狭い戸口から入るように努めよ 2026年6月07日(日曜 朝の礼拝)

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狭い戸口から入るように努めよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章22節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。
13:23 すると、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返って来るだけである。
13:26 その時、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から離れよ』と言うだろう。
13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されているのを見て、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29 そして人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。
13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」ルカによる福音書 13章22節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第13章22節から30節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 22節に、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた」とあります。福音書記者ルカは、イエス様がエルサレムへの旅の途上にあることを私たちに思い起こさせるのです。第9章51節にこう記されていました。「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された」。「天に上げられる日」とは、「イエス様が十字架の死から復活して、天の父なる神の右の座に上げられる日」のことです。第9章18節以下に、ペトロが弟子たちを代表して、イエス様に「あなたは神のメシアです」と信仰を言い表したことが記されています。そのペトロの信仰告白を受けて、イエス様は御自分の死と復活について予告されます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とイエス様は言うのです(9:22)。このイエス様の苦難の死と復活の舞台がエルサレムであるのです。イエス様は、苦難の死と復活という神の計画を実現するために、エルサレムへの旅を続けておられるのです。そのことを念頭において、今朝の御言葉に耳を傾けて行きたいと思います。

 23節に、「すると、『主よ、救われる人は少ないのでしょうか』と言う人がいた」とあります。この人はイエス様の教えを聞いていた群衆の一人であったと思います。「救われる人は少ないのでしょうか」。このような問いは、当時(紀元1世紀)のユダヤ人たちの間でしばしば話題になりました。この人がどのような気持ちで、このような質問をしたのかは分かりません。しかし、明らかなことは、この人が自分を救われる人の一人に数えているということです。そのことを見抜かれて、イエス様は一同(弟子たちと群衆)にこう言います。24節。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。イエス様は、ある人の質問、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」という質問をきっかけにして、「救いの道」について教えられます。救いの道、それは「狭い戸口から入るように努めること」です。では「狭い戸口」とは何でしょうか?それは、「悔い改めて、イエス・キリストを信じること」です。私たちは、成人洗礼を受けたとき、また、信仰告白をしたときに、神と教会の前に、六つの誓約をしました(週報を参照)。私たちは、「天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じます」と告白し、その神の御前に、自分が罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを認めました。そのような者として、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼むことを誓約したのです。また、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを、決心し約束したのです。ここに、悔い改めて、イエス・キリストを信じることが言い表わされているのです。自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みがないことを認めること(第2項)。これが悔い改めです。そして、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼むこと(第3項)。さらには、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを決心し、約束すること(第4項)。これが信仰です。私たちは、神と教会の前に、六つの誓約をすることによって、狭い戸口から入ったのです。では、狭い戸口から入ることは、一度だけのことなのでしょうか?そうではないと思います。私たちは日々、悔い改めて、イエス・キリストを信じることが求められているのです。私たちは日々、狭い戸口から入るように努めなければならないのです。

 イエス様は、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われます。これは、生れながらの人間にとって、神の御前に、自分を小さくすることが難しいからです。神の国へと通じる戸口は狭いので、自分を小さくする人しか入れないのです。「神などいない。イエス・キリストなど信じなくても私は生きていける」と言う人は、自分を大きくする人ですから、狭い戸口を通ることができないのです。ですから、もし、私たちが、自分が神の怒りに値する罪人であることを忘れて、イエス・キリストに依り頼まずに生きようとするならば、私たちは狭い戸口を通ることができなくなってしまうのです。このようなことがないように、私たちは、日々、悔い改めて、イエス・キリストに依り頼まなければならないのです。

 続けてイエス様はこう言われます。25節から27節までをお読みします。

 「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたは外に立って戸を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返って来るだけである。その時、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から離れよ』と言うだろう」。

 ここでイエス様は、狭い戸口から神の国に入るには、時間制限があることを教えています。家の主人が立ち上がって、戸を閉めた後は、誰も中に入ることができないのです。ここでの家は、イエス・キリストにおいて到来している神の王国のことです。また、家の主人とは、神様によって聖霊を注がれて王となったイエス様のことです。イエス様は、今、父なる神の右に座しておられますが、終わりの日に、天から再び来られます。そのことによって、神の国へと通じる狭い戸口は閉められてしまうのです。戸が閉められてしまってから、イエス様のことを「主よ」と呼んでも、無駄であるのです。また、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです」と言っても、無駄であるのです。イエス様は、ここで群衆のことを念頭において語っています。群衆もイエス様のことを「主よ」と呼び、イエス様と食事を共にし、イエス様の教えを聞いたのです。そして、群衆は、自分たちは救われていると考えていたのです。群衆は、自分たちが救われていることを前提にして、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」とイエス様に問うたのです。その群衆に対して、イエス様は、「お前たちがどこの者か知らない。不正を働くものども、皆私から離れよ」と言うのです。これは頭から水をかけられるような話です。私たちは、「救われる者が多いのか、少ないのか」ということよりも、「自分は救われるのだろうか」ということを真剣に問わなければならないのです。

 さらにイエス様はこう言われます。28節から30節までをお読みします。

 「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されているのを見て、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 群衆は、自分たちはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるゆえに神の国に入ることができると考えていました(3:8参照)。しかし、イエス様は、こう言われるのです。「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されているのを見て、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」。これも頭から水をかけられるような話ですね。アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入ることができたのは、悔い改めて、やがて来られる救い主イエス・キリストを信じたからです。『ヨハネによる福音書』の第8章56節で、イエス様はこう言われています。「あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである」。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、すべての預言者たちも、悔い改めて、イエス・キリストを信じるという狭い戸口を通って、神の国に入ったのです(ヘブライ11章参照)。

 群衆は、アブラハムの子孫であるユダヤ人だけが神の国で宴会の席に着くと考えていました。しかし、イエス様は、東から西から、また北から南から、あらゆる国の人々が来て、神の国で宴会の席に着くと言われます。神の国で宴会の席に着くのは、悔い改めて、イエス・キリストを信じる、あらゆる国の人々であるのです。先の人であったユダヤ人も、後の人であった異邦人も、イエス・キリストという狭い戸口を通って、神の国に入り、宴会の席に着くことになるのです。そして、これが『ルカによる福音書』が記された紀元80年頃の教会の状況であったのです。私たちは、福音書記者ルカが、『使徒言行録』を記したことを忘れてはなりません。神の国の宴会のひな型は、キリスト教会の礼拝で行われる「主の晩餐」の礼典です。初代教会において、ユダヤ人も、異邦人も、悔い改めて、イエス・キリストを信じて、主の晩餐の礼典にあずかっていたのです。そして、このことは、イエス様が前もって語っておられたことであったのです。私たちは今朝、主の晩餐の礼典にあずかります。主の晩餐の礼典は、神の国の宴会の先取り、その前味であるのです。ですから、私たちは、悔い改めと信仰をもって、主の晩餐の礼典にあずからなくてはならないのです。

 今朝は、最後に、悔い改めてイエス・キリストを信じる者が、なぜ、神の国に入れるのかについてお話ししたいと思います。22節に記されていたように、イエス様は町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けていました。イエス様は、エルサレムにおいて、神の計画である、苦難の死と復活を遂げようとしておられます。イエス様は多くの人の罪を担って、十字架の死を遂げることによって、神の御心を完全に実現されます。そのようにして、イエス様は神の国に入るのです(復活はその証拠!)。イエス様にとって、狭い戸口から入るとは、神の御心を完全に行うことでした。そして、イエス様は、十字架の死に至るまでの従順によって、狭い戸口から神の国へと入られたのです。ですから、私たちにとっての狭い戸口は、悔い改めてイエス・キリストを信じることであるのです。イエス・キリストが、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んで、復活してくださった。それゆえに、私たちにとって狭い戸口から入るとは、悔い改めて、イエス・キリストを信じることであるのです。

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