へりくだりと復活信仰 2026年7月05日(日曜 朝の礼拝)

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へりくだりと復活信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 14章7節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより名誉ある人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。
14:13 宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」ルカによる福音書 14章7節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第14章7節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 今朝の御言葉は、イエス様の食卓での教えです。1節に、「ある安息日に、イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったときのことである」と記されていました。イエス様は、自分を食事に招いたファリサイ派の議員の家で、今朝の御言葉を語っています。先々週(6月21日)、私たちは、イエス様が安息日に水腫を患っている人を癒やされたお話しを学びました。イエス様が水腫を患っている人を癒やされたのは、招待された客が席に着く前、食事が始まる前のことであったようです。

 7節に、「イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された」とあります。ここで問題になっているのは、座席の順番、席次です。現代の日本において、「室内の席次は、出入口に遠いほど上席になる。出入口から近いほど末席になる」と言われます。紀元1世紀のユダヤの社会においても、席次を決めるルールがあったと思います。そのような社会にあって、招待を受けた客は、上席を選んで座っていたのです。彼らは互いに、他の人よりも、自分を偉く見せようとしていたのです。そのような様子を見て、イエス様は、彼らにたとえを語られました。8節から11節までをお読みします。

 「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより名誉ある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 ここでイエス様が教えていることは、生活の知恵とも言えます。と言いますのも、知恵の言葉である『箴言』の第25章6節と7節に、同じようなことが記されているからです。

 王の前で高ぶらず/身分の高い人々の場に立とうとするな。「上座(かみざ)に着け」と言われることは/高貴な人の前で席を下げられることにまさる。

 このような『箴言』の御言葉を念頭に置きつつ、イエス様は今朝の御言葉を語っておられるのです。けれども、これは「たとえ」ですから、単なる生活の知恵ではなく、もっと深い意味が込められています。イエス様は、「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない」と言われました。「婚礼の祝宴」とは第13章29節の言葉で言えば、「神の国での宴会」のことです。なぜ、神の国の宴会において、上席に座ってはならず、末席に座るべきであるのでしょうか。それは、神様が、高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められる御方であるからです。神様は、へりくだる者を「友よ」と呼んでくださり、「もっと上席にお進みください」と言ってくださるのです。

 「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これと同じようなことが、『箴言』の第3章34節に記されています。

 主は嘲る者を嘲り/へりくだる人に恵みを与える。

 私たちが用いている旧約聖書は、ヘブライ語聖書から日本語に翻訳したものです。ヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳したギリシャ語訳聖書、いわゆる七十人訳聖書を日本語に翻訳するとこうなります。

 主は高慢な者を退け、謙遜な者に恵みを与えられる。

 この七十人訳聖書の御言葉を、主の僕ヤコブと使徒ペトロは、それぞれの手紙の中で引用しています(初代教会にとって、旧約聖書は七十人訳聖書であった。イエス様の時代、ギリシャ語が世界の共通語であり、新約聖書もギリシャ語で記されている)。聖書を開いて確認します。新約の415ページです。『ヤコブの手紙』の第4章6節から10節までをお読みします。

 しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖書はこう語るのです。「神は、高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる。」ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。二心のある者たち、心を清めなさい。嘆き、悲しみ、泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

 ここで、ヤコブは、ヘブライ語聖書のギリシャ語訳、七十人訳聖書の『箴言』第3章34節を引用しています。この箴言の御言葉を根拠にして、「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」と言うのです。

 また、使徒ペトロも、『箴言』の第3章34節の御言葉を引用しています。新約の424ページです。第5章5節と6節をお読みします。

 同じように、若い人たち、長老たちに従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。「神は、高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる」からです。

 ですから、神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。

 このように、使徒ペトロも、ヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書から、『箴言』の第3章34節を引用しています。それは、イエス様が、今朝の御言葉において、『箴言』の第3章34節を引用して、神の国について教えられたからです。イエス・キリストにおいて到来した神の国において、神様は高ぶる者を退け、へりくだる者には恵みをお与えになるのです。これが神の国の真理(まことの道理)であるのです(ルカ1:51~54参照)。ですから、イエス様は、上席に着かないで、末席に座るようにと教えられたのです。そのようにして、イエス様は、私たちの高ぶりを戒められるのです。

 「神は、高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる」。この神の国の真理(まことの道理)は、誰よりも、神の国のメシア、王であるイエス様に当てはまります。そのことを教えてくれているのが、使徒パウロが記した『フィリピの信徒への手紙』の第2章の御言葉です。新約の354ページです。第2章3節から11節までをお読みします。

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ/へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ/すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。

 神様は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになります。それゆえ、神様は十字架の死に至るまでへりくだったイエス・キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名、「主」という名をお与えになったのです。私たちは、「イエス・キリストは主である」と告白することによって、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる「父なる神」を崇めているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の135ページです。

 12節から14節までをお読みします。

 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるであろう。」

 食事の会の目的は、交わりを深めること。互いにもてなし合うことでした。当時の人々は、お返しを期待して、友人や兄弟や親類や近所の金持ちを食事の会に招待したのです。しかしイエス様は、宴会を催すときは、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさいと言われます(セム慣用句「…してはならない。むしろ、…せよ」は「…するよりも、むしろ、…せよ」の意味)。当時の常識からすれば、このような人々は宴会の席に招かれない人たちです。なぜなら、彼らは何のお返しもできない人たちであるからです。しかし、イエス様は、だからこそ、彼らを招くようにと言うのです。なぜなら、彼らをお造りになった神様が、正しい人たちが復活するときに報いてくださるからです。このイエス様の御言葉の背景にも、『箴言』の御言葉があります。『箴言』の第19章17節にこう記されています。

 弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること。主はその行いに報いてくださる。

 この御言葉を念頭において、イエス様は、宴会には、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい。そうすれば、正しい人が復活するときに、神様が報いてくださると言うのです。

 14節の御言葉、「そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう」から、私たちはイエス様が正しい人の復活を信じていたことが分かります。正しい人の復活については、『ダニエル書』の第12章に記されていますが、ファリサイ派の人々も死者の復活を信じていました(使徒23:8参照)。イエス様が十字架の死に至るまでへりくだることができたのは、正しい人たちが復活するとき、神様が報いてくださることを信じていたからです。イエス様のへりくだりは、正しい人たちが復活するときに神様が報いてくださるという信仰に支えられていたのです。そうであれば、イエス・キリストの弟子である私たちのへりくだりを支えるのも、復活のときに神様が報いてくださるという信仰であるのです(ヘブライ11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」参照)。復活信仰とは、復活のときに報いを受けることを信じる信仰であるのです。神の御前に、へりくださる人は、弱い人たちと交わり持つようになります。そして、そのような人を、神様は、正しい人が復活するときに、高めて、報いてくださるのです(ローマ12:16「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってなりません。」参照)。

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