死よりも強い神の愛 2026年6月24日(水曜 聖書と祈りの会)

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死よりも強い神の愛

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 8章5節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:5 愛する人に寄りかかり/荒れ野から上って来る人は誰でしょう。/りんごの木の下で、私はあなたを目覚めさせました。/そこは、あなたの母があなたを身ごもった所。/そこは、あなたを産んだ母が身ごもった所。
8:6 印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。/愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。/愛の炎は熱く燃え盛る炎。
8:7 大水も愛を消し去ることはできません。/洪水もそれを押し流すことはありません。/愛を手に入れるために、家の財産をすべて/差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。雅歌 8章5節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『雅歌』の第8章5節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 5節の前半をお読みします。

 愛する人に寄りかかり/荒れ野から上って来る人は誰でしょう。

 5節は、「おとめたち」の言葉です。「愛する人によりかかり/荒れ野から上って来る人」とは、「おとめ」のことです。おとめたちの言葉は、5節後半から7節までの「おとめ」の言葉の備えとなっています。

 5節の後半をお読みします。

 りんごの木の下で、私はあなたを目覚めさせました。そこは、あなたの母があなたを身ごもった所。そこは、あなたを産んだ母が身ごもった所。

 「りんごの木の下」とは、文字通りの意味ではなく、若者の母親の天幕のことです。「そこは、あなたの母があなたを身ごもった所。そこは、あなたを産んだ母が身ごもった所」とあるように、「りんごの木の下」は「若者の母親の天幕」のことであるのです。『創世記』の第24章に、「イサクとリベカの結婚」のお話しが記されています。その最後、67節にこう記されています。

 イサクは、母サラの天幕に彼女を入れた。彼はリベカをめとり、妻となった彼女を愛した。こうしてイサクは、母の死後、慰めを得た。

 イサクが母サラの天幕にリベカを入れたように、若者はおとめを自分の母親の天幕に入れたのです。つまり、若者とおとめは、結婚して、夫婦となったのです。

 「りんごの木の下で、私はあなたを目覚めさせました」というおとめの言葉は、4節の若者の言葉を受けてのものです。4節で、若者は、「エルサレムの娘たちよ、私に誓ってください。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと」と言っていました。おとめは、若者の母親の天幕に入ることによって、つまり、結婚して夫婦になることによって、若者の愛を目覚めさせたのです。第8章2節で、「私はあなたを導いて/私を育ててくれた母の家にお連れします」と言っていたおとめは、若者の母の家に入って、自分の愛を夫である若者にささげるのです。

 6節の前半をお読みします。

 印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。

 「印章」とは「はんこ」のことです(創世38:18参照)。印章を押し付けることは所有権を表します。おとめは、若者に、「印章のように、私をあなたの心に・・・押し付けてください」と言うことによって、若者がおとめのものであることを忘れないようにと願うのです。このことは、結婚したばかりの夫婦であれば当然のことですね。

 6節の後半と7節をお読みします。

 愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。洪水もそれを押し流すことはありません。愛を手にいれるために、家の財産をすべて差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。

 おとめは、「愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい」と言います。生きている者はだれもが死にます。そして、死者の領域である陰府に行くのです。死の力にはだれも逆らうことができず、行きたくなくても陰府に呑みこまれてしまうのです。そのように愛も、逆らうことのできない力を持っているのです。おとめはその愛の力によって、若者とのロマンスを夢見て、ついには結婚して夫婦となったのです。「愛の炎は熱く燃え盛る炎」とあるように、おとめの内には愛の炎が熱く燃え盛っているのです。そして、その愛の炎は、大水も消し去ることのできないほどであるのです。そのような愛は、お金では決して買うことのできないものであるのです。もし、愛を手に入れようと、家の財産をすべて差し出す者がいたとしたら、蔑まれるだけであるのです。

 「愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい」。これは、人間の愛、男女の愛について言われていることです。結婚の誓約に、「死が二人を別つまで」とあるように、「人間の愛は死よりも強く、人間の熱情は陰府よりも激しい」とは言えないのです。しかし、イエス・キリストにある神の愛ならどうでしょうか。イエス・キリストにある神の愛であれば、「愛は死よりも強く、熱情は陰府よりも激しい」と言えるのです。なぜなら、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章でこう記しているからです。新約の280ページです。31節から38節までをお読みします。

 では、これらのことについて何と言うべきでしょうか。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ/屠られる羊と見なされています」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

 死の力は、愛する男女を引き離します。しかし、死の力であっても、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。それは、「神の愛は死よりも強く、神の愛の熱情は陰府よりも激しい」からです。私たちは、イエス・キリストにあって、死よりも強く、陰府よりも激しい神の愛で愛されているのです。それゆえ、私たちも、パウロと一緒に、次のように語ることができるのです。「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」。

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