イエスを認める者 2026年3月01日(日曜 朝の礼拝)

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イエスを認める者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。
12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはない。
12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな。
12:5 誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。
12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」
12:8 「言っておくが、誰でも人々の前で私を認める者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を認める。
12:9 しかし、人々の前で私を拒む者は、神の天使たちの前で拒まれる。
12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
12:11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。
12:12 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」ルカによる福音書 12章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第12章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」とあります。イエス様のもとに夥しい群衆が集まって来て、ひしめき合っていたのです。その群衆を意識しつつ、イエス様は、まず弟子たちに話し始められました。イエス様は、群衆がいる前で、公に、弟子たちに教えられたのです。「イエスは、まず弟子たちに話し始められた」とありますが、イエス様の弟子たちへの教えは53節まで続きます。54節に、「イエスはまた群衆にも言われた」とあるように、54節から第13章9節までに、群衆への教えが記されています。このように、第12章1節から第13章9節までは、イエス様の教えが記されている一つの大きなまとまりであるのです。

 イエス様は、弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい」と言われます。第11章37節から44節において、イエス様はファリサイ派の人々を非難しました。ファリサイ派の人々の特徴を一言で言うと「偽善」であるのです。「偽善」という言葉を国語辞典で調べるとこう記されていました。「うわべを飾って、心や行いが正しいように見せかけること」(新明解国語辞典)。「偽善」と訳されている言葉(ヒュポクリシス)は、「役を演じること」を意味します。ファリサイ派の人々は、内側は強欲と悪意で満ちているにもかかわらず、外側だけをきれいにしていました。彼らは心を見る神様のことは忘れて、人の目に自分がどのように映るかばかりを気にして、信心深い者を演じていたのです。また、ファリサイ派の人々は、公正と神への愛をないがしろにしていながら、十分の一の献げ物を几帳面にささげることによって、信心深い者を演じていたのです。ファリサイ派の人々が重んじていたのは、人々から自分が重んじられることであったのです。そのような宗教的な演技、偽善は、人の目につかない墓のように、人々を神様との交わりから遠ざけてしまうのです。それゆえ、イエス様は、「あなたがたファリサイ派の人々は災いである」と言われたのです。

 イエス様は、弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われました。「パン種」とは「発酵したパン生地の一部を取って、次のパンのために保存したもの」を言います。パン種には、パンを膨らませるイースト菌が入っているのです。パン種は少しでも、パン全体を膨らませます。そのように、ファリサイ派の人々の偽善は、民衆全体に大きな影響を与えるのです。しかも、悪い影響を与えるのです。その影響力からイエス様の弟子である私たちも無関係ではないのです。イエス様の弟子である私たちも、自分が信心深い者であるかのように演じてしまう危険があるのです。ですから、イエス様は、「ファリサイ派の人々のパン種である偽善に注意しなさい」と言われるのです。

 なぜ、イエス様は「偽善に注意しなさい」と言われるのでしょうか。それは、偽善、宗教的な演技が、心を見られる神様には通用しないからです。2節と3節で、イエス様はこう言われます。「覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。ここでは、神の裁き、いわゆる最後の審判のことが言われているようです。神の裁きの場においては、すべてのものがあらわになる。私たちの秘めた思いも知られてしまう。暗闇で言った言葉も明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいた言葉も屋根の上で言い広められる。そのような神の裁きの場において、偽善、宗教的な演技は、一切通用しません。それゆえ、私たちは、偽善に注意しなければならないのです。積極的に言えば、心を見る神様、すべてのことを知っておられる神の御前に、誠実に生きなければならないのです。神の御前に、自分は罪人であると認めて、神様が遣わしてくださった救い主、イエス・キリストに依り頼んで生きること。それが、神の御前に誠実に生きることであるのです。

 4節と5節をお読みします。

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな。誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

 イエス様は、弟子である私たちを「友人」と呼びます。そして、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」と言われるのです。このイエス様の御言葉は、弟子たちが迫害を受けることを前提にしています。イエス様は、第11章49節で、こう言われていました。「それゆえ、神の知恵もこう言っている。『私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はそのうちのある者を殺し、ある者を迫害する』」。ここでの「神の知恵」はイエス様ご自身のことです。イエス様は、ご自分の弟子たちが人々から殺され、迫害されることを予告していたのです。その迫害の予告を引き継ぐように、イエス様は、「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」と言われるのです。そして、私たちが誰を恐れるべきかを教えられるのです。それは、殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っている方、裁き主である神様であるのです。このイエス様の御言葉の前提にあるのは、人間は体と魂からなっており、人間の命は体の死をもって終わるのではないということです。人間は体を殺すことはできても、魂に対しては何もできません。しかし、神様は体を殺した後で、その魂をゲヘナに投げ込む権威を持っているのです。「ゲヘナ」とは、元々はエルサレムの南にあった「ヒノムの谷」(ゲー・ヒノム)のことです。かつてヒノムの谷で、人々はモレク神に幼児を火で焼いてささげていました(列王下23:10参照)。そのことに由来して、ゲヘナは、罪人が死後、火で焼かれて永遠の刑罰を受ける「地獄」を意味するようになったのです(新共同訳参照)。イエス様は、弟子である私たちを「友」と呼び、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない人間を恐れるのではなく、殺した後で、その魂をゲヘナに投げ込む権威を持つ神様を恐れなさい」と言います。それは、私たちが人間を恐れて、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまわないようにするためです。私たちがイエス・キリストへの信仰に留まって、天国に入るためであるのです。

 6節と7節をお読みします。

 「五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」

 イエス様は、一羽では値段がつかない雀であっても、神の前で忘れられていないと言われます。そうであれば、イエス様の弟子であり、友であるあなたがたは、なおさらであると言うのです。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。それほどまでに、神様は、イエス様の弟子である私たちを知っていてくださる。それゆえ、恐れることはない。あなたがたはたくさんの雀よりも優れた者であるとイエス様は言うのです。5節で、「この方を恐れなさい」と言われたイエス様が、7節では「恐れることはない」と言われます。このことは、私たちに、神を恐れるときに、人間を恐れることから解放されることを教えています。私たちが恐れる神様は、私たちに対して多大な関心を持ち、私たちを決して忘れることのない父なる神であるのです。

 8節と9節をお読みします。

 「言っておくが、誰でも人々の前で私を認める者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、神の天使たちの前で拒まれる。」

 ここでも、弟子たちが迫害を受けることが前提になっています。江戸時代に、キリシタンは迫害を受けました。踏み絵を踏むことによって、さらにはイエス様を呪う言葉を口にしてして、信仰を棄てるように強制されました。そのようなことを想像したら分かりやすいと思います。4節の御言葉と合わせて考えるならば、「イエス・キリストを拒まないのであれば、命の保証はない」と言った迫害が想定されているのです。そのような状況において、イエス様は、「言っておくが、誰でも人々の前で私を認める者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、神の天使たちの前で拒まれる」と言うのです。ここで「認める」と訳されている言葉(ホモロゲオー)は「同じことを言う」「信仰を告白する」という意味です。私たちにとって、イエス様を認めるとは、イエス様が神の御子であり、罪人の救い主であることを告白することであるのです。私たちは、成人洗礼式で、あるいは信仰告白式で、「主イエス・キリストは神の御子であり、罪人の救い主である」と告白しました。そして、今もそのことを認めて、イエス様を礼拝しているのです。その私たちが迫害する人々の前でイエス様を認めるならば、イエス様も神の天使たちの前で、私たちを認めてくださる。しかし、私たちが自分たちを迫害する人々の前でイエス様を拒むならば、イエス様も神の天使たちの前で私たちを拒まれると言うのです。私たちがイエス様を認めるか、拒むかに、私たちがイエス様から認められるか、拒まれるかが掛かっている。ですから、私たちは人間を恐れて、イエス様を拒んではならないのです。これも一つの偽善と言えます。ただし、ここでの偽善は、イエス様を信じているのに、信じていないかのように演じる偽善です。私たちが神様ではなく人間を恐れるとき、私たちはイエス・キリストを信じる者でありながら、まるで信じていないかのように演じてしまうのです。そのように聞くと、私たちの心を見る神様は、私たちが口ではイエス様を拒んでも、心ではイエス様を認めていることをご存じで、大目に見てくれるのではないかと期待するかも知れません。しかし、そうではないようです。10節から12節までをお読みします。

 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」

 「人の子の悪口を言う者」とは、イエス様を信じていないで、イエス様の悪口を言う人のことです。イエス様を信じていないで、イエス様の悪口を言う人は赦される。しかし、聖霊のお働きによって、「イエスは主である」と告白した者が、イエス様を拒むのであれば、その人は聖霊を冒涜する者であり、赦されないのです(ヘブライ6:4~7参照)。私たちは、イエス・キリストへの信仰が究極的には、聖霊の御業であると信じています。イエス様は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました(ヨハネ6:29)。また、使徒パウロは、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」と記しました(一コリント12:3)。私たちが「主イエス・キリストは神の御子、罪人の救い主である」と告白できるのは、私たちの内に聖霊が働いてくださったからであるのです。その私たちが、人々の前でイエス様を拒むことは、聖霊の導きを拒むことであり、聖霊を冒涜する罪であるのです。むしろ、私たちは、迫害の中にあるときにこそ、聖霊に依り頼み、聖霊の導きに従うべきであるのです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストがそのような御方であるからです。イエス様は、ユダヤの最高法院によって、また、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれました。しかし、イエス様は、人間ではなく神様を恐れて、髪の毛までも一本残らず数えている神様に依り頼んで、ご自分を否むことはしませんでした。イエス様は、聖霊の導きに従って、ご自分が『ダニエル書』が預言する栄光の人の子であると大胆に宣言されたのです(マルコ14:62参照)。そして、それは私たちをご自分がおられる天国に入れるためであったのです。イエス様は、弟子である私たちを「友人」「友」と呼ばれました。『ヨハネによる福音書』の第15章で、イエス様はこう言われます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」。イエス様が私たちを友と呼ばれるとき、そこにはイエス様のこれ以上ない大きな愛があります。イエス様を拒むとは、イエス様のこれ以上ない大きな愛を拒むことです。聖霊を冒涜する罪とは、聖霊によって与えられているイエス様との愛の交わりを自ら断ち切ってしまう罪であるのです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章で、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない」と高らかに歌いました。しかし、私たちが聖霊の証しに逆らって、イエス様を拒むならば、私たちは、自らを神の愛から引き離してしまうのです。そうならないように、私たちは、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きたいと願います(ヨハネ14:16参照)。

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