火を投じるために来たイエス 2026年4月19日(日曜 朝の礼拝)

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火を投じるために来たイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章49節~53節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:49 「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12:50 しかし、私には受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。
12:51 あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12:52 今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。
12:53 父は子と、子は父と/母は娘と、娘は母と/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと/対立して分かれる。」ルカによる福音書 12章49節~53節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第12章49節から53節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 49節を読みます。

 私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。

 イエス様は「私が来たのは、地上に火を投じるためである」と言われます。第4章43節で、イエス様は、こう言われました。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」。イエス様は、「私が遣わされたのは、神の国の福音を告げ知らせるためである」と言われていたのです。その御言葉と重ねて、今朝の御言葉を読むならば、イエス様が投じる火とは、神の国に入ろうとする熱情の火であると言えます。イエス様は、神の国の福音を告げ知らせました。また、ご自分において神の国が到来したことのしるしとして、人々の病を癒やし、人々から悪霊を追い出しました。イエス様こそ、ソロモンの知恵にまさる知恵を持つ御方、ヨナの説教にまさる説教を語る御方であるのです。しかし、イエス様の周りの人々は、神の国を熱心に求めているわけではありません。イエス様の周りには夥しい群衆が集まっていますが、彼らは興味本位に集まって来た烏合の衆であるのです。そのような夥しい群衆を見て、「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」とイエス様は言われるのです。

 50節を読みます。

 しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。

 イエス様は、人々が神の国を熱心に求めるようになるためには、ご自分が洗礼を受けねばならないことを知っていました。イエス様が受けねばならない洗礼とは、メシアとしての苦しみのことです(マルコ10:38「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」参照)。「洗礼」とは「水に浸すこと」ですが、ここでは大水に飲み込まれるような「苦しみ」を意味しています(詩69:2、3「神よ、私を救ってください。大水が喉元にまで迫っているからです。私は深い泥沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深みに沈み/激流が私を押し流します」参照)。イエス様が受けねばならない洗礼とは、端的に言えば、十字架の苦難の死のことであります。イエス様は十字架につけられる日の前夜、オリーブ山で、こう祈られました。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)。このような苦しみがイエス様の心の内にずっとあったのです。第9章51節に、「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された」とありましたが、そのイエス様の心の内には、十字架の死を遂げることを苦しまれる思いがあったのです。

 51節から53節までを読みます。

 あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と/母は娘と、娘は母と/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと/対立して分かれる。」

 イエス様は、「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われます。「地上の平和」とは、武力によってローマ帝国の支配からイスラエルを解放することによってもたらされる平和のことです。人々は、約束のメシアを「ダビデの子」と呼んで、ダビデのように武力で異邦人を支配する王を待ち望んでいました。しかし、イエス様はそのような「地上の平和」をもたらす王ではないのです。イエス様は神との平和、神の平和をもたらす王、メシアであるのです。

 また、イエス様が「分裂をもたらすために来た」という「分裂」とは、イエス様を信じる決断によって生じる分裂のことです。このことは、私たちが以前に学んだことです。第9章57節から62節までを読みます。新約の123ページです。

 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」また別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに分かれを告げることを許してください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 以前にここから、「神の国の重大性と緊急性」という題でお話ししました。イエス・キリストにおいて到来している神の国に入ることは、父親の葬りよりも重大で緊急なことであるのです。また、家の者に別れを告げることも許されないほど、重大で緊急なことであるのです。イエス様に従う決意をした人は、不退転の覚悟をもって、イエス様に従うべきであるのです。そのような神の国にふさわしい決意が、家族という交わりに、分裂をもたらすのです。つまり、家族の中に、イエス様に従う者と従わない者が生じるのです。イエス様は、「今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と/母は娘と、娘は母と/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと/対立して分かれる」と言いました。このイエス様の御言葉の背景には、旧約の『ミカ書』の第7章の御言葉があります。旧約の1435ページです。第7章1節から7節までを読みます。

 なんと悲しいことか。私は夏の果物を集めるように/ぶどうの摘み残しの実を集める者のように/なってしまった。食べられるぶどうの房はなく/私が好む初なりのいちじくもない。忠実な人はこの地から絶え/正しい者は人々の中にはいなくなってしまった。誰もが皆、血を流そうと待ち伏せして/互いに網で捕らえようとする。その手は悪事にたけ/高官と裁判官でさえ報酬を要求する。有力者も欲のままに発言し、真実をねじ曲げる。彼らの中の最も善い者も茨のようであり/最も正しい者も茨の垣のようだ。彼らの見張り番の日/彼らの刑罰の日がやって来た。今、彼らが混乱する時だ。あなたがたは友を信じるな。親しい友も信頼してはならない。あなたの懐に安らう女からも/自らの口の戸を守れ。息子は父を侮り/娘は母と、嫁はしゅうとめと対立する。人の敵は家の中の者である。しかし、私は主を仰ぎ見/わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる。

 6節に、「息子は父を侮り/嫁は母と、嫁はしゅうとめと対立する。人の敵は家の中の者である」とあります。『ミカ書』の文脈では、もっとも親しい家族さえ信頼できないほど、民は腐敗していることを告げる御言葉であります。そして、このことは、世の終わりの有り様であると考えられていました(二テモテ3:1~5も参照)。イエス様はご自分が来られたことにより、終わりの時代が到来し、家族という親しい交わりに分裂が生じると言われたのです。自分のことを話して恐縮ですが、私も未信者の家庭で育ち、イエス・キリストを信じた者です。ここに集っている人の中にも、家族の中で、自分だけがキリスト者であるという人がおられます。イエス・キリストを信じたことによって、未信者の家族との間に分裂が生じる。時には対立する敵のようになるのです。しかし、そのような私たちに、聖書は希望に満ちた約束を与えてくれています。それが、『使徒言行録』の第16章31節の御言葉、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という御言葉です。預言者ミカも、7節でこう記しています。「しかし、私は主を仰ぎ見/わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる」。家族の者さえ信頼できない、腐敗した世にあって、ミカは、「しかし、私は主を仰ぎ見/わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる」と言うのです。私たちは、このミカのように、イエス・キリストを信じる者と信じない者という分裂した家族の中で、「主イエスを仰ぎ見、主イエスの救いが自分の家族に、もたらされることを祈りつつ、待ち望むのです」。家族の中で、自分だけがイエス・キリストを信じる決意をして、洗礼を受ける。それは、主イエスが自分の家族をも救ってくださると信じるからです。今は敵対していたとしても、未信者の家族の心を主イエスが変えてくださって、いずれはイエス様を信じるようになると期待しているからです。「自分は、自分の家族に救いをもたらす初穂として救われたのだ」。そのように信じるからこそ、家族と敵対したとしても、主イエス・キリストを信じたのです。「しかし、私は主を仰ぎ見/わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる」。このような信仰をもって、私たちは未信者の家族のために祈っているのです。そのために、自分が用いられることを祈っているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の131ページです。

 イエス様は、49節で、「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われました。先程、私は、この火を、神の国を求める熱情の火であると申しました。イエス様が、この地上を歩まれたとき、この火は燃えていませんでした。しかし、この火が燃え上がる時が来ます。それが、『使徒言行録』の第2章に記されているペンテコステの出来事です。新約の210ページです。第2章1節から4節までを読みます。

 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。

 天に昇られたイエス様は、10日の後に、弟子たちに約束の聖霊を遣わしてくださいました。聖霊は、「炎のような舌」であったと記されています。イエス様は聖霊によって、弟子たちの心に神の国を求める熱心を与えてくださったのです。そして、聖霊に満たされた弟子たちは、世界のあらゆる言葉で、神の偉大な業を語りだすのです。すなわち、イエス・キリストの福音を語りだすのです。イエス・キリストの弟子である私たちにも、聖霊という火が与えられています(一テサロニケ5:19「霊の火を消してはいけません」参照)。しかし、その火はどうでしょうか?燃えているでしょうか?それとも、消えそうでしょうか?イエス様は、私たちの姿を見て、何と言われるでしょうか?「あなたの心に聖霊の火を灯すために、私は十字架の苦しみを耐え忍んだ。そのことをもう一度よく考えてほしい」と言われるのではないでしょうか。

 イエス様は「私は分裂をもたらすために来た」と言われました。しかし、その分裂によって、イエス・キリストを信じる神の家族が生まれました。イエス様がもたらされたのは、分裂だけではありません。イエス様がもたらされたのは、神の家族の一致であります。私たちが祈り求めるのは、地上の家族が神の家族に加えられることによってもたらされる分裂を越えたところにある主イエス・キリストの平和であるのです。

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