目を覚ましている僕たち 2026年4月12日(日曜 朝の礼拝)
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目を覚ましている僕たち
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 12章35節~48節
聖書の言葉
12:35 「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。
12:36 主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえは私たちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12:42 主は言われた。「主人から、時に応じて穀物を配分するようにと、召し使いたちを任された忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか。
12:43 主人が帰って来たとき、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。
12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を任せるに違いない。
12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、男女の召し使いを叩いたり、食べたり飲んだり、酔ったりし始めるならば、
12:46 その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12:47 主人の思いを知りながらそのとおりに用意もせず、働きもしなかった僕は、ひどく叩かれる。
12:48 しかし、知らずにいて打たれるような働きをした者は、叩かれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」ルカによる福音書 12章35節~48節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第12章35節から48節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
イエス様は、弟子たちにこう言われます。35節から38節までを読みます。
「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
イエス様は、弟子たちを主人の帰りを待つ僕たちにたとえます。主人は婚礼に出かけています。婚礼は夜に行われました。僕である私たちは、主人の帰りを待っているのです。しかし、ここで一つ問題があります。それは主人がいつ帰って来るか分からないということです。主人は真夜中に帰ってくるかも知れないし、夜明けに帰ってくるかも知れないのです。さて、僕である私たちはどうするでしょうか。主人はしばらく帰って来ないとの見通しを立てて、ひと眠りするでしょうか。イエス様は、こう言われます。「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい」。腰に帯を締め、灯をともして、主人が帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けることができるように準備をしておくようにと、イエス様は言われるのです。そして、これが主人の僕として、「目を覚ましている」ということであるのです。イエス様は、目を覚ましている僕たちに、主人の方が給仕してくれると言います。「よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる」。このような主人は普通はいません(17:5~10参照)。それゆえ、私たちは、この主人がイエス様であることが分かるのです(22:27参照)。今朝の御言葉は、僕である私たちが主イエス・キリストが天から再び来られるのを、どのように待つべきかを教えています。僕である私たちは、主イエスが天から再び来られるのを、腰に帯を締め、灯をともして、すぐにお迎えできるように目を覚まして待っているべきであるのです。これは具体的には、どのようなことでしょうか?色々なことが言えると思いますが、その一つは、「私たちがキリストの教会として礼拝をささげながら待っている」ということです。私たちの教会では、毎週日曜日と毎週水曜日に、キリストの教会として集まり礼拝をささげています。礼拝において、私たちは主なる神と主イエス・キリストに心を向けて、賛美と祈りをささげています。そのようにして、私たちは主イエス・キリストをお迎えする用意をしているのです。私たちは、主人であるイエス・キリストが天から再び来られるのを、礼拝をささげながら待ち望んでいるのです。主イエス・キリストの再臨によって到来する新しい天と新しい地を、栄光の御国を待ち望んでいるのです。そのことは、私たちが礼拝の中で「主の祈り」を祈っていることにも表れています。主の祈りの「御国を来たらせたまえ」という祈りは、「主イエスよ、来たりませ」という祈りと結びついています。主イエス・キリストの再臨によって到来する新しい天と新しい地、栄光の御国において、私たちはメシアの祝宴にあずかる者となります。主人であるイエス様が、僕である私たちを食事の席に着かせて、給仕してくださることは、私たちが栄光の御国において、メシアの祝宴にあずかることを教えているのです(イザヤ25:6~10参照)。私たちが月に一度あずかる主の晩餐の礼典は、そのことを表しています。私たちがあずかる主の晩餐の礼典は、私たちが栄光の御国でメシアの祝宴にあずかることの先取り(保証)であるのです。
39節と40節を読みます。
「このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
ここで、イエス様は別のたとえを語っています。イエス様は、私たちを家の主人に、御自分を盗人にたとえます。イエス様は御自分を盗人にたとえて、思いがけないときに来ることを教えられるのです(「人の子」とはイエス様のこと)。ですから、私たちは、いつも用意していなければならないのです。私たちは、日曜日と水曜日だけではなく、毎日、聖書を読み、祈りをささげることが求められているのです(礼拝指針の第19章「個人礼拝と家庭礼拝」を参照)。ちなみに、大会の教育機関紙である『リジョイス』は「聖書日課」であり、毎日の礼拝のために発行されています。
41節から46節までを読みます。
そこでペトロが、「主よ、このたとえは私たちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人から、時に応じて穀物を配分するようにと、召し使いたちを任された忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか。主人が帰って来たとき、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を任せるに違いない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、男女の召し使いを叩いたり、食べたり飲んだり、酔ったりし始めるならば、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」
ペトロは口を挟んで、「主よ、このたとえは私たちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と尋ねます。このペトロの質問をきっかけに、主イエスは指導者たちのためのたとえをお語りになります。42節に、「主は言われた。『主人から、時に応じて穀物を配分するようにと召し使いたちを任された忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか』」と記されています。ここでの「主」と「主人」は同じ言葉(キュリオス)です。つまり、ここでの主人は主イエスであるのです。主イエスは、「主人である私から、時に応じて穀物を配分するようにと、召し使いたちを任された忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか」と言うのです。「召し使いたちを任された管理人」とは、私たちの教会で言えば、教会役員である教師、長老、執事のことです。教会の頭であるイエス・キリストは、教師、長老、執事といった教会役員を用いて、教会を統治されるのです(教会規定前文を参照)。特にここでは、御言葉の教師のことが言われているようです。といいますのも、ここでの「穀物」は霊の糧である御言葉とその解き明かしである説教のことであると解釈できるからです。御言葉の教師である牧師は、時に応じて御言葉を語るために、イエス様の僕たちを任された管理人であるのです。「時に応じて」とは具体的に言えば、「教会としてささげる礼拝の時に応じて」ということです。私たちの教会では、毎週日曜日の午前に、「主の日の礼拝」をささげています。また、毎週水曜日の午前に「聖書と祈りの会」を行っています。また、毎週水曜日の夜にオンラインで「教理を学ぶ会」を行っています。また、月に一度、第二主日の午後に、「夕べの礼拝」をささげています。その礼拝において、御言葉の糧を、信徒の皆さんに配分することが、牧師としての私のおもな働きであるのです。しかも、そのことを主人であるイエス様に対して忠実に、また賢く行わなければならないのです。忠実に、賢く、主人の穀物を配分するとは、どういうことでしょうか。「忠実に」とは、主人である主イエスに忠実にということです。御言葉の教師には、主イエス・キリストの御言葉を忠実に語ることが求められるのです。では、「賢く」はどうでしょうか。これについては色々なことが言えると思いますが、その一つに、主の日の礼拝と夕べの礼拝で語った説教の音声と原稿をインターネットのホームページで公開していることがあります。また、水曜日の「聖書と祈りの会」でお話しした奨励の音声と原稿もホームページで公開しています。さらには、水曜日の夜の「教理を学ぶ会」でお話ししたウェストミンスター小教理問答の解説の原稿も公開しています。さまざまな事情で礼拝に集うことのできない人にも、インターネットを通して、御言葉の糧を配分しているのです。これは一つの賢さであると思います。
教会の頭であるイエス・キリストによって立てられ、主に忠実に、賢く働いている教会役員は、主イエス・キリストが再び来られる日に、大きな報いを受けます。主イエス・キリストは、彼らに全財産を任せられるのです。しかし、もし、教会役員が主イエスの帰りは遅れると思い、任せられている僕たちをぞんざいに扱うのであれば、主イエスは思いもよらない日に帰って来て、教会役員を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせるのです。ここで「厳しく罰し」と訳されている言葉は直訳すると「二つに裂く」となります。また、「不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」とは、栄光の御国に入ることができず、暗闇で泣き叫んだり、歯ぎしりするようになるということです(マタイ25:30参照)。教会役員は、主イエス・キリストから大切な働きを委ねられているゆえに、その働きを忠実に成し遂げるならば大きな報いを受けます。しかし、その働きをいいかげんに行うならば、厳しい罰を受けることになるのです。そのことを、イエス様は、47節と48節で教えています。
「主人の思いを知りながらそのとおりに用意もせず、働きもしなかった僕は、ひどく叩かれる。しかし、知らずにいて打たれるような働きをした者は、叩かれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」
これは、教会役員、特に、私のような御言葉の教師への警告の言葉です(ヤコブ3:1参照)。また、教会役員だけに限られない、すべての信徒に対する警告の言葉です。なぜなら、すべての信徒は、牧師から御言葉の配分を受けて、主人であるイエス・キリストの思いを知る者とされているからです。では、主イエス・キリストの思いとは何でしょうか?それは、すべての人が、イエス・キリストを信じて、神の救いにあずかることです。十字架の死から復活された主イエス・キリストは、弟子たちにこう言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。主人であるイエス・キリストの思いとは、すべての人を御自分の弟子にすることであるのです。それゆえ、主イエス・キリストの僕である私たちの働きとは、福音宣教と教会形成であるのです。
私たちは、主イエス・キリストが天から再び来られることをしばしば忘れてしまいます。私たちは、自分が生きているうちに、主イエス・キリストは来ないと考えてしまうのです。2000年近く、来ていないのだから、自分が生きているうちにも来ないであろうと考えてしまうのです。そのようにして、私たちは眠り込んでしまうのです。あるいは、自分が主人であるかのように振る舞ってしまうのです。しかし、今朝、天におられるイエス・キリストは、私たちに、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と言われます。また、「主人から、時に応じて穀物を配分するようにと、召し使いたちを任された忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか」と問いかけるのです。私たちは、主人であるイエス・キリストの思いを知っている僕たちとして、目を覚まして、福音宣教と教会形成に励んでいきたいと願います。