愛の成就 2026年4月15日(水曜 聖書と祈りの会)
問い合わせ
愛の成就
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
雅歌 4章16節~5章1節
聖書の言葉
4:16 北風よ、目覚めなさい。/南風よ、吹きなさい。/私の園を吹き抜けて/その香りを振りまいてください。/愛する人が自分の園に来て/見事な実を食べますように。
5:1 私の妹、花嫁よ/自分の園に私は来ました。/私は私の没薬と香料を集め/蜜の滴る私の蜂の巣を食べ/私のぶどう酒とミルクを飲みました。/友人たちよ、食べなさい。/恋人たちよ、飲んで酔いなさい。雅歌 4章16節~5章1節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は、第3章6節から第5章1節までを輪読しました。第3章6節から第5章1節までは一つの大きな纏まりであり、今朝の第4章16節と第5章1節は、その頂点、クライマックスと言えます。第3章6節から11節には、婚礼の日のことが記されていました。若者とおとめは夫婦となったのです。夫婦となった二人は、寝床を共にする初めての夜を迎えます。第4章1節から15節までの若者の言葉は、花嫁と関係を持つ前の愛の言葉であるのです。花婿は、花嫁の体の美しさをほめて、花嫁がどれほど尊い存在であるかを語るのです。今朝の御言葉である第4章16節は、花婿の言葉を受けての花嫁の言葉です。
第4章16節を読みます。
北風よ、目覚めなさい。南風よ、吹きなさい。私の園を吹き抜けて/その香りを振りまいてください。愛する人が自分の園に来て/見事な実を食べますように。
花婿は、第4章12節で、花嫁のことを「閉じられた園」にたとえました。「私の妹、花嫁は閉じられた園。閉じられた池、封じられた泉」。花嫁は男の人を知らない処女であったのです。その花嫁が、自ら扉を開いて、「北風よ、目覚めなさい。南風よ、吹きなさい。私の園を吹き抜けて、その香りを振りまいてください」と言うのです。そのようにして、花嫁は花婿を園へと招くのです。閉じられた園である花嫁は、今や花婿の園であるのです。それゆえ、花嫁は、「愛する人が自分の園に来て、見事な実を食べますように」と言うのです。おとめはこれまで、若者とのロマンスを夢見てきました。第2章6節で、おとめはこう言っていました。「あの方が私の頭の下に左の腕を伸べ/その腕で私を抱いてくださいますように」。そのようなおとめの願いが実現しようとしているのです。
第5章1節の前半を読みます。
私の妹、花嫁よ/自分の園に私は来ました。私は私の没薬と香料を集め/蜜の滴る私の蜂の巣を食べ/私のぶどう酒とミルクを飲みました。
第5章1節の前半は、花婿の言葉です。ここで花婿は「私の」という言葉を何度も繰り返しています。「私の妹」「私の園」「私の没薬」「私の香料」「私の蜜」「私の蜂の巣」「私のぶどう酒」「私のミルク」と、「私の」という言葉を何度も繰り返すのです(新改訳2017「わが妹、花嫁よ、私は私の庭に入った。私の没薬を、私の香料とともに集め、私の蜂の巣を、私の蜂蜜とともに食べ、私のぶどう酒を、私の乳と共に飲んだ」参照)。花婿は、第4章11節で、「花嫁よ、あなたの唇は蜂蜜を滴らせ/舌の裏には蜜とミルクがある」と言いました。また、第4章14節で、花嫁を「没薬や沈香、あらゆるえりすぐりの香料」にたとえていました。その没薬も香料も、蜂蜜もミルクも花婿のものであるのです。ここには、花婿と花嫁が愛し合い、互いを心から喜び楽しんだことが記されています。『雅歌』は、香料を集めること、ぶどう酒やミルクを飲むことによって、「二人は一体となる」ことを言い表すのです(創世2:24)。
第5章1節の後半を読みます。
友人たちよ、食べなさい。恋人たちよ、飲んで酔いなさい。
第5章1節の後半の言葉が、花婿の言葉であるのか、それとも、婚礼の客である友人たちの言葉であるのかは解釈が分かれます。花婿の言葉であれば、婚礼の客である友人たちに対する言葉として読むことができます。また、婚礼の客である友人たちの言葉であれば、初夜を迎える花婿と花嫁に対する言葉として読むことができます。その場合、花婿と花嫁は、寝床をまだ共にしていないことになります。1節に「私は来ました」「私は食べました」「私は飲みました」と完了形で記されていますが、これは堅い決意を表しているのであって、まだ寝床を共にしていないのです。そのような花婿と花嫁に、婚礼の客は、「友人たちよ、食べなさい。恋人たちよ、飲んで酔いなさい」と言うのです。私は、後者の解釈の方がよいのではないかと思います。つまり、第5章1節の後半は、婚礼の客である友人たちが、花婿と花嫁に対して語っている祝福の言葉であるのです。
今朝の御言葉を読んで教えられることは、花婿と花嫁は愛し合って、結ばれたということです。互いが互いを望んで結ばれたということです。また、その過程(プロセス)も興味深いものがあります。花婿は、花嫁に愛の言葉を語り、花嫁がどれほど尊い存在であるのかを語りました。その花婿の言葉を受けて、花嫁は園の扉を自ら開いて、花婿を招き入れるのです。同じことが花婿であるイエス・キリストと花嫁である私たち教会においても言えます。「聖書は神様からのラブレターである」と言われます。イエス様は、聖書の御言葉を通して、私たちに愛の言葉を告げているのです。イエス様は、弟子である私たちを「友」と呼び、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました(ヨハネ15:13)。花婿であるイエス様は、自分の命を捨てるほどの大きな愛で私たちを愛しているのです。そして、イエス様は、私たちがイエス様の愛を受け入れて、心の扉を開くのを待っているのです。イエス様は、私たちの心の扉を叩いて、私たちが自分から心の扉を開くのを待っているのです。『ヨハネの黙示録』の第3章20節にはこう記されています。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」。私たちは、御言葉と聖霊に導かれて、心の扉を開いて、イエス様と一緒に食事をする者となりました。イエス様を信じて洗礼を受け、主の晩餐の礼典にあずかる者となりました。そのようにして、私たちは婚宴の祝福にあずかる者とされているのです。