喜びに溢れた愛よ 2026年6月03日(水曜 聖書と祈りの会)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

喜びに溢れた愛よ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 6章12節~7章10節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:12 知らぬ間に、私の魂が/私をアミナディブの車に乗せていました。
7:1 戻れ、戻れ、シュラムの女よ。/戻れ、戻れ/私たちはあなたの姿が見たいのです。/あなたがたはなぜシュラムの女を見たいのですか。/マハナイムの舞いを見るように。
7:2 ナディブの娘よ/サンダルを履いたあなたの足は美しい。/あなたのふっくらした腿は/匠の手による装身具のよう。
7:3 あなたのへそは丸い杯。/混ぜ合わされたぶどう酒は尽きない。/あなたの腹は百合に囲まれた小麦の山。
7:4 あなたの二つの乳房は/二匹の小鹿、双子のガゼルのよう。
7:5 あなたの首は象牙でできた塔のよう。/あなたの目はバト・ラビムの門の傍らにある/ヘシュボンの池。/あなたの鼻はダマスコを見張るレバノンの塔のよう。
7:6 その上にあるあなたの頭はカルメル山のよう。/あなたの長い髪は紫に艶めき/王はその波打つ髪のとりこになった。
7:7 喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい。
7:8 あなたの立ち姿はなつめやし/あなたの乳房はその実の房のよう。
7:9 私は言う。/「なつめやしの木に登り、その房の実をつかもう。/あなたの乳房がぶどうの房になり/あなたの息がりんごの香りのようになるように。
7:10 あなたの口は上質のぶどう酒のように/私の愛する人に滑らかに流れ/眠っている唇に滴ります。」雅歌 6章12節~7章10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『雅歌』の第6章12節から第7章10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 第6章12節をお読みします。

 知らぬ間に、私の魂が/私をアミナディブの車に乗せていました。

 12節は、「おとめ」の言葉です。「アミナディブ」とは人の名前ですが、どのような人かよく分かりません。「車」は馬に引かれて進む馬車のことです。おとめは、衝動的に、アミナディブという人の馬車に乗ってしまったようです。

 第7章1節の前半をお読みします。

 戻れ、戻れ、シュラムの女よ。戻れ、戻れ/私たちはあなたの姿を見たいのです。

 第7章1節は、「おとめたち」の言葉です。「シュラム」とは地名ですが、どこかよく分かりません。アミナディブの車に乗ったおとめは、シュラム出身の女であったようです。おとめたちは、アミナディブの車に乗ってしまったシュラムの女に「戻れ、戻れ」と言います。おとめたちは、シュラムの女の姿が見たいのです。それに対して、別のおとめたちは、こう問います。第7章1節の後半をお読みします。

 あなたがたはなぜシュラムの女を見たいのですか。マハナイムの舞いを見るように。

 「マハナイム」は「二つの陣営」という意味で、かつてヤコブが神の使いたちを見た場所です(創世32:3参照)。おとめたちは、他のおとめたちに、「マハナイムの舞いを見たいと願うように、なぜ、シュラムの女を見たいのか」と問います。この問いは、2節から10節に記されている「若者」の言葉を導き出します。シュラムの女を見たいのは、おとめたちだけではないのです。

 2節から10節までをお読みします。

 ナディブの娘よ/サンダルを履いたあなたの足は美しい。あなたのふっくらとした腿は/匠の手による装身具のよう。あなたのへそは丸い杯。混ぜ合わされたぶどう酒は尽きない。あなたの腹は百合に囲まれた小麦の山。あなたの二つの乳房は/二匹の小鹿、双子のガゼルのよう。あなたの首は象牙でできた塔のよう。あなたの目はバト・ラビムの門の傍らにある/ヘシュボンの池。あなたの鼻はダマスコを見張るレバノンの塔のよう。その上にあるあなたの頭はカルメル山のよう。あなたの長い髪は紫に艶めき/王はその波打つ髪のとりこになった。喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい。あなたの立ち姿はなつめやし/あなたの乳房はその実の房のよう。私は言う。「なつめやしの木に登り、その房の実をつかもう。あなたの乳房がぶどうの房になり/あなたの息がりんごの香りのようになるように。あなたの口は上質のぶどう酒のように/私の愛する人に滑らかに流れ/眠っている唇に滴ります。」

 「ナディブの娘よ」とありますが、新共同訳は「気高いおとめよ」と翻訳してます。「ナディブの娘」は「気高いおとめ」であるのです。ここには、若者がおとめの体の部分をほめる言葉が記されています。第4章1節から15節にも、若者がおとめの体の部分をほめる言葉が記されていました。第4章では頭から足へと、上から下へと記されていましたが、第7章では、足から頭へと、下から上へと記されています。また、その内容も、性的な魅力や官能的な美しさを表す、エロティックなものとなっています。それで、今朝は、7節の「喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい」という言葉に着目して、お話ししたいと思います。『雅歌』の若者、花婿は、私たちにとりまして、イエス・キリストであります。ですから、イエス・キリストが、花嫁である私たちに対して、「喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい」と言ってくださるのです。イエス様は、私たちに「喜びに溢れた愛よ」と呼びかけてくださるのです。そのように聞いて、私たちが先ず考えさせられることは、私は喜びに溢れた愛をもって、礼拝に集っているだろうかと言うことです。礼拝は、花婿であるイエス・キリストにお会いできる時と場所です。その礼拝に、私たちは、喜びに溢れた愛をもって集っているであろうか。このことを、各々が自分に問いたいと思います。もし、そうでないならば、私たちは初めの愛に立ち戻りたいと思います(黙2:4、5参照)。第7章1節に、「戻れ、戻れ、シュラムの女よ」とありましたが、私たちは初めの愛に立ち戻りたいと思います。

 次に考えたいことは、花婿であるイエス・キリストへの「喜びに溢れた愛」がどこから来るのかということです。私たちは生まれながらに持っている自分の愛で、イエス様を愛したのではありません。私たちは、聖霊によって、神の愛をいただいて、イエス様を愛する者とされたのです。このことは、使徒パウロが教えていることです。『ローマの信徒への手紙』の第5章1節から5節までをお読みします。新約の274ページです。

 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 パウロが「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と言うとき、その「神の愛」とは、父なる神の愛であり、子なる神イエス・キリストの愛です(神は三位一体の神!)。聖霊は、私たちの心に、父なる神の愛を注いで、子なる神イエス・キリストを愛する者としてくださいました。また、聖霊は、私たちの心に、子なる神イエス・キリストの愛を注いで、父なる神を愛する者としてくださいました。ですから、花婿であるイエス・キリストが、私たちに、「喜びに溢れた愛よ」と言ってくださるのは、聖霊のお働きによるのです。聖霊が、私たちの心に、イエス・キリストを愛する「喜びに溢れた愛」を与えてくださっている。それゆえ、イエス・キリストは、私たちのことを「喜びに溢れた愛よ」と言ってくださるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す