神の国の祝宴への招き 2026年7月12日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
神の国の祝宴への招き
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 14章15節~24節
聖書の言葉
14:15 同席していた客の一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
14:16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたので、お出でください』と言わせた。
14:18 ところが、皆、一様に断り始めた。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
14:19 ほかの人は、『牛を五対買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
14:20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
14:22 やがて、僕が、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
14:23 主人は言った。『街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
14:24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」ルカによる福音書 14章15節~24節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は、『ルカによる福音書』の第14章15節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝の御言葉は、イエス様が安息日に、ファリサイ派の議員の家の食卓でお語りになった教えです。第14章1節から24節までは、一つの纏まりであり、イエス様の食卓での教えが記されています。前回の振り返りになりますが、イエス様は、食事に招いてくれた人にこう言われました。12節から14節までをお読みします。
また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう」。
このイエス様の御言葉を聞いて、特に最後の「正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう」という御言葉を聞いて、同席していた客の一人は、イエス様に、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのです。この人も死者の復活を信じるファリサイ派の人であったのでしょう。この人は、イエス様から「正しい人の復活」について聞いて、神の国の祝宴に思いを馳せたようです。旧約の『イザヤ書』の第25章に、「主の山における祝宴」の幻が記されています。旧約の1082ページです。第25章6節から10節までをお読みします。
万軍の主はこの山で/すべての民のために祝宴を催される。それは脂の乗った肉の祝宴/熟成したぶどう酒の祝宴。髄の多い脂身と/よく濾されて熟成したぶどう酒。主はこの山で/すべての民の顔を覆うベールと/すべての国民にかぶせられている覆いを破り/死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い/その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いに喜び躍ろう。主の手はこの山にとどまる。
この『イザヤ書』の預言から、世の終わりに、正しい人たちは復活して、神の国の祝宴にあずかると信じられていたのです(ダニエル12章も参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の135ページです。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。このある人の言葉をきっかけに、イエス様は「大宴会のたとえ」をお語りになります。16節から24節までお読みします。
そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたので、お出でください』と言わせた。ところが、皆、一様に断り始めた。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を五対買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない』」。
これはたとえ話ですから、その意味を解き明かしたいと思います。「盛大な宴会を催したある人」とは、「神様」のことです。また、「盛大な宴会」とは「神の国の祝宴」のことです。主人から遣わされる「僕」とは、イエス様のことです。ここでの僕は、定冠詞が付いた単数形で記されています(トン ドゥーロン アウトゥー、the slave of him)。主人はたくさんの僕たちを遣わすのではなく、特定の一人の僕、主の僕であるイエス様を遣わすのです。「招いておいた人々」とは、神の民であるイスラエルの人々、取り分け、「律法学者たちやファリサイ派の人々」のことです。当時は、正式な食事は、二度招待することが習慣でした。宴会に先立ってあらかじめ招待し、宴会当日にもう一度招待したのです。ここには記されていませんが、一回目の招待は、旧約の預言者たちによる招待です。『イザヤ書』の第25章に記されているように、神様は、旧約の預言者によって神の国の祝宴にイスラエルの人々を招かれたのです。家の主人は、宴会の時刻になったので、僕を送って、「もう準備ができましたので、お出でください」と言わせました。ところが、皆、一様に断り始めたのです。最初の招待を受けたときに、「出席します」と言っていた人々が、皆、断り始めたのです。ここには、三人の人の断った理由が記されています。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言いました。また、二番目の人は、「牛を五対買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。また、三番目の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。畑も牛も高価な買い物です。また、妻を迎えることも大きな出来事です。しかし、これら理由は、主人の宴会の招きを断る正当な理由とは言えません。畑を見に行くのは、宴会から帰ってからでもできます。また、牛を調べに行くことも宴会から帰ってからでもできます。妻を迎えたばかりであることは、戦争に行くのではなく、宴会に行くのですから、断る理由になりません(申命24:5「ある人が新妻をめとったときは、兵役に就かなくてよい。彼には何の義務も課されない。一年間は自分の家のために自由である。めとった妻を喜ばさなければならない」参照)。この人たちは、この世の富や地上の家族の関係を優先して、主人からの招きを断るのです。僕は帰って、このことを主人に報告しました。「主人」と訳されている言葉は「主」とも訳せる「キュリオス」です。もちろん、この主人は「主なる神」を意味します。すると、家の主人は怒って、僕にこう言います。「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」。主人は、がっかりして、宴会を中止するようなことはしませんでした。宴会の準備はすっかりできているからです。テーブルには、脂が乗った肉と熟成したぶどう酒が並べられているのです。ですから、主人は、「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と僕に言うのです。ここに記されている人々は、13節で、イエス様が宴会に招くようにと言われた人々です。彼らはお返しができない人々であり、本来ならば宴会に招かれない人々です。それに対して、主人の招きを断った人々は、畑や牛を買うことができる裕福な人々でした。しかし、その彼らが宴会への招きを断ったことによって、本来、宴会に招かれない人々、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人が宴会の席に着くことになったのです。やがて、僕はこう言います。「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」。すると、主人はこう言います。「街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。ここで「農地」と訳されている言葉(プラグモス)は「垣根」とも訳せます(新改訳2017「街道や垣根のところに出て行き」参照)。街道や垣根のところにいる人々とは、ユダヤ人ではない外国人、異邦人を指しています。異邦人は、神の契約と関係がないと考えられていました。ですから、異邦人は当然、家の主人の招きを断ることが予想されます。しかし、主人は、「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言うのです。ここで言われていることは、「力づくで」ということではありません。「頼み込んででも」ということです。使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙二』の第5章で、次のように記しています。「キリストに代わってお願いします。神の和解を受けなさい」(二コリント5:20)。そのように頼み込んででも、人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ、と言うのです。ここで私たちが注意したいことは、主人の宴会に対する熱心さです(ヨハネ4:23「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」参照)。主人は、家いっぱいの大勢の人たちと一緒に、盛大な宴会を楽しみたいのです。
24節に、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない」と記されています。聖書協会共同訳は訳出していませんが、元の言葉では「あなたがたに言っておくが」と記されています(レゴ ガル ヒュミン)。僕は単数形で記されていたのに、「あなたがたに言っておくが」と二人称複数形で記されているのです。それで、24節は、たとえ話の主人の言葉ではなく、たとえ話を受けての、イエス様の言葉であると理解できるのです。23節までが、イエス様のたとえ話で、24節はたとえ話を受けての、イエス様の言葉であるのです。なぜ、イエス様は、「あなたがたに言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない」と言われるのでしょうか。それは、主なる神から遣わされた、主の僕であるイエス様の招きを、ファリサイ派の人々が断るからです。『マルコによる福音書』によれば、イエス様は、ガリラヤにおいて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と神の福音を宣べ伝えました(マルコ1:15)。それは、このたとえで言えば、「もう準備ができましたので、お出でください」という招きの言葉です。しかし、指導者たち、律法の専門家たちやファリサイ派の人々は、イエス様の招きを断るわけです。イエス様を受け入れたのは、徴税人たちや罪人たちでありました(ルカ5:32「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」参照)。さらに言えば、神の契約とは関係のないと思われていた異邦人たちであったのです(『使徒言行録』を参照)。なぜ、そのようなことになったのか。それは、招かれていた人々、ファリサイ派の人々が、主の僕であり、メシアであるイエス様を受け入れることなく、十字架につけて殺してしまったからです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、イエス様の食事を味わうことがないのです。もちろん、悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば、話しは別です。悔い改めて、イエス・キリストを信じるのであれば、主イエスの食事にあずかることができます。その代表者が、使徒パウロです。パウロは、ファリサイ派に属しており、イエス・キリストの名に反対していました。パウロは律法への熱心さから、キリストの弟子たちを迫害していたのです。しかし、そのようなパウロに、復活の主イエス・キリストは現れてくださいました。そして、イエス様はパウロを「抗うことのできない恵み」によって、御自分の弟子にされたのです(『カルヴィニズムの五特質』の「不可抗的恩恵」)。ここで注意したいことは、律法学者たちやファリサイ派の人々がイエス・キリストを拒むことによって、罪人と呼ばれていた人々や神の契約と関係のなかった異邦人が神の国の祝宴にあずかることになるということです(ローマ9~11章参照)。そして、それはひとえに、神の国の宴会の主催者である神の熱心さによるのです。
「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない」。この御言葉が、たとえ話を受けての、イエス様の言葉であれば、イエス様は主の僕であると同時に、家の主人であると言えます。そうであれば、「この家をいっぱいにしてくれ」と命じられているのは、イエス様の僕たちである私たちであるのです。その場合、この家とは、建物としての礼拝堂のことです。私たちの礼拝堂には、まだ席が空いています。それゆえ、主イエス・キリストは、「この家をいっぱいにしてくれ」と言うのです。
「あなたがたに言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない」。この御言葉は、同席していた客たち、自分たちは神の国で食事をする幸いにあずかれると自負していた者たちに対する警告の言葉です。また同時に、礼拝に集い、主の晩餐の礼典にあずかっている私たちへの警告の言葉でもあります。なぜなら、主の晩餐の礼典こそ、神の国の祝宴の先取であるからです。もし、私たちがこの世の富やこの世の人間関係を優先して、礼拝への招きを断り続けるならば、私たちは、神の国の祝宴にあずかることはできないのです(一ヨハネ2:15~17参照)。そのようなことがないように、私たちは主イエス・キリストの招きに応えて、熱心に、礼拝に出席したいと願います。また、私たちは、主イエス・キリストの僕たちとして、この礼拝堂をいっぱいにしたいと願います。