神の国を求めなさい 2026年3月15日(日曜 朝の礼拝)

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神の国を求めなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章22節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:22 イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと、思い煩うな。
12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりもどれほど優れた者であることか。
12:25 あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
12:26 こんな小さなことさえできないのに、なぜ、ほかのことまで思い煩うのか。
12:27 野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
12:29 だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな。
12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ルカによる福音書 12章22節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 前回お話ししたことですが、イエス様は、弟子たちと群衆に、「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によらないからである」と言われました。そして、そのことを教えるために、イエス様は「愚かな金持ちのたとえ」をお語りになったのです。私たちが所有しているもの、命さえも、神様からのあずかりものであり、神様が返還を要求するならば、取り上げられてしまうのです。そのことを心に留めて、私たちは自分のために富を積むのではなく、神様のために富を用いなければならないのです。神のために富を用いること、神の御心に適ったことのために富を用いることこそ、「神のために豊かになる」ことであるのです。今朝の御言葉はその続きとなります。

 イエス様は、弟子たちにこう言います。22節と23節。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと、思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。イエス様は、「だから、言っておく」と言われます。これは、「人の命は財産によらないのだから、言っておく」という意味です。イエス様は、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと、思い煩うな」と言われます。「思い煩う」とは「いろいろと考え苦しむ。思いなやむ」ことを意味します。「食べ物と着る物」は生きていくために必要不可欠なものです。それが手に入らないとしたら、思い煩ってしまいます。しかし、イエス様は、「思い煩うな」と言われます。なぜなら、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だからである」と言われるのです。「大切な命を与えてくださった神様は、その命を保つための食べ物を与えてくださるに違いない。大切な体を与えてくださった神様は、その体を装い、守るための衣服を与えてくださるに違いない」と言うのです。

 また、イエス様はこう言います。24節。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりもどれほど優れた者であることか」。イエス様は、私たちの心を「カラス」へと向けさせます。カラスは、モーセの律法によれば、食べてはならない忌むべき鳥でした(レビ11:15参照)。カラスは、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持っていません。しかし、神様はカラスを養ってくださっています(詩147:9参照)。そうであれば、神のかたちに似せて造られた人間である私たちを、神様が養ってくださらないはずがないのです。

 また、イエス様はこう言います。25節と26節。「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも伸ばすことができようか。こんな小さなことさえできないのに、なぜ、ほかのことまで思い煩うのか」。私たちは健康管理によって寿命を伸ばすことができるかも知れません(適度な運動や栄養のバランスの良い食事や十分な睡眠など)。しかし、思い煩ったからと言って、寿命を僅かでも伸ばすことはできないのです。それゆえ、思い煩うことは無駄なこと、無益なことであるのです。むしろ、思い煩うことは、私たちの命を損なってしまうのです。

 また、イエス様はこう言います。27節と28節。「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」。イエス様は、私たちの心を「野の花」へと向けさせます。綺麗に咲いている野の花を見て、イエス様は、神様が装ってくださっていると言われます。そして、そこに栄華を極めたソロモンにまさる装いを見ておられるのです。神様は、今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草をも美しく装ってくださいます。そうであれば、あなたがたに衣服を与えて、装ってくださらないはずがないと言うのです。イエス様は、「信仰の薄い者たちよ」と言われます。「あなたがたが思い煩うのは、信仰が薄いからだ」と言われるのです。ここでの信仰は、神様がすべてのものを造り、すべてのものを養っておられるという信仰です。ウェストミンスター小教理問答の言葉で言えば、神の創造と摂理の御業を信じる信仰のことです。あるいは、使徒信条の言葉で言えば、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰のことです。そのような信仰が薄いので、私たちは思い煩ってしまうのです。

 また、イエス様はこう言います。29節と30節。「だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。これは、まとめの言葉であると言えます。イエス様は、これまで、思い煩わなくてよい根拠を挙げてきました。神様は命を与えてくださったのだから、命を保つための食べ物を与えてくださらないはずがない。神様は体を与えてくださったのだから、体を装い、守るための衣服を与えてくださらないはずがない。カラスを養ってくださる神様は、あなたを養ってくださらないはずがない。野の花を美しく装ってくださる神様は、あなたを装ってくださらないはずがない。だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むなとイエス様は言われます。「あくせく」とは、「何かに追われてでもいるかのように、精神的なゆとりも無く、働き続ける様子」を意味します。私たちは、食べ物や飲み物を得るために、働かなくてはなりませんが、あくせく働く必要はないのです(詩104:14、23参照)。また、思い悩みながら働く必要もないのです。なぜなら、私たちの父なる神は、食べ物や飲み物が私たちに必要なことをご存じであるからです。父なる神は、私たちの手の働きを祝福してくださり、その働きを通して、食べ物や飲み物を与えてくださるのです。しかし、「世の異邦人」、イエス様を信じていない人はそうではありません。彼らは父なる神を持たない孤児(みなしご)であるので、食べ物や飲み物のことであくせくし、思い悩んでしまうのです。イエス・キリストにあって、神の子とされた私たち、父なる神を持つ私たちに、イエス様は31節でこう言います。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる」。「神の国」とありますが、元の言葉では「彼の王国」と記されています。「彼」とは「あなたがたの父」のことです。私たちが求めるべきは、食べ物や飲み物ではなく、第一に、父なる神の王国、父なる神の王的な支配であるのです。イエス様は、私たちが父なる神の王国を求めるならば、生活に必要なものは添えて与えられると言います。ここで私たちが思い起こすべきは、イエス様が教えてくださった「主の祈り」です。新約の126ページです。第11章1節から4節までをお読みします。

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ/御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください。』」

 主の祈りは、父なる神のための祈りと私たちのための祈りの大きく二つに分けることができます。イエス様の弟子である私たちは、第一に、父なる神のために祈るべきであるのです。イエス様は、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる」と言われましたが、これは第2の願いと第3の願いのことを言っているわけです。父なる神の王国が来ますようにと願う私たちに、神様は日ごとの糧を毎日与えてくださるのです。父なる神の国を求めるとは、「主の祈り」を祈ることと密接に結びついているのです(マタイ6:10と6:33も参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の130ページです。

 イエス様は、32節でこう言います。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。神の国とは、父なる神の御心が行われる王国であり、最高の祝福であります。イエス様は、私たちに、「ただ、神の国を求めなさい」と言われましたが、それは与えられるかどうか分からないものではありません。父なる神は喜んで、私たちに神の国をくださるのです。ですから、私たちは小さな群れであっても、恐れてはならないのです。

 「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。このイエス様の御言葉の背景には、『ダニエル書』の第7章に記されている「人の子」についての預言があります。旧約の1373ページです。第7章13節と14節をお読みします。

 私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ/諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては/この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく/その統治は滅びることがない。

 イエス様は、最高法院での裁判において、御自分こそ、神様から王権を受ける人の子であると言われました。また、復活されたイエス様は、「私は天と地の一切の権能を授かっている」と言われました(マタイ28:18)。その背後には、イエス様が神様から支配権、栄誉、王権が与えられたことがあるのです。

 飛んで27節をお読みします。

 「王国と支配権、天の下の国々の権威は/いと高き方の聖なる民に与えられる。その王国は永遠の王国であり/すべての支配者は彼らに仕え、服従する。」

 ここでは、王国と支配権が与えられるのは、「いと高き方の聖なる民」と記されています。13節と14節では、「人の子のような者」に支配権、栄誉、王権が与えられますが、27節では、「いと高き方の聖なる民」に王国と支配権と権威が与えられます。このことは、人の子であるイエス様を信じる者たちこそ、神の民であることを教えています。それゆえ、イエス様は、弟子である私たちに、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。130ページです。

 イエス様は、33節と34節で、こう言います。「自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。この御言葉は、前回学んだ「愚かな金持ちのたとえ」を背景にしています。愚かな金持ちは、財産によって命を確保することができると考えて、自分のために富を積みました。しかし、イエス様は、「自分の財産を売って施しなさい」と言われるのです。貧しい人々に施すことは、父なる神の御心に適ったことであるからです。父なる神は、私たちの施しを用いて、貧しい人々を養ってくださるからです。貧しい人々に施しをすること。それは天に宝を積むことであるのです。前回もお話ししましたが、これが「神のために豊かになる」ということであるのです。私たちは地上に富を積むことばかりを考えてしまいます。しかし、イエス様は、弟子である私たちに神様のために富を用いて、天に富を積みなさいと言われるのです。そのようにして、私たちの心を天の報いへと向けさせるのです。私たちが地上の富に捕らわれずに、天に心を向けて生きるにはどうすればよいのか。イエス様は、神様のために富を用いることによって、宝を天に積めばよいと言われるのです。私たちは、それぞれの収入の中から献金をささげています。それはまさしく、宝を天に積むことであるのです。そして、このことは、「父なる神の王国を求める」ことと一体的な関係にあるのです。私たちは父なる神の王国を求める者として、主の日ごとに礼拝に出席し、献金をささげているのです。そのようにして、私たちは心を天に向けて、思い煩いから解放されているのです。

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