何が正しいかを自分で判断せよ 2026年5月03日(日曜 朝の礼拝)

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何が正しいかを自分で判断せよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章54節~59節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹くと、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように地や空の模様を見定めることは知っているのに、どうして、今の時を見定めることができないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに引っ張って行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込むだろう。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを支払うまで、決してそこから出ることはできない。」ルカによる福音書 12章54節~59節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第12章54節から59節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 54節に、「イエスはまた群衆にも言われた」とあるように、今朝の御言葉は、弟子たちだけではなく、群衆に対する教えでもあります。群衆とは、イエス様に従う決心をしていない人たち、イエス様のもとに興味本位で集まって来た人たちのことです。そのような群衆に対して、イエス様はこう言われます。「あなたがたは、雲が西に出るのをみるとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹くと、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように地や空の模様を見定めることは知っているのに、どうして、今の時を見定めることができないのか」。ユダヤの西には地中海があります。また、ユダヤの南には荒れ野があります。群衆は西の地中海から生じる雲が雨をもたらすことを知っていました。また、南の荒れ野からの風が暑さをもたらすことを知っていました。群衆は地や空の模様を見定めることを知っていたのです。しかし、群衆は、今の時を見定めようとはしないのです。ここで注意したいことは、造り主である神を信じるユダヤ人にとって、天気は単なる自然現象ではないということです。雨が降ることも、熱風が吹くことも神の御業です。群衆は、地や空の模様から、神が次に何を為されるかを見定めていたのです。そうであれば、イエス様の教えを聞いて、力ある業を見た群衆は、今の時がどのような時かを見定めても良さそうなものです。しかし、群衆は、今の時を見定めることができないのです。いや、見定めようとはしないのです。

 ここで前提になっていることは、イエス様において神の国(神の王国、神の王的な支配)は到来しているということです。イエス様は、ナザレの会堂で、ご自分こそ、約束のメシアであると宣言されました(ルカ4:16~21参照)。そして、カファルナウムやユダヤの諸会堂で、神の国の福音を告げ知らせました(4:43、44参照)。イエス様は、ご自分において神の国が到来していることのしるしとして、人々の病を癒し、人々から悪霊を追い出されました。第11章20節で、イエス様はこう言われました。「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」。また、イエス様は、ご自分こそ、ソロモンにまさるものであり、ヨナにまさるものであると言われました。第11章29節から32節までをお読みします。新約の127ページです。

 群衆がさらに集まったところで、イエスは話し始められた。「今の時代は邪悪な時代である。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代に対してしるしとなる。裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここにソロモンにまさるものがある。裁きの時には、ニネベの人々が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここにヨナにまさるものがある。」

 今の時代の人たちには、ヨナにまさる説教を語るイエス様が与えられています。また、ソロモンにまさる知恵を語るイエス様が与えられています。しかし、今の時代の人々は、イエス様の知恵に耳を傾けることもしなければ、イエス様の説教を聞いて神のもとに立ち帰ることもしないのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の132ページです。

 イエス様は、群衆に対して、「偽善者よ」と言われます。「偽善者」(ヒュポクリタイ)とは「役を演じる役者」のことです。なぜ、イエス様は群衆に対して、「偽善者」と言われたのでしょうか。それは、地や空の模様を見定めることを知っている彼らが、今の時を見定めることができないかのように演じているからです。イエス様が、「どうして、今の時を見定めることができないのか」と言われるとき、それは群衆が無能力であることを嘆いているのではありません。むしろ、「どうして、今の時を見定めることができるのに、見定めようとはしないのか」と言っているのです。西に出る雲が雨をもたらすように、南から吹く風が暑さをもたらすように、イエス様の説教と力ある業は、イエス様において神の国が到来していることを告げているのです。そうであれば、今すぐに、イエス様に従う決断をすべきであるのです。群衆ではなく、イエス様の弟子となるべきであるのです。しかし、彼らはその判断をしないで、群衆の一人に留まっているのです。

 以前に、神の国のしるしについてお話ししたときに、現代に与えられている神の国のしるしは、キリスト教会であると申しました。「イエス・キリストは主である」と告白し、神を礼拝している教会こそ、神の国の中心的な現れであるのです。羽生の町に、キリスト教会がある。そのことは、羽生の町にも神の国が到来していることのしるしであるのです。それゆえ、現代の人々は、キリスト教会というしるしによって、今の時を見定めるように求められているのです。では、キリスト教会は、今の時をどのような時であると見定めているのでしょうか。一言でいえば、「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です」(二コリント6:2参照)。「今は、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主であると信じて、神の国に入ることができる恵みの時」であるのです。イエス・キリストを信じるならば、今日、あなたは救われるのです(ルカ19:9「今日、救いがこの家を訪れた」参照)。

 今の時を見定めることができない。それは、今の時を見定めようとしない思考停止の状態であります。そのような思考停止である群衆に対して、イエス様はこう言われます。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに引っ張って行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込むだろう。言っておくが、最後の一レプトンを支払うまで、決してそこから出ることはできない」。イエス様が、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われるとき、そこで言われているのは、「神の御前に何が正しいか」ということです。相対的な人間の正しさではなく、絶対的な神の正しさが問題とされているのです。イエス様から神の国の福音を聞いていながら、イエス様の力ある業を見ていながら、イエス様を信じる決断をしないで、群衆の一人でいることが、神の御前に正しいことであるのか。そのことを、自分で判断してほしいとイエス様は言われるのです。そのように、イエス様は、今の時を見定めて、ご自分を信じるようにと群衆を招いているのです。

 イエス様は、今の時がどのような時かを教えるために、また、何が正しいかを教えるために、一つのたとえ話をされます。今の時はどのような時か。それは、訴える人と一緒に役人のところに行くような時であるのです。そして、そのあなたが為すべき正しいことは、その途中でその人と仲直りすることであるのです。もし、裁判が始まってしまえば、あなたは法的な手続きによって、牢に投げ込まれてしまうのです。59節に、「言っておくが、最後の一レプトンを支払うまで、決してそこから出ることはできない」とあります。「一レプトン」は最小の銅貨で、一デナリオンの128分の1の価値です。日本円で分かりやすく言うと10円のことです。あなたは訴える人に、返すことのできないほどの借金をしているのです。これはたとえ話ですから、その意味を考えてみたいと思います。「あなたを訴える人」とは、神様のことです。そして、あなたが支払うべき借金とは、あなたが償うべき罪のことです。私たちは、それぞれの人生を神様と共に歩んでいますが、それは、訴える人と役人のところに向かっているようなものなのです。なぜなら、私たちは日々、神の掟に背いて、罪を犯しているからです。そのような私たちがなすべきことは、神様と途中で仲直りすることです。神様と和解するために、イエス・キリストを信じることです。神様は、イエス・キリストにあって、私たちのすべての罪を赦してくださいます。これがイエス・キリストの福音であります。神様は、私たちの罪を赦して、私たちと和解するために、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。それゆえ、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じることは、神の御前に正しいことであるのです。

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