私を元気づけてください 2026年2月25日(水曜 聖書と祈りの会)

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私を元気づけてください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 2章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 私はシャロンのばら、谷間の百合。
2:2 娘たちの中で/私の恋人はあざみの茂みに咲く百合のよう。
2:3 若者たちの中で、私の愛する人は/森の木々に囲まれたりんごの木のようです。/私はその木陰を慕って座ります。/その果実は私の口に甘いのです。
2:4 あの方は私をぶどう酒の館に誘いました。/私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけてください。/りんごで私を元気づけてください。/私は愛に病んでいます。
2:6 あの方が私の頭の下に左の腕を伸べ/その右腕で私を抱いてくださいますように。
2:7 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。雅歌 2章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、『讃美歌』の512番をご一緒に歌いました。1節にこう記されていました。

 わがたましいの したいまつる イエス君のうるわしさよ、あしたの星か、谷のゆりか、なにになぞらえてうたわん、なやめるときの わがなぐさめ、さびしき日のわがとも、きみは谷のゆり、あしたのほし、うつし世にたぐいもなし

 この讃美歌は『雅歌』の第2章1節に基づいています。第2章1節に、「私はシャロンのばら、谷間の百合」とあります。聖書協会共同訳の小見出しによれば、第2章1節は、「おとめ」の言葉です。そのおとめの言葉を、『讃美歌』の512番では、イエス様に当てはめて歌っているのです。残念ながら、『讃美歌21』には載っていませんが、私たちは『讃美歌』の512番が『雅歌』に基づく讃美歌であることを覚えておきたいと思います。

 今朝は、『雅歌』の第2章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節をお読みします。

 私はシャロンのばら、谷間の百合。

 「シャロン」とは、地中海沿岸のヤッファより北、カルメル山より南に広がる平原のことです(聖書地図4参照)。おとめは自分を、平原に咲くばらにたとえます。また、谷間に咲く百合にたとえます。おとめは第1章5節で、「私は黒いけれども愛らしい」と言っていました(新共同訳)。おとめは自分の美しさを知っているのです。若くて美しいおとめは、まさに、シャロンのばら、谷間のゆりであるのです。

 2節をお読みします。

 娘たちの中で/私の恋人はあざみの茂みに咲く百合のよう。

 2節は「若者」の言葉です。この若者の言葉は、おとめの言葉を受けてのものです。おとめは、自分のことをシャロンの平原に咲くたくさんのばらの一つに、また、谷間に咲くたくさんの百合の一つにたとえました。しかし、おとめを愛する若者にとって、おとめは、たくさんの百合の一つではなく、ただ一つの百合であるのです。おとめを愛する若者にとって、他のむすめたちはあざみであり、自分の恋人だけが百合であるのです。

 3節から6節までをお読みします。

 若者たちの中で、私の愛する人は/森の木々に囲まれたりんごの木のようです。私はその木陰を慕って座ります。その果実は私の口に甘いのです。あの方は私をぶどう酒の館に誘いました。私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。干しぶどうの菓子で私を元気づけてください。りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいます。あの方が私の頭の下に左の腕を伸べ/その右腕で私を抱いてくださいますように。

 3節から6節までは「おとめ」の言葉です。このおとめの言葉も、2節の若者の言葉を受けてのものです。2節で、若者は、「娘たちの中で/私の恋人はあざみの茂みに咲く百合のよう」と言いました。それを受けて、おとめは、「若者たちの中で、私の愛する人は、森の木々に囲まれたりんごの木のようです」と言うのです。おとめにとって、愛する人は他の若者とは違う、特別な存在であるのです。愛する人をりんごの木にたとえたおとめは、その木陰に座り、その果実をほおばることを夢見ます。ここに記されていることが、実際に起ったことなのか、それともおとめが夢見ていることなのかについては解釈が分かれます。私は、この時点では、二人はまだ結婚しておらず、二人は一体となるという神秘を夢見ているのだと思います。3節後半から4節までの御言葉、「私はその木陰を慕って座ります。その果実は私の口に甘いのです。あの方は私をぶどう酒の館に誘いました。私の上にたなびくあの方の旗印は愛です」という御言葉は、おとめが思い描く願望であるのです。そのような自分を、おとめは「私は愛に病んでいます」と言います。「愛に病んでいる私を干しぶどうの菓子とりんごで元気づけてください」と言うのです。しかし、おとめは知っています。愛の病を癒やすには、愛する人が自分を抱きしめてくれる必要があることを。「あの方が私の頭の下に左の腕を伸べ/その右腕で私を抱いてくださいますように。そうすれば、私の愛の病は癒やされるでしょう」とおとめは言うのです。

 7節をお読みします。

 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさいないと。

 7節は、「若者」の言葉です。6節のおとめの言葉、「あの方が私の頭の下に左の腕を伸べ/その右腕で私を抱いてくださいますように」を受けて、若者は、「エルサレムの娘たち」に呼びかけます。ここでの「エルサレムの娘たち」は、おとめと若者を見守る読者である私たちと言えます。若者は、自分たちを見守るエルサレムの娘たちが本当に愛する人と肉体関係を持つようにと戒めているのです。若者は、エルサレムの娘たちに、「ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください」と言います。ガゼルも牝鹿も、元のヘブライ語では、神様を表す言葉と発音が似ています。それで、若者は「神にかけて私に誓ってください」とは言わずに、「ガゼルや野の牝鹿にかけて私に誓ってください」と言うのです。そのようにして、園のイメージを保っているのです。

 先程、私は、「愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと」という愛を、エルサレムの娘たちの愛としてお話ししました。けれども、この愛を、おとめと若者との愛とも解釈することができます。そうすると、結婚する前に、肉体関係を持つことがないように、愛を揺り起こさないでくださいと、若者が願っているとも読むことができます。若者は結婚するまでおとめとの関係を純潔に保ちたいのです。

 今朝の御言葉を読んで、私が思い起こしたのは、『サムエル記下』の第13章に記されている「アムノンのタマル」のお話しです。そこには、ダビデの長男であるアムノンが異母姉妹であるタマルに恋をして、病気になるほどであったと記されています。細かいことは省きますが、アムノンは、病を装って、タマルと力ずくで関係を持ちます。その後のことが次のように記されています。「ところが、アムノンは彼女に激しい憎しみを覚えるようになった。彼の抱いた憎しみは、彼の抱いた愛よりも激しかった」(サムエル下13:15)。そして、アムノンは、タマルを外に追い出してしまうのです。このようなことがないように、『雅歌』の「若者」は、こう願うのです。「エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと」。この若者の言葉は、私たちが愛する人と結婚するための大切な助言であるのです。

 さて、今朝の御言葉を神学的に解釈すると、私たちの愛する人、森の木々に囲まれたりんごの木は、花婿であるイエス様です。私たちもイエス様への愛に病んでいると言えます。その私たちを、イエス様は御言葉によって、また、パンとぶどう酒によって元気づけてくださいます。イエス様に恋い焦がれて、「主イエスよ、来たりませ」と祈る私たちに、イエス様は、「然り、私はすぐに来る」と言われます。花婿であるイエス様が天から再び来られるとき、イエス様との完全な愛の交わり(礼拝)が実現します。イエス様の再臨によって到来する新しい天と新しい地は、神の愛が完全に支配する時と場所であるのです。そのイエス様への愛に、私たちは日々目覚めていたいと願います。若者は、愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないようにと願いました。しかし、私たちは、イエス様への愛を目覚めさせて、揺り起こしてくださるように、祈りたいと願います。

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