エルサレムのために嘆くイエス 2026年6月14日(日曜 朝の礼拝)

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エルサレムのために嘆くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章31節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:31 ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。
13:33 ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
13:34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」ルカによる福音書 13章31節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第13章31節から35節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 今朝の御言葉にはファリサイ派の人々がでてきます。「ファリサイ派の人々」とは、律法を守ることに熱心なまじめな人たちです。とりわけ、彼らは安息日を守ることに熱心でした。他方、イエス様は、律法を守らない罪人たちと食事を共にし、安息日に病を癒やされました。当然、ファリサイ派の人々は、イエス様を目の敵にしていました。ファリサイ派の人々は、安息日に病人を癒やすイエス様をなんとかしようと話し合っていたのです(6:11参照)。また、イエス様の方でも、ファリサイ派の人々に対して「あなたがたは災いだ」と言われました(11:42、43、44参照)。また、弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち彼らの偽善に注意しなさい」と言われました(12:1)。このように、福音書記者ルカは、イエス様とファリサイ派の人々を敵対する者として描いてきたのです。そのファリサイ派の人々の何人か近寄って来て、イエス様にこう言います。31節。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。「ヘロデ」とは、ガリラヤとぺレアの領主であるヘロデ・アンティパスのことです(前4年~後39年在位、ヘロデ大王の第2子)。このとき、イエス様はヘロデ・アンティパスの領地であるぺレア(ヨルダン川東岸)にいたようです。領主ヘロデと言えば、洗礼者ヨハネを牢に閉じ込めて、殺害した人物です(3:19、20、9:9参照)。「洗礼者ヨハネの首をはねた領主ヘロデがあなたをも殺そうとしている。だから、急いでここを立ち去ってください」と言うのです。それに対して、イエス様はこう言われます。32節。「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ」。イエス様は、領主ヘロデのことを「あの狐」と言いました。それによって、イエス様は領主ヘロデを少しも恐れていないことを言い表したのです。イエス様の歩みは、領主ヘロデを恐れて、変更が生じるようなものではないのです。このイエス様の御言葉から推測すると、イエス様を自分の領地から追い出したいと願ったヘロデが、ファリサイ派の人々を用いて、脅しをかけたようです。ファリサイ派の人々の言葉だけを読むと、イエス様の身を心配している善意からの発言のように聞こえますが、彼らは領主ヘロデから遣わされた者たちであったのです。そのことを見抜かれて、イエス様は、「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ」と言われたのです。

 イエス様は、町や村を巡って神の国の福音を宣べ伝えながら、エルサレムへと旅を続けていました(13:22参照)。そして、ご自分において神の国(神の王国、神の王的支配)が到来していることのしるしとして、人々から悪霊を追い出し、人々の病を癒やされたのです。このことは、ナザレの会堂で教えられたように、主から聖霊を注がれて遣わされたメシアとしての使命であったのです。領主ヘロデを恐れてやめてしまうようなものではないのです。イエス様は、主なる神に聖霊を注がれて遣わされたメシア、王として、神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒やすことをやめることはできないのです。では、イエス・キリストの教会である私たちにとって、やめることができないことは何でしょうか。そのことを私たちは、コロナウィルス禍を通して知りました。それは、主の日の礼拝です。キリストの教会である私たちは、イエス・キリストの復活を祝う主の日の礼拝をやめることはできないのです。もし、やめてしまえば、私たちはキリストの教会としての存在意義を失ってしまうのです。

 続けて、イエス様はこう言われます。33節。「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。これからイエス様は、領主ヘロデが治めるぺレアを離れて、エルサレムのあるユダヤへと入ります。しかし、それは、イエス様が領主ヘロデを恐れたからではありません。イエス様がエルサレムへと進まれるのは、それが神の御計画であるからです。預言者であるイエス様がエルサレムで死ぬこと。それが神の御計画であるからです。このことは、ペトロの信仰告白を受けて、イエス様が弟子たちに教えられたことです。第9章20節から22節までをお読みします。新約の121ページです。

 イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神のメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じ、そして、言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 ペトロは、弟子たちを代表して、「あなたは神のメシアです」と信仰を言い表しました。そのペトロの信仰告白を受けて、イエス様は、「私は多くの苦しみを受けて、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活するメシアである」と教えられたのです。「長老、祭司長、律法学者たち」とは、ユダヤの最高法院の構成メンバーです。イエス様は多くの苦しみを受け、最高法院から排斥されて殺され、三日目に復活するために、エルサレムへと進まれるのです。このことが神の御計画であることは、第9章28節以下に記されている「イエスの姿が変わる」というお話からも分かります。そこには、光輝くイエス様と栄光に包まれたモーセとエリヤが、イエス様がエルサレムで遂げようとしている最後(エクソドス、脱出)について話していたと記されています(9:29~31参照)。「モーセとエリヤ」は「律法と預言者」を表します。イエス様がエルサレムで遂げる最後は、律法と預言者、すなわち聖書に記されていることであるのです。イエス様は、聖書に記されているメシアとしての定めを実現するために、今日も明日も次の日もエルサレムを目指して進んでいくのです。預言者であるイエス様が死ぬ場所、それは宗教と政治の中心地である都エルサレムであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の134ページです。

 続けてイエス様はこう言われます。34節。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。ここでイエス様は、エルサレムの不信仰を嘆いています。エルサレムには、神様がその名を置くと言われた神殿がありました。エルサレムは神の都であったのです。しかし、エルサレムがしてきたことは、神様から遣わされた預言者たちを石で打ち殺すことであったのです。石打の刑は、神を冒涜する者に対する刑罰でした。エルサレムの人々は、神様から遣わされた預言者たちを神様を冒涜する者として処刑したのです(何たる倒錯!)。イエス様は、「めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」と言います。この御言葉は、私たちを戸惑わせます。なぜなら、『ルカによる福音書』において、イエス様が公生涯(救い主としての生涯)でエルサレムに上るのは一度だけであるからです(他方、『ヨハネによる福音書』はイエス様が三度、エルサレムに上って宣教したことを記す)。私たちは、このイエス様の御言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。私は、人となる前の神の御子としてのイエス様の御言葉として理解するのがよいと思います。『ヨハネによる福音書』がその冒頭で記しているように、イエス様は、初めから神様と共におられる子なる神、言(ことば)であります。イエス様は、世界を創造し、イスラエルの人々をエジプトの奴隷の家から導き出された神(三位一体の神)であるのです。そのような神の子として、イエス様は、「めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」と言われるのです。イエス様がエルサレムで苦しみを受けて、最高法院から排斥され、殺されることは、エルサレムの人々がイエス様の招きに応じようとはしないことを意味するのです。そのようなエルサレムの人々に、イエス様はこう言われます。35節の前半。「見よ、お前たちの家は見捨てられる」。ここでの「お前たちの家」とはエルサレム神殿のことです。かつて、12歳のイエス様は、神殿を「私の父の家」と言われました(2:49「私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」参照)。しかし、ここでイエス様は、神殿を「お前たちの家」と言われるのです。それはエルサレムの人々が父なる神から遣わされたイエス様を排斥し、殺してしまうからです。それゆえ、お前たちの家となった神殿は見捨てられるのです。そして、事実、紀元70年に、ローマ帝国の軍隊によってエルサレム神殿は破壊されてしまうのです。

 続けてイエス様はこう言われます。35節の後半。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない」。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」。この御言葉は、『詩編』の第118編26節の引用です。聖書を開いて確認します。旧約の941ページです。19節から29節までをお読みします。

 義の城門を開けよ。私は入って、主に感謝しよう。これこそ主の城門、正しき人はここに入る。あなたに感謝します。あなたは私に答え/私の救いとなってくださった。家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。今日こそ、主が造られた日。これを喜び躍ろう。どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。祝福あれ、主の名によって来る人に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する。主こそ神、主が私たちを照らす。祭壇の角のところまで/枝を手に祭りの行列を組め。あなたは私の神。あなたに感謝します。わが神よ、あなたを崇めます。主に感謝せよ、主は恵み深く/その慈しみはとこしえに。

 26節に、「祝福あれ、主の名によって来る人に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する」とあります。この御言葉は、エルサレムに巡礼する人々を祝福する祭司たちの言葉です。エルサレムの祭司たちは、このような祝福の言葉をもって、巡礼者たちを祝福したのです。では、イエス様がエルサレムに入られたとき、エルサレムの人々は、祝福をもって迎え入れたでしょうか?このことも、聖書から確認したいと思います。新約の145ページです。第19章37節から40節までをお読みします。

 いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる王に/祝福があるように。天には平和/いと高き所には栄光があるように。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」

 「主の名によって来られる王に/祝福があるように」と言って神を賛美したのは、エルサレムの人々ではなく、イエスの弟子たちでした。エルサレムにいたファリサイ派のある人々は、その弟子たちの賛美を黙らせようとしたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の134ページです。

 もう一度35節をお読みします。

 「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」

 このイエス様の御言葉は、エルサレムの人々がイエス様を、主の名によって来られる王として祝福をもって歓迎しないことを前提にしています。エルサレムの人々は、イエス様を祝福して迎えるどころか、呪って殺してしまいました。そのエルサレムの人々が、イエス様を主の名によって来られるメシア、王として迎え、祝福するようになるとき、つまり、彼らが悔い改めるとき、彼らはイエス・キリストにお会いすることができるのです。このことは、私たちにも起こったことです。私たちもイエス様を呪って殺してしまいました。しかし、御言葉によって心を貫かれて、悔い改めて、イエス様を主の名によって来られたメシア、王として祝福することができた。その時、私たちは、聖霊と御言葉によって臨在されるイエス・キリストにお会いすることができたのです(使徒2:36~42参照)。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない」というイエス様の御言葉は、ご自分を受け入れないすべての人への招きの言葉であります。イエス様は今も、弟子である私たちの福音宣教を用いて、御自分の民を御翼のもとに集めようとしておられるのです。

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