神のために豊かになる 2026年3月08日(日曜 朝の礼拝)

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神のために豊かになる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章13節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:13 群衆の一人が言った。「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、群衆に向かって言われた。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
12:16 そこで、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、
12:19 自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』
12:20 しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』
12:21 自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」ルカによる福音書 12章13節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第12章13節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 群衆の一人が、イエス様にこう言います。「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。モーセの律法によると、長男は2倍の分け前を受けることになっていました(申命21:17参照)。この人はおそらく弟だったのでしょう。長男が父親の遺産を独り占めにして、弟である自分に分けてくれない。それで、この人は、イエス様に、「先生、私に遺産を分けてくれるように兄に言ってください」と願い出たのです。旧約の律法はユダヤの国の法律であり、そこには刑事法や民事法も含まれています。ですから、この人は、イエス様を律法学者(今で言うと弁護士)と見なして、このようなお願いをしたのです。けれども、イエス様はその人にこう言われます。「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。このようにイエス様は、その人の願いを退けられたのです。イエス様はそのような民事訴訟に関わるために来たのではなく、神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされたからです(ルカ4:43参照)。イエス様は、その人の願いをきっかけとして、弟子たちと群衆に、貪欲に気をつけるようにと教えられます。15節に、「群衆に向かって言われた」とありますが、元の言葉では「彼らに向かって言われた」と記されています。「彼ら」とは「弟子たちと群衆」のことです。イエス様は、弟子たちと群衆に、向かってこう言われます。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである」。「貪欲」という言葉を国語辞典で引くと、「欲しがって飽くことを知らないこと」と記されています(明鏡国語辞典)。貪欲と訳される言葉(プレオネクシアス)の元々の意味は「より多く持つ」という意味です。現状に満足せず、より多くのものを持ちたいという欲望、それが貪欲であるのです。十戒の第十の戒めは、「あなたは貪ってはならない」ですが、この戒めは貪欲を禁じる戒めであると言えます。イエス様は、「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい」と言われます。この貪欲は、先程の人の願いで言えば、遺産を分けて欲しいという願いであり、遺産があればこれからの人生は安泰であるという思いですね。しかし、イエス様は、「有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである」と言うのです。そして、このことを教えるために、たとえ話をされるのです。

 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか』」。

 聖書協会共同訳は省略していますが、元の言葉には何度も「私の」という言葉(ムウ)が記されています。17節に「作物をしまっておく場所がない」とありますが、元の言葉では「私の作物をしまって置く場所がない」と記されています。また、18節に「倉を壊し」とありますが、元の言葉では「私の倉を壊し」と記されています。同じく18節に「そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで」とありますが、元の言葉では「そこに私の穀物や蓄えを全部しまい込んで」と記されています。また19節に「自分の魂にこう言ってやるのだ」とありますが、元の言葉では「私の魂にこう言ってやるのだ」と記されています。金持ちは「私の作物」「私の倉」「私の穀物や蓄え」「私の魂」と、自分の所有権を繰り返し主張しているのです。金持ちは、自分の魂に、こう言います。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ、安心して、食べて飲んで楽しめ」。しかし、神様はその人にこう言います。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか」。神様は金持ちに「愚かな者よ」と言われます。聖書において「愚かな者」とは、心の中で「神などいない」と言う者です(詩14:1「愚かな者は心の中で言う/「神などいない」と」参照)。この金持ちもユダヤ人ですから、天地万物を造り、治めておられる神様を信じていたはずです。しかし、実生活においては、神などいないかのように考え、振る舞っていたのです(実践的無神論)。金持ちは、畑の豊作を前にして、自分の作物を自分のためだけに蓄えました。金持ちは、自分の蓄えによって安定した豊かな生活を送ることができると考えたのです。この金持ちは、この世の基準で判断すれば、賢かったとも言えます。この先の自分の生活のことを考えて、うまく立ちまわったわけです。しかし、神の基準からすれば、「愚かな者」であったのです。金持ちは、豊作をもたらした神様に感謝して、作物を貧しい人たちに分け与えようとはしませんでした。金持ちは自分の作物を自分のためだけに蓄えたのです。そして、その蓄えによって、これからの人生を確保できると考えたのです。しかし、神様は「今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか」と言われます。神様は「お前の魂」と言いますが、これは皮肉、アイロニーです。といいますのも、ここで「取り上げられる」と訳されている言葉は、「返還を要求される」とも訳せるからです。私たちが所有している財産、私たちの魂さえも神様からのあずかり物であるのです。ですから、私たちは世の終わりに、神様からあずかった物をどのように用いたかを問われることになるのです。金持ちは神様からあずかった豊かな作物を、神様に感謝して、神の御心に従って用いることをしませんでした。金持ちは豊かな作物を貧しい人々に分け与えることなく、自分のためだけに蓄えたのです。金持ちは、自分の魂が神様からのあずかりものであり、今夜取り上げられるとは夢にも思っていなかったのです。神様は、「お前が用意したものは、一体、誰のものになるのか」と問われます。確かなことは、金持ちのものにはならないということです。なぜなら、「母の胎から出て来たように/人は裸で帰って行く」からです(コヘレト5:14)。人は死ぬときに財産を携えて行くことはできないのです。

 イエス様はたとえ話の締めくくりとして、21節でこう言われます。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ」。イエス様は、「自分のために、この地上に富を積んでも、結局は、他の人に渡すことになる」と言われます。これと同じようなことを知恵の教師であるコヘレトも語っています。旧約の1021ページです。『コヘレトの言葉』の第2章18節から26節までをお読みします。

 私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦をいとう。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ。その者が知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう。太陽の下で私が知恵を尽くして労したすべての労苦をその者が支配する。これもまた空である。私は顧み、太陽の下でなされたすべての労苦に、心は絶望した。知恵と知識と才を尽くして労苦した人が、労苦しなかった人にその受ける分を譲らなければならない。これもまた空であり、大いにつらいことである。太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は休まることがない。これもまた空である。食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。これ以外に人に幸せはない。それもまた、神の手から与えられるものと分かった。この私の他に誰が食べ、誰が楽しむというのだろうか。なぜなら、神は御心に適う人に知恵と知識と喜びを与える。しかし、罪人には集め、積み上げることを務めとし、それを御心に適う人に与えてしまうからだ。これもまた空であり、風を追うようなことである。

 21節で、コヘレトは、知恵と知識と才を尽くして労苦して富を築いても、労苦しなかった人に譲らなければならないことは空しいこと、大いにつらいことだと言います。そして、24節で、いわゆる幸福論を語るのです。「食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。これ以外に人に幸せはない。それもまた、神の手から与えられるものと分かった」。コヘレトは労苦の実りとして、食べて、飲むことに幸せを見いだします。イエス様のたとえ話に出てきた愚かな金持ちも、「食べて飲み楽しめ」と言いました。しかし、コヘレトが愚かな金持ちと決定的に違う点は、コヘレトが神の手から与えられるものとして、飲み食いを楽しんでいるということです。愚かな金持ちは、神様を抜きにした飲み食いを楽しもうとしました。しかし、コヘレトが楽しむのは神の賜物としての飲み食いであるのです。

 26節で、コヘレトは、「罪人には集め、積み上げることを務めとし、それを御心に適う人に与えてしまう」と言います。神様は、愚かな金持ちに、「お前が用意したものは、一体誰のものになるのか」と問いました。その答えは、コヘレトによれば、「神の御心に適った人のものになる」のです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の130ページです。

 21節をもう一度お読みします。

 「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

 「神のために豊かになる」とは、どのようなことでしょうか。それは、一言で言えば、「神様のために富を用いる」「神の御心に適うことのために用いる」ということです。その具体例が、次回学ぶことになる33節と34節に記されています。「自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。神のために豊かになるとは、貧しい人々に施しをして、天に宝を積むことであるのです。旧約の『箴言』の第19章17節にこう記されています。「弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること。主はその行いに報いてくださる」。このような御言葉を背景にして、イエス様は、「弱い人に施すことは、天に宝を積むことである」と言うのです。そして、この天の宝は、盗まれることも、虫に食い荒らされることもありません。神様は、弱い人に施す人を祝福し、長寿を与えてくださるのです。旧約の『申命記』の第15章10節と11節にこう記されています。「彼に惜しみなく与えなさい。与えるときに惜しんではならない。そのことで、あなたの神、主は、あなたのすべての働きとあなたのすべての手の業を祝福してくださる。この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい」。この主の御言葉を、愚かな金持ちも知っていたはずです。しかし、彼は貧しい者に手を大きく開くことはしませんでした。神様から豊かな作物をあずけられていながら、それを貧しい人々のためではなく、自分だけのために用いようとしたのです。ですから、神様は、愚かな金持ちに、魂の返還を要求されたのです。そして、神様は金持ちが用意したものを、御心に適う人、貧しい者に手を大きく広げる人に渡されるのです。

 今朝の御言葉は、人の命は財産によると考えてしまう私たちに対する警告であります。私たちは、健康はお金では買えないことを知っています。しかし、生きていくためにはお金がかかることも知っています。私たちの魂は今夜取り上げられるかもしれません。しかし、20年後かもしれません。いつ自分の魂が取り上げられるのか分からない。ですから、私たちは自分のために蓄えるのです。このように考えると、愚かな金持ちと私たちはとても近いのです。イエス様は、荒れ野の誘惑において、「人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言われました(マタイ4:4)。私たちにすべてのものを与えて、私たちを生かしてくださっているのは神様です。私たちが自分のものであると主張している財産も神様のものです。私たちの命さえも究極的には神様のものです(一コリント4:7参照)。そのことを本当に知るとき、私たちは、神様からあずかっているものを、神の御心に適って用いることができるようになるのです。神様に感謝して、食べ、飲み、楽しむことができるようになる。神様のために献金をささげることができるようになる。神の憐れみ業として貧しい人々に施すことができるようになるのです。そのようにして、私たちは神のために豊かになりたいと願います。

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