、旧約聖書においても見られるものであります。サムエル記上の14章24節を見ますと、こう記されています。この日、イスラエルは飢えに苦しんでいた。サウルが、「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と言って、兵士に誓わせていたので、だれも食べ物を口にすることができなかった。

 また、ダビデは、ウリヤの妻バト・シェバとの間に生まれてきた子が弱っていた時、その子のために神に願い求め、断食をしました。しかし、7日目にその子が死んだのを知ると、ダビデは地面から起きあがり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝しました。そして、王宮にもどると、食事をしたのです。このダビデの様子に驚いた家臣はこう尋ねます。「どうして、このようにふるまわれるのですか。お子様が生きておれるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起きあがって食事をなさいます。」。それに対してダビデはこう答えました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰ってくることはない。」。

 このサウルとダビデの言葉から分かることは、物断ちは、神の恵みを要請するためのものである、ということです。物を断つということによって、神にささげる願いが、真剣なものであることを証する。それを神が御覧になって、その願いを実現してくださるに違いない、という考え方があるのです。それでは、イエス様が、祝いの食事、祝いのぶどう酒を退けても、実現したい願っていた願いとは何であったのか。それは、神の国の到来でありました。イエス様は、主の祈りにおいて、弟子たちに対し、「御国を来たらせ給え」と祈るようお命じになられました。しかし、その願いに誰よりも真剣に生きたのは主イエス御自身であられた。私たちは、ここでイエス様がファリサイ派の人々から、「大食漢で大酒飲みだ」と揶揄されたことを思い起こさなくてはなりません(7:34)。イエス様は、お祝いの席が大好きなお方であられた。お祭りごとが大好きなお方であられたのです。けれども、その主イエスが、神の国でもたられる祝宴までは、祝いの食事、祝いのぶどう酒を断つと言われるのです。

 主イエスは、過越の食卓に着きながら、その食事を取らなかった。そのように、理解するとき、はじめて、15節と16節の繋がり、また17節と18節の繋がりを理解することができるのです。それ以外不可能だと思います。もし、主イエスがこの食事に食べて、私は決してこの食事を食べないと言われるなら、自己矛盾であります。しかし、主イエスがこの食事を願いつつも、それを取らなかったならば、16節、18節の言葉はよく分かるのであります。イエス様は、食事について感謝の祈りをささげ、それを分配されるが、御自分はお食べにならない。なぜなら、使徒たちが食べるパンこそが、御自分の肉であり、使徒たちが飲むぶどう酒こそが、御自分の血である、とイエス様は仰せになるからです。自分の肉を食べ、自分の血を飲むことは考えにくいことでありますから、このところからも、イエス様はこの食事を取らなかったと考えられるのです。むしろ、イエス様は、食べる者ではなくて、食べられる物、食べ物として、御自分を現されたのであります。イエス様は、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」。また、ぶどう酒の杯も同じように言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」。ここで、イエス様はただパンを指して、これがわたしの体だ、と仰せになったのではない。パンを裂いてから、「これはあなたがたに与えられるわたしの体である」と仰せになられたのです。この「裂く」という言葉が大切であります。また、ぶどう酒を指しては、「あなたがたのために流される」と仰せになりました。この「裂く」とか「流される」という言葉。これは、祭儀に用いられる言葉であります。祭司がいけにえをささげるときに、用いる言葉です。それをイエス様は、パンとぶどう酒に対して用いられた。そして、このパンとぶどう酒によって、御自分の死の意味を表されたのです。しかし、ここで、私たちが知っておかなければならないことは、このパンとぶどう酒が、主イエスを指し示す以前に、過越の小羊を指し示しているということであります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一第5章7節で、こう記しています。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」。まだ使徒ヨハネも第一の手紙2章2節で、こう書き記しています。「この方(イエス・キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」。このように、キリストが過越の小羊、罪を償ういけにえとして御自身をささげられたことは、使徒たちの共通の認識でありました。そして、それは何よりイエス様が、御自分を過越の小羊として理解し、使徒たちに教えられたからに他ならないのです。その昔、イスラエルの民が、小羊の血のゆえに、滅びから救われたように、主イエスの肉を食べ、その血を飲むものは、死と罪の支配から救われ、永遠の命を持つとイエス様は教えられるのです。けれども、それならば、なぜ、イエス様は、小羊を用いられなかったのか。小羊を食べようとする時に、これはわたしを指し示すものだと、なぜ言わなかったのか。小羊が目の前にあるのですから、パンとぶどう酒など用いないで、小羊を用いて言えばよかったのに。この小羊が、実はわたしなのだと言えばよかったのではないか。しかし、イエス様は、そうはなさいませんでした。それは、もう小羊を屠る必要がないからであります。イエス様が、十字架の上で御自身を屠られた以上、小羊を屠る必要がないからです。ですから、イエス様は、直接、小羊を用いないで、パンとぶどう酒によって、御自分が、世の罪を取り除く神の小羊であることを教えられたのであります。ヘブライ人への手紙を見ますと、イエス様は永遠の贖いを成し遂げるいけにえでありつつ、また同時にそれをささげる永遠の大祭司であると教えられています。いけにえであり、祭司である。それは考えてみますとおかしなことであります。けれども、この主の食卓で、イエス様が食事を供されたが、御自身は、それをお食べにならなかったことを思うとき、そのことがよく分かってくるのです。

 主イエスは、パンを裂き、「あなたがたのために与えられるわたしの体である」と仰せになりました。また、ぶどう酒の杯を「あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と仰せになりました。どちらも、「あなたがたのために」という言われています。イエス様がこれらかお受けになるお苦しみ、十字架の死、それはわたしたちのためであるとイエス様は仰せになるのです。わたしは、あなたを罪から贖うために、これから十字架で死ぬ。そのことを決して忘れるなとイエス様は仰せになっているのです。いわば、イエス様はここで、御自身のいのちそのものを私たちに与えてくださろうとしている。主イエスは、かつて「わたしを何よりも愛さない者は、わたしの弟子ではあり得ない」と仰せになりました。なぜ、そのような大胆なことを言うことができるのか。それは、主イエス様御自身が、私たちを何よりも愛してくださった。私たちのために、御自分の命をささげてくださったからであります。

 20節に、「新しい契約」という言葉があります。これは、エレミヤ書31章に出てくる大切な言葉です。旧約聖書1237頁。エレミヤ書の31章31節から34節をお読みいたします。

 見よ、イスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」といって教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。

 石の板ではない、心の板に神の律法が書き記され、主を知ることができるようになる。そして、そこには罪の赦しがあるというのです。このような新しい契約を主イエスがその血潮をもって神と締結してくださる。この新しい契約を、十字架の贖いと聖霊の派遣によって、私たちの上に実現してくださるというのです。かつて、シナイ山において、モーセを仲介者として古い契約が結ばれた時、雄牛の血を半分は祭壇に、半分はイスラエルの民に振りかけました。それと同じように、主イエスは、御自身の血によって、新しい契約を結んでくださったのです。そして、その恵みに御自分を信じる者たちが、あずかることができるよう、過越の食事を、主の晩餐として制定してくださったのであります。私たちが、聖餐式においてあずかるパンとぶどう酒は、私たちがこの新しい契約に入れられていることの確かなしるしであると言えるのです。

 ルカによる福音書に戻ります。新約聖書の154頁です。

 19節に「わたしの記念としてこのように行いなさい」とありますが、ここで「記念」と訳されている言葉は、「思い起こす」という意味であります。思い起こす。主イエスが、私たちの罪の身代わりとして、肉を裂かれ、血を流されたことを、パンとぶどう酒を味わうほど確かな事として思い起こしなさいとイエス様は仰せになるのです。そのように理解するときに、ここでの主語は、聖餐の恵みにあずかる私たち自身であると言えます。けれども、先程も言及しましたエレミアスは、このところの主語を神であると考えるのです。つまり、神が思い起こしてくださるように。主の弟子たちが聖餐の恵みにあずかる時、神がわたしを、主イエスの贖いの御業を思い起こしてくださいますように、と願っておられると理解するのです。これは、覚えておいてよい解釈であると思います。私たちが、主イエスの名によって、パンとぶどう酒を受ける時、その時、私たちだけが、新しい契約の中に生かされていることを思い起こすのではありません。契約とは、相手があってのことであります。つまり、主なる神も、教会で持たれる聖餐を通して、私たちが主イエスのの民であることを思い起こしてくださるのです。

 天におられ、父なる神の右に座したもう主イエスは、私たちがあずかる聖餐の交わりの中に、聖霊において共にいてくださいます。しかし、その時、やはり主イエスは、祝いの食事、祝いのぶどう酒をお取りにはならないのです。むしろ、聖霊においてパンとぶどう酒を、御自身の体、御自身の血として、司式者を通して、私たちに与えてくださるのです。私たちは、司式をする牧師がパンを食べ、ぶどう酒を飲むので、イエス様もこのところで、私たちと共に飲み食いしてくださると考えやすいのです。けれども、そうではありません。主イエス様は、神の国が到来するまで、お祝いの食事、お祝いのぶどう酒を遠ざけておられる。このことを知るとき、私たちは、神の国で主イエスと共に飲み食いする、その祝宴を持ち望むことができる。やがて来られる主イエスを待ち望みつつ、聖餐の恵みにあずかり続けることができるのです。

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