平和を見出す人 2026年7月01日(水曜 聖書と祈りの会)
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- 村田寿和 牧師
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雅歌 8章8節~10節
聖書の言葉
8:8 私たちの妹は幼く、乳房もありません。/この妹が求愛されたとき/何をしてあげればよいでしょう。
8:9 彼女が城壁ならば/その上に銀の胸壁を建てましょう。/彼女が扉ならば/その上にレバノン杉の板を張りめぐらしましょう。
8:10 私は城壁、私の乳房は二つの塔のよう。/それで、私はあの人の目に/平和を見いだす人のようになりました。雅歌 8章8節~10節
メッセージ
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今朝は、『雅歌』の第8章8節から10節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
8節と9節をお読みします。
私たちの妹は幼く、乳房もありません。この妹が求愛されたとき/何をしてあげればよいでしょう。彼女が城壁ならば/その上に銀の胸壁を建てましょう。彼女が扉ならば/その上にレバノン杉の板を張りめぐらしましょう。
ここには、おとめの兄たちの言葉が記されています。古代オリエントの社会において、兄たちは妹の結婚に責任を負っていました。『創世記』の第24章に、「イサクとリベカの結婚」のお話しが記されています。そこで、リベカの結婚についての話し合いを取り仕切っていたのは兄ラバンでした。このように、兄たちにとって妹の結婚は一大関心事であったのです(創世34章の「シュケムでの出来事」も参照)。おとめの兄たちは、「私たちの妹は幼く、乳房もありません。この妹が求愛されたとき/何をしてあげればよいでしょう」と言います。これは答えを導く修辞学的な問いかけですね。兄たちはこう言います。「彼女が城壁ならばその上に銀の胸壁を建てましょう。彼女が扉ならば/その上にレバノン杉の板を張りめぐらしましょう」。「城壁」とは「貞潔を守ること」「性的な純潔を守ること」を意味します。兄たちは妹が貞潔を守る城壁のようであれば、その上に「銀の胸壁」を建てると言います。「胸壁」とは兵士たちを守るためのデコボコの壁のことです。ここで「銀の胸壁」と言われていることに注意したいと思います。兄たちは、妹がますます貞潔を守るように、胸壁を建てるのですが、その胸壁は男たちを魅了する「銀」でできているのです。また、「扉」とは「貞潔を破ること」「性的に節操のないこと」を意味します。兄たちは妹が性的に節操がない扉であれば、その上に「レバノン杉の板」を張りめぐらすと言います。兄たちは、妹が扉を開いて男を招き入れないように、その上にレバノンの板をはりめぐらす、と言うのです。ここでも「レバノン杉の板」と言われていることに注意したいと思います。「レバノン」は良い香りがする高級木材です。兄たちは、扉の上に板を張りめぐらすのですが、その板は、男たちを魅了する「レバノン杉」であるのです。胸壁が「銀」であり、板が「レバノン杉」であることは、兄たちの目的が妹が求愛されるまでの間、妹の貞潔を守ることにあるからです。兄たちの目的は、妹に男たちが寄って来ないようにすることではなく、男たちから求愛されるまで、妹の貞潔を守ることにあるのです。
10節をお読みします。
私は城壁、私の乳房は二つの塔のよう。それで、私はあの人の目に/平和を見い出す人のようになりました。
10節は「おとめ」の言葉です。おとめは「私は城壁」と言います。おとめは貞潔を守って来たのです。また、おとめは「私の乳房は二つの塔のよう」と言います。兄たちは、8節で、「私たちの妹は幼く、乳房もありません」と言っていました。しかし、おとめは「私の乳房は二つの塔のよう」と言うのです。おとめは思春期の女の子から成熟した女性になっているのです。つまり、結婚適齢期を迎えているのです。実際、おとめには愛する人がいるのです。「それで、私はあの人の目に/平和を見いだす人のようになりました」と言うのです。ここで「平和」と訳されている言葉(シャローム)は完全であること、満ち満ちていることを意味します。第7章7節から10節で、若者はおとめについて、次のように語っていました。旧約の1043ページです。
喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい。あなたの立ち姿はなつめやし/あなたの乳房はその実の房のよう。私は言う。「なつめやしの木に登り、その房の実をつかもう。あなたの乳房がぶどうの房になり/あなたの息がりんごの香りのようになるように。あなたの口は上質のぶどう酒のように/私の愛する人に滑らかに流れ/眠っている唇に滴ります。」
このように語っていた花婿にとって、おとめの乳房は平和をもたらすもの、満足を与えるものであったのです(新共同訳「あの人の目には、もう/満足を与えるものと見えています」参照)。今朝の御言葉に戻ります。旧約の1044ページです。
今朝の御言葉は、花嫁の兄たちとその妹である花嫁の掛け合いですが、これは結婚式で行われる余興であったと考えられています。この掛け合いは、花嫁が男の人を知らないおとめであることを物語っているのです。
今朝は、10節後半の御言葉、「私はあの人の目に平和を見出す人のようになりました」に、着目したいと思います。「あの人」とは花婿のことであり、私たちにとっては、イエス・キリストのことです。イエス・キリストの目に、私たちは平和を見出す人のようになっているだろうか。そのことを今朝は考えたいと思います。これは、言い換えれば、イエス・キリストにとって、私たちが平和をもたらす者となっているか、ということです。このことを、イエス・キリストを抜きにして考えるならば、私たちはイエス・キリストに平和をもたらす者ではないと思います。しかし、イエス様は、御自分のゆえに、私たちを平和をもたらす者と見なしてくださるのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、神様と和解し、神の平和に生きる者とされているからです。花婿であるイエス様御自身が、花嫁である私たちに神の平和を与えてくださったのです。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第14章でこう言われました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。父なる神がイエス・キリストにあって私たちを見ていてくださるように、イエス・キリストはご自分にあって私たちを見ていてくださるのです。それゆえ、私たちは、花婿であるイエス・キリストの目に、平和を見いだす人のようになっているのです。イエス様は、ご自分の愛のゆえに、私たちとの交わりに満足してくださっているのです。イエス様は、御自分の名によってささげられる私たちの礼拝を喜んで受け入れてくださるのです。