悔い改めなければ滅びる 2026年5月10日(日曜 朝の礼拝)

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悔い改めなければ滅びる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 ちょうどその時、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げる者たちがあった。
13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。
13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。
13:5 決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
13:6 それから、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』
13:8 園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
13:9 もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」ルカによる福音書 13章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第13章1節から9節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に「ちょうどその時、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げる者たちがあった」と記されています。「ちょうどその時」とは、イエス様が、今の時を見定めて、自分で正しい判断をするようにと教えていた、ちょうどその時ということです。今朝の御言葉は前回学んだ御言葉と密接に結びついているということです。「ピラト」とありますが、ピラトとはローマ帝国のユダヤ総督であるポンテオ・ピラトのことです(第5代総督、26~36年在位)。ユダヤ総督であるピラトが礼拝をささげているガリラヤの人たちを殺害したと言うのです。これは非道で残虐な行為です。そのような知らせを受けて、イエス様はこうお答えになります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。ここで、イエス様は、エルサレムにあるシロアムの塔(やぐら)が倒れて、18人が死んだことについても言及されています。このイエス様の御言葉は、人々が「災難に遭った人は、他の人よりも罪深い者であった」と考えていたことを前提にしています。人々は災難を神様からの罰(天罰)のように考えていたわけです。このような考え方は、私たち人間にしみついている考え方ですね。旧約聖書の『ヨブ記』を読むと、義人ヨブが同じ日に財産と子どもたちを失ったことが記されています。また、ヨブ自身も悪性の腫物に打たれたことが記されています。そのヨブを慰めようと三人の友人が訪れるのですが、友人たちはヨブが被った災難がヨブの罪のためであると考えて、ヨブに罪を認めさせようとします。ヨブの友人たちは、ヨブが被った災難から「ヨブは罪人である」と決めつけたのです。また、これと同じようなことが、『ヨハネによる福音書』の第9章にも記されています。新約の180ページです。第9章1節から5節までをお読みします。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」

 ここで弟子たちは、生まれつき目の見えない人を見て、その原因がその人自身の罪か、その両親の罪にあると考えました。その人自身か両親の罪のゆえに、その人は生まれつき目が見えないのだと考えたのです。これが、当時の一般的な考え方であったわけです(9:34「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」参照)。しかし、イエス様は、こう言うのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエス様は、この人の目が見えないこととこの人の罪とを結びつけて考えることを否定されました。そうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。ここでの「神の業」とは、「神が遣わされたイエス・キリストを信じること」です(ヨハネ6:29「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」参照)。イエス様は、この人の目を見えるようにしてくださるだけではなく、ご自分を信じる者としてくださるのです。そして、今も多くの目の不自由な方に、イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださっているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の132ページです。

 2節から5節までをもう一度お読みします。

 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難にあったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。このイエス様の御言葉は、この世に起こる災難(事件、事故)が、世の終わりの裁き(滅び)の前兆であり、私たちに対する悔い改めへの招きであることを教えています。災難の原因を、災難を被った人の罪にあると考えるならば、災難に遭っていない自分は正しい者ということになります。「私は日頃の行いが良かったので、そのような災難に遭わずに済んだ」ということになるわけです。災難に遭った人の知らせを聞いて、自分を正当化するわけです。しかし、自分も災難に遭った人と同じ罪人であることを弁えるならば、私たちは災難に遭った人に自分を重ねて、そこに自分が受けるべき滅びを見て、悔い改めることができるのです。悔い改めるとは、神様のもとに立ち帰ることです。ここで注意したいことは、イエス様が災難に遭った人たちのことを、「罪のない人たち」とは言っていないことです。それは罪を神様との関係において捉えているからです。私たちなら、「何の罪もない人たちが犠牲になった」と言いそうですが、イエス様はそのようには言わないのです。むしろ、イエス様がここで言われていることは、災難に遭った人も、災難に遭っていない人も悔い改めなければ滅びてしまう罪人であるということです(ノアの洪水を参照)。前回学んだように、すべての人が訴える人と一緒に役人のところに向かう途上にあるのです。ですから、悔い改めて、イエス・キリストを信じて、神様と和解しないのであれば、皆同じように滅びるのです。自分の罪のゆえに滅びることになるのです(ヨハネ8:24「『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」参照)。私たちはこの世の災難(事件、事故)に、世の終わりの裁きのしるしを見て、自分も滅ぶべき罪人であることを弁えて、悔い改めるべきであるのです。ノアはまさにそのような人であったのです(創世8:20~22参照)。

 それから、イエス様は次のたとえを話されました。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』園丁は応えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください』」。これはたとえ話ですから、その意味するところを考えてみたいと思います。ぶどう園に植えられている「いちじくの木」は、神の民であるイスラエルのことです。ぶどう園の主人は神様のことです。また、主人が探している実とは、悔い改めにふさわしい行いのことです(このことは文脈からも明かである)。このたとえの前提には、約束のメシアであるイエス様が来られたにもかかわらず、神の民であるイスラエルがイエス様をメシアとして受け入れていない現実があります。それゆえ、ぶどう園の主人はいちじくの木に実を見つけることができず、「切り倒してしまえ」と言うのです。そのような主人に、園丁はこう答えます。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」。この園丁はイエス様のことです。イエス様は、「今年もこのままにしておいてください」と執り成し、私たちが実を結ぶように、肥やしを与えてくださるのです。この肥やしは、私たちに罪を認めさせ、イエス・キリストを求めさせる「聖霊」のことです。その聖霊を与えるために、イエス様は十字架の死を遂げて、三日目に復活されるのです。イエス様がピラトによって裁かれて、十字架に磔にされたこと。それこそ災難です。そのことを見たり、聞いたりした人は、イエスという男はさぞかし大きな罪を犯したのであろうと考えたと思います(イザヤ53:4「彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと」参照)。しかし、そうではないのです。イエス様は罪のない御方であり、何一つ罪を犯したことのない御方であります。そのイエス様が十字架の死という災難を受けてくださったのは、私たちの罪のためであったのです。イエス様は、御自分の民である私たちの罪を担って、その贖いとして、十字架の死を遂げてくださったのです。ですから、私たちは、十字架に磔にされたイエス様に、自分自身を重ねて、悔い改めるべきであるのです。「十字架に磔にされて死ななければならなかったのは、本来、この私であった」ことを認めて、悔い改めて、イエス・キリストを信じるべきであるのです。私たち人間の罪は、罪のない人であり、神の御子であるイエス・キリストが十字架の死を遂げねばならないほどに大きな罪であるのです。人は誰でも罪人ですから、他の人と比較しているうちは、自分の罪はよく分かりません。自分の罪が本当に分かるのは、十字架につけられたイエス・キリストに真正面から向き合うときです(ガラテヤ3:1「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか」参照)。イエス・キリストの十字架の死が、自分の罪のためであったことが本当に分かるとき、私たちは悔い改めることができるのです。悔い改めとは、生涯に一度だけのことではありません。私たちは日々悔い改めることが求められています(主の祈りで日ごとの糧と日ごとの罪の赦しを求めることは、私たちが毎日悔い改めなければならないことを教えている)。私たちは、日々、悔い改めて、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じて、この方にのみより頼んで歩んでいきたいと願います。

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