主はわたしの避けどころ 2020年6月28日(日曜 朝の礼拝)

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主はわたしの避けどころ

日付
説教
村田寿和 牧師

聖書の言葉

11:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。
11:2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。
11:3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
11:4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。
11:5 主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み
11:6 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。
11:7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。詩編 11編1節~7節

メッセージ

 今朝は、『詩編』第11編より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。1節に「指揮者によって。ダビデの詩」とありますように、第11編は、ダビデ王によって記された詩編であります。そのことを念頭において、読み進めていきたいと思います。

 1節から3節までをお読みします。

 主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。

 1節で、ダビデは、自分の信仰を表明しています。「主を、わたしは避けどころとしている」。このとき、ダビデは、悪しき者から命を狙われる危機的な状況にあったようです。そのような危機的な状況の中で、ダビデは、「主を、わたしは避けどころとしている」と断言するのです。今朝は、先ず、このダビデの信仰を、私たちの信仰とさせていただきたいと思います。「主を、わたしは避けどころとしている」。そのように、私たちも断言したいと思います。

 ダビデが避けどころとしている「主」とは、天地万物を造られた神さまであり、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出し、カナンの地に住まわせてくださった神さまであります。「主」と訳されている言葉は、神さまがその昔、モーセに示された「ヤハウェ」という御名前です。「ヤハウェ」「主」という御名前は、「わたしはあなたといつも共にいる」という約束を含み持つ御名前であります(出エジプト3:12参照)。ダビデは、その主によって、イスラエルの王としての油注ぎを受けた者であるのです。しかし、そのダビデの命を悪しき者たちが狙っていたのです。

 2節に、「見よ、主に逆らう者が弓を張り」とあります。「主に逆らう者」と訳されている言葉は、直訳すると「悪人たち」となります。「悪人たち」という言葉を『新共同訳聖書』は「主に逆らう者」と意訳したのです。また、3節に、「主に従う人に何ができようか」とあります。「主に従う人」と訳されている言葉は、直訳すると「正しい人(義人)」となります。「正しい人」という言葉を『新共同訳聖書』は「主に従う人」と意訳しているのです。

 1節後半から3節までの御言葉は、ダビデに対する友人たちのアドバイス(助言)であります。「鳥のように山へ逃れよ。見よ、悪しき者たちが弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに/正しい人に何ができようか」と友人たちはダビデに助言したのです。この助言の背景には、ダビデがサウル王から命を狙われていたことがあるのかも知れません。悪い人たちが、正しい人たちの命を奪う。そのような秩序が覆っている世にあって、正しい人は無力である。このようなことを、私たちも考えることがあるのではないでしょうか?しかし、ダビデは、「主を、わたしは避けどころとしている」と言うのです。どうして、ダビデは、秩序が覆っている世にあって、なお、主に従う正しい人として歩むことができるのでしょうか?

 4節から6節までをお読みします。

 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み/逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。

 ダビデが避けどころとしている主は、聖なる宮におられる御方であり、天に御座を置かれる御方であります。4節の「聖なる宮」は、後の時代には「神殿」を指すと解釈されたかも知れません。そうであるとしても、主の聖なる宮の本体である御座は、天にあるのです(列王上8:27参照)。しかし、主は地に住む人間に無関心な御方ではありません。主の御目は人の子らを見渡し、注意深く人の子らを調べられるのです。主は正しい者と悪しき者とを調べられる。そして、主は不法(暴虐)を愛する者を憎み、悪しき者に災いの火を振らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれるのです。その「杯」とは、彼らの「運命」の比喩であります。ダビデは、主が不法(暴虐)を愛する悪しき者に火と硫黄を注いで、最後には彼らを裁いてくださることを信じているゆえに、世の秩序が覆っているように見えたとしても、主を避けどころとするのです。言い換えるならば、主が天におられ、人の子を調べられ、悪しき者には罰を与えると信じるダビデにとって、世の秩序は決して覆ってはいないのです。

 主が不法(暴虐)を愛する者に災いの火と燃える硫黄を注がれる。そのことの実例が、『創世記』の第19章に記されています。主は、天から硫黄の火を降らせて、悪人たちの巣窟であるソドムの町を滅ぼされました。ソドムの住人たちを調べ、暴虐を愛するソドムの町の人々を、天からの火で滅ぼされた主は、今も、悪しき者たちを天からの火で滅ぼされる、正しい審判者であられるのです。

 しかし、現実にはそうなっていないので、私たちには、世の秩序が覆っており、主に従う正しい人は無力であると思われるわけです。このことは、ヨブが訴えていることでもあります。ヨブの友人たちは、「ヨブが苦しみを受けているのは罪を犯したからだ。だから、ヨブよ、悔い改めて神と和解せよ」と語ります。しかし、ヨブは自分が潔白であることをあくまでも主張します。そして、ヨブは、友人たちへの反論として、世の秩序が覆っているさまを述べるのです。『ヨブ記』の第24章全体をお読みします。旧約の807ページです。

 なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。人は地境を移し/家畜の群れを奪って自分のものとし/みなしごのろばを連れ去り/やもめの牛を質草に捕る。乏しい人々は道から押しのけられ/この地の貧しい人々は身を隠す。彼らは野ろばのように/荒れ野で子に食べさせるパンを捜す。自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ/悪人のぶどう畑で残った房を集める。着る者もなく裸で過ごし/寒さを防ぐための覆いもない。山で激しい雨にぬれても/身を避ける所もなく、岩にすがる。父のない子は母の胸から引き離され/貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き/麦束を運びながらも自分は飢え/並び立つオリーブの間で油を搾り/搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。町では、死にゆく人々が呻き/刺し貫かれた人々があえいでいるが/神はその惨状を心に留めてくださらない。光に背く人々がいる。彼らは光の道を求めず/光の射すところにとどまろうとしない。人殺しは夜明け前に起き/貧しい者、乏しい者を殺し/夜になれば盗みを働く。姦淫する者の目は、夕暮れを待ち/だれにも見られないように、と言って顔を覆う。暗黒に紛れて家々に忍び入り/日中は閉じこもって、光を避ける。このような者には朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。「大水に遭えば彼はたちまち消え去る。この地で彼の嗣業は呪われ/そのぶどう畑に向かう者もいなくなる。暑さと乾燥が雪解け水をも消し去るように/陰府は罪人を消し去るだろう。母の胎も彼を忘れ/蛆が彼を忘れ/蛆が彼を好んで食い/彼を思い出す者もなくなる/不正な行いは木のように折れ砕かれる。彼は不妊の女を不幸に落とし/やもめに幸福を与えることはしなかった。権力者が力を振るい、成功したとしても/その人生は確かではない。安穏に生かされているようでも/その歩む道に目を注いでおられる方がある。だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ。」だが、そうなってはいないのだから、誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか。

 ここで、ヨブは正しい者である自分が苦しみの中に放置されていることを、この世の現状から論証しています。ヨブは、神が世の貧しい人たちの惨状を心に留めてくださらないように、自分の惨状にも目を留めてくださらないと語ります。また、ヨブの苦しみが彼の罪のゆえでないことを、神さまが世の悪人を裁かれずに放置していることから論証するのです。この25節の言葉、「だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか」。このヨブの言葉は強烈であります。このヨブの言葉を前にしても、私たちは、ダビデと同じように、「主を、わたしは避けどころとしている」と言えるでしょうか?結論から申しますと、「言えます」。それは、神さまの究極的な裁きは、死んだ後になされるからです。そのような希望を、ヨブ自身も語っています。第19章21節から27節までをお読みします。旧約の799ページです。

 憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ/神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまでも神と一緒になって/わたしを追いつめるのか。肉を打つだけでは足りないのか。どうか/わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように。わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

 このヨブの言葉は、贖い主イエス・キリストの復活を預言する言葉として読むことができます。贖い主イエス・キリストの復活を信じるヨブも復活して、その目で神を見ることができるのです。このように、ヨブはこの地上での裁きを越えた、死後の裁き、この皮膚が損なわれようとも、この身をもって神を仰ぎ見る(神に正しいとされる)という希望を、語っていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の843ページです。

 7節をお読みします。

 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。

 主が不法(暴虐)を愛する者を憎み、災いを降し、罰を与えられるのは、なぜでしょうか。それは、主が正しい御方であり、「正義」を愛される御方であるからです。『新共同訳聖書』は「恵みの業」と翻訳していますが、元の言葉(ツェダカー)は「正義」「正しさ」という意味です。主は正しい御方であるゆえに、正しさを愛されます。それゆえ、「御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」のです。心のまっすぐな人とは、天におられる主の裁きに信頼して、主を避けどころとしている人のことです。ダビデはそのような心のまっすぐな人でありました。そして、ダビデの子孫であり、私たちの主であるイエス・キリストも心のまっすぐな人であったのです。イエスさまは、ダビデにまさって正しい人であり、心のまっすぐな人であられるのです。

 『ルカによる福音書』の第13章で、ファリサイ派の人々が近寄って来て、イエスさまにこう言いました。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。それに対してイエスさまは、こう言われます。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。この記事を読むとき、イエスさまが、ダビデと同じような状況に置かれていたことが分かります。イエスさまの命を狙う者がおり、イエスさまに「ここを立ち去るように」とアドバイスをする者たちがいたのです。しかし、イエスさまは、メシアとしての御自分の働きを続けられます。イエスさまは死を覚悟のうえで、エルサレムへと進まれるのです。それは、イエスさまが、主を、拠り所としておられるからです。主は御顔を心のまっすぐな人に向けてくださるという、主の正しい裁きを信じていたからです。イエスさまは、神さまが十字架の死から御自分を復活させてくださると信じていました。それはイエスさまが、神さまの正しい裁きを信じていたからです。復活を信じることと、神さまの正しい裁きを信じることは、一つのことです(旧約外典『マカバイ記二』7章の「七人兄弟の殉教」を参照)。イエスさまは、神さまの御前に、完全に正しい人であり、心のまっすぐな人でありました。そのイエスさまを神さまが復活させられたことは、神さまが心のまっすぐな人に御顔を向けてくださることの保証であるのです。さらには、イエス・キリストを信じる者たちを心のまっすぐな人と認めて、御顔を向けてくださる保証でもあるのです。

 主イエス・キリストは、私たちに代わって十字架の死という燃える硫黄をその杯に受けてくださいました(マタイ27:46参照)。そのイエス・キリストを信じることこそ、神さまの御前に心のまっすぐなことであるのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、主が御顔を向けてくださると確信することができるのです。

お祈りをささげます。

天の父なる神さま。

あなたが、主イエス・キリストを信じる私たちを、心のまっすぐな者と認めて、御顔を向けてくださる恵みを感謝いたします。秩序が覆っているように見える世にあって、私たちがあなたを避けどころとして歩んで行くことができますように。私たち一人一人の生活を主が支えてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン。