私の汚れなき人はただ一人 2026年5月27日(水曜 聖書と祈りの会)
問い合わせ
私の汚れなき人はただ一人
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
雅歌 6章4節~11節
聖書の言葉
6:4 私の恋人よ/あなたはティルツァのように美しい。/エルサレムのように愛らしい。/そして軍旗のように恐ろしい。
6:5 私の心を乱すその目を私からそらしてください。/あなたの髪は、ギルアドを駆け下りる/山羊の群れのよう。
6:6 あなたの歯は、洗い場から上って来る/雌羊の群れのよう。/それらは皆、双子を産み/子を産めないものはありません。
6:7 ベールの奥のあなたの頬は/はじけたざくろのよう。
6:8 王妃は六十人、側女が八十人/若い娘は数えきれない。
6:9 私の鳩、私の汚れなき人はただ一人。/彼女は母の一人娘。/彼女を産んだ母にとって輝いている娘。/娘たちは彼女を見て、幸せな人だと言い/王妃も側女も彼女をほめたたえる。
6:10 暁の光のように見下ろすこの人は誰ですか。/その人は満月のように美しく/太陽のように輝き、軍旗のように恐ろしい。
6:11 くるみの園に私は下りて行きました。/川辺の新芽を見るために/ぶどうの木がつぼみをつけたか/ざくろの花が咲いたかを見るために。雅歌 6章4節~11節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は、『雅歌』の第6章4節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。今朝の御言葉は若者の言葉です。若者がおとめの美しさをほめたたえる言葉が記されています。
4節と5節の前半をお読みします。
私の恋人よ/あなたはティルツアのように美しい。エルサレムのように愛らしい。そして軍旗のように恐ろしい。私の心を乱すその目を私からそらしてください。
若者は、おとめを「ティルツア」や「エルサレム」といった町にたとえています。「ティルツア」は、北王国イスラエルの首都であった町です(列王上14:17、15:21、33、16:6-9、17参照)。ヤロブアム2世からオムリまでの約40年間、ティルツアは、北王国イスラエルの首都でした(オムリの時代に首都はサマリアに移る)。エルサレムは、南王国ユダの首都であった町です。ティルツアもエルサレムも美しい町であったのでしょう。若者は自分の恋人を、美しい町ティルツアに、愛らしい町エルサレムにたとえるのです。また、若者は恋人を恐ろしい軍旗にたとえます。その軍旗の下には、敵の兵士たちが集まっているのです。若者にとって恋人は美しく、愛らしいだけではなく、恐ろしい存在でもあるのです。それゆえ、若者は、「私の心を乱すその目を私からそらしてください」と言うのです。若者は、おとめから見つめられるとどうにかなってしまいそうであるのです。
5節の後半から7節までをお読みします。
あなたの髪は、ギルアドを駆け下りる/山羊の群れのよう。あなたの歯は、洗い場から上って来る/雌羊の群れのよう。それらは皆、双子を産み/子を産めないものはありません。ベールの奥のあなたの頬は/はじけたざくろのよう。
若者は、おとめの容姿の美しさをほめたたえます。ここに記されていることは、第4章1節から3節に記されていたこととほぼ同じです。若者はおとめの髪を、ギルアドの山を駆け下りる、黒い毛をした山羊の群れにたとえます。また、若者はおとめの歯を洗い場から上って来る、白い毛の雌羊の群れにたとえます。「それらは皆、双子を産み/子を産めないものはありません」とありますが、これはおとめの歯並びの良さを表しています(新改訳2017「それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない」参照)。若者は、おとめの頬をはじけたざくろにたとえています。おとめの頬ははじけたざくろのように血色が良く、生命力に満ちているのです。
8節と9節をお読みします。
王妃は60人、側女が80人/若い娘は数えきれない。私の鳩、私の汚れなき人はただ一人。彼女は母の一人娘。彼女を産んだ母にとって輝いている娘。娘たちは彼女を見て、幸せな人だと言い/王妃も側女も彼女をほめたたえる。
王は後宮(ハーレム、日本で言えば大奥)を持っていました。王にはたくさんの妻とたくさんの側女がおり、数えきれないほどの若い娘(侍女)がいました。しかし、若者にとって、愛するおとめはただ一人であるのです。「私の鳩、私の汚れなき人はただ一人」とあるように、若者にとって、おとめは他の女性には代えられない運命の人であるのです。母親にとって自分が産んだ一人娘が輝いているように、若者にとっておとめは輝いているのです。
10節をお読みします。
暁の光のように見下ろすこの人は誰ですか。その人は満月のように美しく/太陽のように輝き、軍旗のように恐ろしい。
若者はおとめのことを「暁(夜明け)の光」や「満月」や「太陽」にたとえます。古代オリエントの世界において、月や太陽は神々として崇められていました。ですから、ここで若者はおとめのことを神格化していると読むことができます。平たく言えば、若者にとっておとめは「女神さま」であるのです。それゆえ、若者はおとめに畏敬の念を抱くのです(「軍旗のように恐ろしい」参照)。
11節をお読みします。
くるみの園に私は下りて行きました。川辺の新芽を見るために/ぶどうの木がつぼみをつけたか/ざくろの花が咲いたかを見るために。
「くるみの園」は、若者とおとめが逢い引きする場所のようです。若者はおとめと戯れようとおとめが待つ園に下りて行きます。「川辺の新芽を見るために/ぶどうの木がつぼみをつけたか/ざくろの花が咲いたかを見るために」は、いずれもおとめと戯れることのほのめかしであるのです。
今朝は、9節の「私の鳩、私の汚れなき人はただ一人」という言葉に注目したいと思います。この御言葉は、神様とイスラエルとの関係を私たちに思い起こさせます。『申命記』の第7章6節から8節までをお読みします。旧約の277ページです。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心を引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、また、あなたがたの先祖に誓われた誓いを守るために、主は力強い手によってあなたがたを導き出し、奴隷の家、エジプトの王ファラオの手から、あなたを贖い出したのである。
このように、神様にとって、イスラエルの民は「私の鳩、私の汚れなき人はただ一人」と言える、特別な存在であるのです。そして、それはイスラエルの民がほかの民よりも優れていたからではなく、神の一方的な愛のゆえであるのです(アモス3:2「地上のすべての氏族の中から私が選んだのは/あなたがただけだ」も参照)。
新約のイスラエルである私たちも、主イエス・キリストにあって神様から愛されている者たちであります。使徒パウロが『エフェソの信徒への手紙』で記しているように、神様は「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました」(エフェソ1:4)。イエス・キリストは、父なる神にとって、輝かしい独り子であります(ヨハネ1:14参照)。神の独り子イエス・キリストに結ばれて、私たちも神様にとって特別な民とされているのです。私たちは神の独り子イエス・キリストに結ばれている者として、神様にとって輝いている息子たちであり、娘たちであるのです。