イエスの弟子であり続けるために 2026年7月19日(日曜 朝の礼拝)
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イエスの弟子であり続けるために
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 14章25節~35節
聖書の言葉
14:25 大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。
14:26 「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。
14:27 自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。
14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。
14:29 そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、
14:30 『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。
14:32 もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。
14:33 だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」
14:34 「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
14:35 土にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」ルカによる福音書 14章25節~35節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第14章25節から35節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
イエス様は、エルサレムを目指して旅をしています。イエス様は、エルサレムにおいて、御自分が必ず「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」ことを御存じでした(9:22参照)。旧約聖書に記されている神の救いの計画が、御自分の十字架の死と復活によって実現することを御存じであったのです。その十字架の死を遂げるために、イエス様は、エルサレムを目指して旅をしているのです。そのイエス様に大勢の群衆が付いて来ました。彼らは群衆ですから、イエス様に興味本位で付いて来た人たちです。そのような群衆を、イエス様は御自分の弟子として招かれるのです。
25節と26節をお読みします。
大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」
今朝、この礼拝の場に集っている私たちの多くは、群衆ではなく、イエス様の弟子であります。では、今朝の御言葉は、私たちに関係がないかと言えば、そうではありません。「その人は私の弟子ではありえない」という御言葉は、弟子である私たちにとって、「その人は私の弟子であり続けることはできない」という意味であるからです。今朝の御言葉は、弟子である私たちに対して語られている御言葉でもあるのです。イエス様は、「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない」と言われます(ここに「夫」を加えた方がよい)。ここでの「憎む」は、ユダヤ人のものの言い方で「より少なく愛する」ことを意味します(マタイ10:37「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も私にふさわしくない」参照)。つまり、イエス様の弟子になるためには、また、イエス様の弟子であり続けるためには、イエス様を誰よりも愛さなくてはならないということです。イエス様の弟子には、自分の父や母よりも、自分の夫や妻や子供よりも、自分の兄弟や姉妹よりも、さらには自分の命よりも、イエス様を愛することが求められるのです。「引照・注付き」の聖書を見ると、引証聖句として、『申命記』の第33章9節があげられています。旧約の321ページです。ここでは、第33章8節から11節をお読みします。
レビについて彼は言った。「あなたのトンミムとウリムを/あなたに忠実な者に与えてください。あなたはマサで彼を試み/メリバのほとりで彼と争われた。彼は父と母について『私は彼らを顧みない』と言い/兄弟も認めず、自分の子さえ無視し/あなたの仰せに従い、契約を守りました。彼らは、あなたの法をヤコブに/あなたの律法をイスラエルに教え/御前に香をたき/あなたの祭壇に焼き尽くす献げ物を献げる。主よ、彼の力を祝福し/その手の業を受け入れてください。彼に逆らう者の腰を打ち砕き/憎む者を立ち上がれないようにしてください。」
ここでモーセは、「レビ族が、父や母よりも、兄弟や自分の子供よりも、神様に従い、契約を守った」と言っています。それゆえ、レビ族は、律法を教え、いけにえを献げる祭司となったのです(出エジプト32:25~29参照)。このモーセの言葉を背景にして、イエス様は、弟子たちに、父、母、夫、妻、子供、兄弟、姉妹よりも、御自分を愛することを求められたのです。弟子である私たちは、イエス様を愛するか、それとも、家族を愛するかという二者択一の問いの前に立ったとき、イエス様を愛することを選ばねばならないのです。「愛する」とは「聞き従う」ことです。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第14章23節でこう言われました。「私を愛する人は、私の言葉を守る」。イエス様を愛するとは、イエス様の言葉を守ること。イエス様の言葉に聞き従うことであるのです。ですから、イエス・キリストの弟子である私たちは、家族の言葉ではなく、イエス・キリストの言葉に聞き従うことが求められているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の136ページです。
「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、夫、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない」。このイエス様の御言葉を、先程のモーセの言葉を背景にして読むとき、イエス様は御自分を神と等しい者としていることが分かります。そして、事実、イエス様は、神と等しい御方、神の独り子であるのです。そうであれば、この御言葉は、旧約聖書に記されている最も重要な掟に適っていることが分かります。イエス様は、律法の専門家から「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、こう答えました。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタイ22:37~40。申命6:5、レビ19:18参照)。ここで注意したいことは、神様を愛することと隣人を愛することの度合いが異なるということです。私たちは、神様を、全身全霊で、自分よりも愛することが命じられています。けれども、隣人は、自分のように愛することが命じられているのです。このようなキリストの律法に照らして見ても、イエス・キリストの弟子である私たちは、自分の父、母、夫、妻、子供、兄弟、姉妹、さらには自分自身よりも、イエス・キリストを愛さなくてはならないのです。
27節をお読みします。
「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」
イエス様は、エルサレムを目指して旅をしています。イエス様は、エルサレムにおいて、文字通り、十字架を負うことになるわけです。イエス様にとっての自分の十字架とは、「多くの人の罪を担って、償いの死を遂げる」ことでした(イザヤ53章参照)。そのイエス様に従う私たちにも、自分の十字架を負うことが求められるのです。では、私たちが負う、「自分の十字架」とは何でしょうか。それは、それぞれの人生の苦しみと言えますが、とりわけ、イエス・キリストの弟子として受ける苦しみのことです。イエス・キリストの弟子であることで、人々から悪口を言われたり、不利益を被ること。それが、イエス・キリストの弟子として、私たちが負うべき十字架であるのです。イエス・キリストを信じたからといって、苦しみが無くなるわけではありません。イエス・キリストを信じた後も、苦しみはある。しかし、その苦しみを、私たちは自分の十字架として負うことができるのです。自分の苦しみを、自分の十字架として負って、イエス・キリストに従う。そこに、弟子である私たちの姿があるのです。そのようにして、私たちは、私たちの罪のために十字架を負って苦しまれたイエス・キリストに思いを馳せることができるのです。
28節から33節までをお読みします。
「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。だから、同じように自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」
ここでイエス様は二つのたとえを語っています。それは、「塔を建てようとする人のたとえ」と「戦いを交えようとする王のたとえ」です。この二つのたとえが共通して教えていることは、「事を始める前に、腰を据えてよく考えることが大切である」ということです。事を始める前に、腰を据えてよく考えることが、イエス様の弟子となることにおいても大切であるのです。33節に、「だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない」とあります。ここでの「ことごとく捨て去る」とは「捕らわれていない。手放すことができる」という意味です。この背景にあるのも、イエス様を愛するか、それとも財産を愛するかという二者択一の問いです。イエス・キリストの弟子である私たちは、財産に捕らわれてはならない。自分の財産がイエス様に従うことを妨げるのであれば、財産を手放さなくてはならないのです(積極的に言えば、財産を主イエスのために用いるということ)。では、私たちは自分の財産に捕らわれず、手放すことができるために、腰を据えて、何を考えなければならないのでしょうか。それは、イエス・キリストの弟子たちに与えられる天の御国の祝福についてです。腰を据えて、天の御国の祝福を考えること。これは、使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第8章でしていることです。新約の279ページです。第8章18節から25節までお読みします。
思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現わされるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私は、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
イエス・キリストの弟子である私たちは、イエス・キリストと共に栄光の御国を受け継ぐことになります。私たちは、この地上で苦しみ、呻いていますが、イエス・キリストが現れる終わりの日に、あらゆる苦しみから解放されて、神の子の栄光の自由にあずかる者となるのです。このことを、腰を据えて考えるとき、私たちは自分の財産を手放して、キリストの弟子として歩み続けることができるのです(主の日の礼拝こそ、栄光の御国について、腰を据えて考える最も良い機会である)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の136ページです。
34節と35節をお読みします。
「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。土にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
ここでイエス様はたとえを語っています。「聞く耳のある者は聞きなさい」というイエス様の御言葉は、「塩」が文字通りの塩ではなく、たとえであることを表しています(「聞く耳のある者は聞きなさい」は、なぞなぞの「これなんだ?」にあたる)。ここでの「塩」とは、「イエス・キリストの弟子」のことです。塩に塩気がなくなってしまうように、イエス・キリストの弟子からも弟子らしさが無くなってしまうことがあるのです。イエス・キリストの弟子である私たちから、弟子らしさが無くなってしまうならば、何の役にも立たない者となって、神の国の外に投げ捨てられてしまうのです。
今朝の御言葉をまとめますと、イエス・キリストの弟子とは、誰よりも、自分自身よりも、イエス・キリストを愛する者のことです。イエス・キリストを愛するとは、イエス・キリストの御言葉に聞き従うことです。また、イエス・キリストの弟子とは、自分の十字架を負って、イエス・キリストに従う者のことです。さらに、イエス・キリストの弟子とは、腰を据えて、栄光の御国について考え、財産を手放すことができる者のことです。そのような弟子らしさを失わないようにと、イエス様は、最後に「塩気の無くなった塩のたとえ」で、警告しているのです。
私たちは、誰よりも、自分自身よりも、イエス・キリストを愛する弟子であり続けたいと願います。また、私たちは、自分の十字架を負って、イエス・キリストに従う弟子であり続けたいと願います。さらに、私たちは、イエス・キリストと共に受け継ぐ栄光の御国について腰を据えて考え、財産を手放すことができる弟子であり続けたいと願います。そして、私たちの主であり、師であるイエス様が、そのような御方であったことを心に留めたいと願います。私たちの主であり、師であるイエス・キリストは、誰よりも、自分自身よりも、神様を愛し、自分の十字架を負って歩まれ、栄光の御国について腰を据えて考え、財産を手放された御方であります。私たちは、そのようなイエス・キリストに倣うことが求められているのです(マタイ10:25「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」参照)。また、私たちは、そのようなイエス・キリストの聖霊を与えられているのです(イエス・キリストを愛する愛、人生の苦しみを自分の十字架として負う信仰、栄光の御国を待ち望む心を、私たちはイエス・キリストの聖霊によって与えられている)。