束縛からの解放 2026年5月17日(日曜 朝の礼拝)

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束縛からの解放

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章10節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「女よ、あなたは病から解放された」と言って、
13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた。
13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人を癒やされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13:15 しかし、主は彼に言われた。「偽善者たちよ、あなたがたは誰でも、安息日に牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではないか。」
13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさったすべてのすばらしい行いを見て喜んだ
13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。
13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」ルカによる福音書 13章10節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第13章10節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 安息日に、イエス様はある会堂で教えていました。「安息日」とは、週の最後の日、土曜日のことです。より正確に言うなら、金曜日の日没から土曜日の日没までのことです。ユダヤ人たちは、安息日に、あらゆる仕事をやめて、会堂に集い、神様を礼拝していました。十戒の第4の戒めに、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。ユダヤ人たちは、安息日にあらゆる仕事をやめて、会堂に集まり、礼拝をささげることによって、安息日を神様の日として聖別したのです。イエス様が、安息日に会堂で教えられたことは、これまでにも記されていました。第4章16節以下には、イエス様が安息日にナザレの会堂でお話ししたことが記されていました。新約の106ページです。第4章16節から21節までをお読みします。

 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 ここでイエス様は、ご自分こそが、主によって油を注がれたメシアであると宣言されました。福音書記者ルカは、ナザレの会堂での説教によって、イエス様の福音宣教の開始を告げるのです。主がイエス・キリストを遣わされたのは、「捕らわれている人に解放を告げ、打ちひしがれている人を自由にする」ためであるのです。そのような使命を帯びる者として、イエス様は神の国の福音を告げ知らせ、人々の病を癒やし、人々から悪霊を追い出すのです。

 第4章31節以下を見ますと、イエス様がガリラヤの町カファルナウムの会堂で教えられたこと。ある男から悪霊を追い出したことが記されています。第4章43節と44節によれば、イエス様は、ガリラヤの町カファルナウムの会堂だけではなく、「ユダヤの諸会堂に行って宣教された」と記されています。第6章1節から11節には、いわゆる安息日論争が記されています。ここで注目したいのは5節の「人の子は安息日の主である」というイエス様の発言です。ユダヤ人にとって、安息日の主は神様であります。しかし、イエス様は、「人の子は安息日の主である」と言われました。イエス様こそ、私たちの心と体と魂を休ませてくださる神その方であるのです。6節から11節には、イエス様が安息日に、会堂で教えておられたこと。その会堂において、手の萎えた人を癒やしたことが記されています。第6章9節で、イエス様はこう言われました。「あなたがたに尋ねるが、安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。答えは明らかだと思います。安息日にふさわしいこと(合法的であること)は、善を行うことであり、命を救うことであるのです。そして、イエス様は安息日の主として、手の萎えた人を癒やされたのです。しかし、これを見た律法学者たちやファリサイ派の人々は「すっかり分別を失って、イエスをどうしてやろうかと話し合った」のです。並行箇所である『マルコによる福音書』によれば、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めた」のです。つまり、律法学者たちやファリサイ派の人々の判断によれば、イエス様は、安息日の掟に背く危険人物であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の133ページです。

 安息日に、イエス様がある会堂で教えておられると、そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいました。「病の霊に取りつかれている女」とありますが、イエス様の時代、紀元1世紀のユダヤにおいて、「病は悪霊の働きである」と考えられていました。16節で、イエス様が「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていた」と言っているように、「病は悪霊の働きである」と考えられていたのです。現代の私たちは、「病は悪霊の働きである」とは考えないと思います。ですから、病気になれば病院に行って、診察を受け、薬を飲むわけです。もちろん、私たちは癒し主である神様に祈りつつ、病院に行って、診察を受け、薬を飲みます。それは、癒やし主である神様が、医療の業を用いて、いわゆる一般恩恵として、すべての人を癒やしておられると信じているからです。ともかく、イエス様の時代、「病は悪霊の働きである」と考えられていたのです。彼女は腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができませんでした。イエス様は、その女を見て呼び寄せ、「女よ、あなたは病から解放された」と言って、その上に両手を置かれました。すると、女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神様を崇めたのです。イエス様は、ナザレの会堂において、主が御自分に油を注いで遣わされたのは、「捕らわれている人に解放を告げ、打ちひしがれている人を自由にする」ためであると言いました。まさに、そのようなメシアとして、イエス様は、腰の曲がったままの女を病いから解放されたのです。イエス様によって、腰をまっすぐにしていただいた女は、神様を崇めました。このことは、女が、自分の腰がまっすぐになるようにと、いつも神様にお祈りしていたことを示しています。先程、私は、「病は悪霊の働きである」と考えられていたと申しましたが、「病はその人の罪のゆえである」とも考えられていました。第13章1節以下で、イエス様は、「災難に遭った人は他の人より罪深かったから、災難に遭ったのではない」と教えられました。このことは病にも言えるわけです。病を患っているからといって、その人が他の人より罪深いわけではありません。しかし、当時のユダヤ人たちは、病をその人の罪と結びつけて考えていたのです。そのような宗教的な社会において、女は、「私の曲がった腰をまっすぐにしてください」と神様に祈り求めていたのです。そして、神様は、イエス・キリストを遣わして、この女を病から解放してくださったのです。曲がった腰をまっすぐにしてくださったのです。このことは、私たち一人一人にも、イエス様がしてくださったことです。私たちの体の腰は曲がっていないかも知れません。しかし、心の腰はどうでしょうか。私たちの心は曲がったままで、神様を礼拝することができないでいたのです。しかし、イエス様はその私たちの心をまっすぐにして、神様を礼拝することができるようにしてくださったのです。イエス様は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました(ヨハネ6:29)。私たちがイエス・キリストを信じることができること。それは、私たちの内に起こった神の業、神の奇跡であるのです。 

 女が神様を崇めたのに対して、会堂長は腹を立てました。会堂長とは「会堂の礼拝をつかさどり、建物や施設の管理をする責任者」のことです。なぜ、会堂長は腹を立てたのでしょうか。それは、イエス様が安息日に病人を癒やされたからです。会堂長の判断によれば、イエス様の癒しの業は、安息日に禁じられている労働に当たるのです。会堂長は、群衆にこう言います。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。ここで注意したいことは、会堂長は、イエス様にではなく、「群衆に言った」と記されていることです。会堂長は、群衆に言うことによって、イエス様を間接的に非難するのです。しかし、主イエスは会堂長にこう言います。「偽善者たちよ、あなたがたは誰でも、安息日に牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではないか」。イエス様は、会堂長を始めとする人々、イエス様が安息日を汚していると考える人々を、「偽善者たち」と呼びます。ここでの「偽善者たち」とは「一貫性がない人々」という意味でしょう。なぜなら、彼らは、安息日に牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くのに、イエス様がアブラハムの娘である女を、サタンの束縛から解いてやることを禁じているからです。イエス様の癒しの腹を立てた人々も、安息日であっても、牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行ったのです。そうであれば、安息日であっても、アブラハムの娘であるこの女を、サタンの束縛から解放すべきであるのです。これを聞いて、反対者は皆恥じ入りました。彼らは神様の御前に、自分たちの言い分よりも、イエス様の言い分の方が正しいことを認めたのです。他方、群衆はこぞって、イエス様がなされたすべてのすばらしい行いを見て喜びました。彼らはアブラハムの娘である女が、サタンの束縛から解放されたことに、神の御業を見て喜んだのです(ヨハネ5:16〜18参照)。

 そこで、イエス様はこう言われます。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それはからし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」。からし種は一ミリほどの小さな種です。しかし、成長すると3メートルほどの大きな木になります。その枝に空の鳥が巣を作るほどの木になるのです。イエス様は、腰の曲がった女を癒やしたことを、からし種を庭に蒔くことに譬えます。18年もの間サタンに縛られていた女を解放すること。それはからし種のような小さなことです。しかし、そのような仕方で、神の国(神の王国、神の王的な支配)は、確かに到来しているのです。イエス様が安息日に、腰の曲がった女を癒やされた。そのような小さな仕方で到来した神の国が、成長して、大きな木になり、多くの人々が憩う場となるのです(エゼキエル17:22、23参照)。

 また、イエス様はこう言われます。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ」。「三サトンの粉」とはおよそ40リットルで、150人分のパンの分量にあたります。しかし、そのような大量のパンでも、パン種は少量です。パン種は少しであっても、パン全体を膨らませるのです。そのような影響力を神の国は持っているのです。イエス様が、人々から見放されていた女を「アブラハムの娘」と呼んで、サタンの束縛から解放してくださった。このことが、社会全体に大きな影響を及ぼすことになるのです。安息日においてこそ、イエス様は、ご自分の民を、サタンの束縛から解放してくださいます。イエス様は、今も、キリスト教安息日である主の日の礼拝において、御自分の民を、サタンの束縛から解放してくださっているのです(ウ小教理 問59「神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日に指定されました。そしてそれ以降は、世の終わりまで継続して、週の第一日を安息日に指定されました。これがキリスト教安息日です」参照)。神の国の中心的な現れは、イエス・キリストの教会です。私たちがキリスト教安息日である主の日に、キリストの教会として集まり、ささげる礼拝は、神の国の中心的な現れであるのです。世界的に見れば、イエス・キリストにおいて到来した神の国は、成長した木になっており、その枝には鳥たちが巣を作っているように見えます。また、世界的に見れば、パン全体が膨らんでいるように見えます。なぜなら、世界人口の3分の1である24億人がキリスト教徒であり、世界各地にキリストの教会があるからです。しかし、日本だけを見るならば、神の国は、これから成長するからし種であり、これから発酵するパン種であると言えると思います。なぜなら、キリスト教徒は日本の人口の1パーセント未満である100万人ほどであり、キリスト教会がない町がたくさんあるからです。しかし、今朝覚えたいことは、そのような小さな私たちがささげる礼拝であっても、神の国は確かに来ているということです。そして、私たちの心がまっすぐにされて、神を崇めるものとされたというイエス様の御業は、私たちの周りの人々に、良い影響を与えていくのです。イエス・キリストを信じる私たちを通して、周りの人々にも、神の国の祝福は及んでいくのです。

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