ファリサイ派の人々を非難するイエス 2026年2月08日(日曜 朝の礼拝)
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ファリサイ派の人々を非難するイエス
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 11章37節~44節
聖書の言葉
11:37 イエスが話し終えると、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、驚いた。
11:39 主は言われた。「なるほど、あなたがたファリサイ派の人々は、杯や大皿の外側は清めるが、自分の内側は強欲と悪意で満ちている。
11:40 愚かな者たち、外側を造られた方は、内側もお造りになったのではないか。
11:41 むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。
11:42 それにしても、あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もなおざりにはできないが。
11:43 あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好んでいる。
11:44 あなたがたに災いあれ。あなたがたは、人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気付かない。」ルカによる福音書 11章37節~44節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第11章37節から44節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝の御言葉には、「ファリサイ派の人」が出てきます。ファリサイ派の人々は、律法を守ろうとしない人々、律法を守れない人々を罪人と呼び、自分たちだけでも律法を守って生きようとしたまじめな人々でした。彼らは民衆に大きな影響力を持っていたのです。『ルカによる福音書』は、これまでに、イエス様とファリサイ派の人々との衝突を記してきました。第5章17節以下に、「体の麻痺した人を癒やす」というお話しが記されていました。イエス様は病人を自分のもとに連れてきた人々の信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。それを聞いていた律法学者たちやファリサイ派の人々は心の中で、「神を冒涜するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ」と論じ始めたことが記されていました。また、第5章27節以下には、「レビを弟子にする」というお話しが記されていました。イエス様が徴税人たちと食卓についていると、ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエス様の弟子たちに、「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか」と文句をつけたことが記されていました。さらに、第6章1節から11節までには、安息日をめぐって、イエス様とファリサイ派の人々が衝突したことが記されていました。ある安息日に、イエス様の弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べたのを見て、ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたがたは安息日にしてはならないことをするのか」と咎めました。また、他の安息日には、律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様を訴える口実を得るために、安息日にイエス様が病人を癒されるかどうかを伺っていました。イエス様は、「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と言って、右手の萎えた人を元どおりにされました。それを見て、律法学者やファリサイ派の人々は、すっかり分別を失って、イエスをどうしてやろうかと話し合ったのです。しかし、すべてのファリサイ派の人が、イエス様に敵対していたわけではありません。第7章36節には、あるファリサイ派の人が一緒に食事をしたいと願ったので、イエス様がその家に入って食事の席に着いたことが記されていました。今朝の御言葉、第11章37節にも、「イエスが話し終わると、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」と記されています。このファリサイ派の人は、イエス様に対して好意を持っていたのです(一緒に食事をすることは親しい交わりを持つこと)。ところがその人は、イエス様が食事の前にまず身を清めなかったのを見て、驚きました。「食事の前にまず身を清める」ことは、昔の人の言い伝え、いわゆる口伝律法でした。このことについては、『マルコによる福音書』の第7章に記されています。新約の72ページです。第7章1節から13節までをお読みします。
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。ーファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを守り、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅の器や寝台を洗うことなど、守るべきこととして受け継いでいることがたくさんあった。ーそこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め/人間の戒めを教えとして教えている。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」また、言われた。『あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の戒めをないがしろにしたものだ。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父や母を罵る者は死刑に処せられる』と言っている。それなのに、あなたがたは言っている。『もし、誰かが父または母に向かって、「私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです」と言えば、その人は父や母のために、もう何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
長く読みましたが、私たちはここから、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、昔の人の言い伝えを神の戒めと同じように重んじていたことが分かります。しかし、イエス様はそのことに反対しています。昔の人の言い伝えを神の戒めと同じように重んじることは、神の戒めをないがしろにすることであり、神の言葉を無にすることであるのです。そして、今朝の御言葉の「食事の前に身を清めること」も、神の戒めではなく、昔の人の言い伝えであったのです。ちなみに、「身を清める」とは「手を洗う」ことですが、ここでは衛生的な観点からではなく、宗教的な観点で言われています。「清い」とは神様との交わりに受け入れられている状態であり、「汚れている」とは神様との交わりから断たれている状態であるのです。旧約聖書の『レビ記』を読むと、「清い」とか「汚れている」と記されていますが、それはいずれも、宗教的な観点から、聖なる神様との交わりの観点から言われていることであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の128ページです。
ファリサイ派の人は、イエス様が昔の人の言い伝えを無視して、食事の前に身を清めなかったのを見て、驚きました。そして、イエス様はこのことをきっかけに、ファリサイ派の人々についてお語りになります。39節から41節までをお読みします。
主は言われた。「なるほど、あなたがたファリサイ派の人々は、杯や大皿の外側は清めるが、自分の内側は強欲と悪意で満ちている。愚かな者たち、外側を造られた方は、内側もお造りになったのではないか。むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。」
ファリサイ派の人々は、杯や大皿を清めるとき、内側だけではなく、その外側も清めました。では、自分自身についてはどうでしょうか。イエス様は、「あなたがたは外側は清めるが、内側は強欲と悪意で満ちている」と言われます。ファリサイ派の人々は、人の目を気にすることはあっても、心を見られる神の目を気にすることはなかったのです。そのようなファリサイ派の人々に、「愚かな者たち、外側を造られた方は、内側もお造りになったではないか」と言われるのです。これは「外側だけではなく、内側をも清くせよ」という意味です。内側は強欲と悪意で満ちている。それは、ファリサイ派の人々だけではなくて、私たちの心の状態であると言えます。私たちの心も強欲と悪意で満ちている。その私たちに、イエス様は、「できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる」と言われるのです。ある注解書に、「施しは、貪欲の最も効果的な解毒剤である」と記されていました。強欲と悪意の源にあるのは、自己中心的な思いですね。貧しい人への施しは、私たちを自己中心的な思いから解放してくれるのです。そのようにして、私たちのすべて(内側も外側も)が清められ、私たちにはすべてのものが清くなるのです。
42節をお読みします。
それにしても、あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛はおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もなおざりにはできないが。
ここで「災いあれ」と訳されている言葉(ウーアイ)は「わざわいだ」(新改訳2017)とも「不幸だ」(新共同訳)とも訳せます。イエス様は、「あなたがたファリサイ派の人々は災いだ」「あなたがたファリサイ派の人々は不幸だ」と言われるのです(イザヤ5:8~22参照)。なぜ、ファリサイ派の人々は災いなのでしょうか。それは、几帳面に十分の一の献げ物をしていながら、律法の精神とも言える公正と神への愛をおろそかにしているからです。旧約の『ミカ書』の第6章8節には、次のように記されています。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(新共同訳)。公平で正しい行いをし、神を愛すること。これこそ人が行うべきことであるのです。もちろん、十分の一の献げ物をなおざりにしてよいわけではありません。なぜなら、十分の一の献げ物の本来の目的は、主を畏れることを学ぶことであり、相続地を持たないレビ人や貧しい人々を養うことにあったからです。『申命記』の第14章22節から29節までをお読みします。旧約の289ページです。
あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得るすべての収穫から、必ず十分の一を取り分けなさい。あなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ぶ場所で、あなたの穀物や新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の十分の一と、牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、あなたの神、主を常に畏れることを学ぶためである。しかし、あなたの神、主があなたを祝福しても、あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所が遠く離れ、その道のりが長すぎて、それを携えて行くことができないなら、あなたはそれを銀に換え、その銀を携え、あなたの神、主が選ぶ場所に向かい、その銀であなたの望むもの、すなわち、牛でも羊でも、ぶどう酒でも麦の酒でも、何でもあなたの好きなものを求め、あなたの神、主の前で食べ、あなたも家族も楽しみなさい。また、あなたの町の中にいるレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのような割り当て地や相続地がないからである。
あなたは、三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置かなければならない。あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい。そうすれば、あなたの神、主はあなたの行った手の業すべてを祝福されるであろう。
このように、十分の一の献げ物も、本来の目的は神を愛することと公正を行うことであったのです。しかし、ファリサイ派の人々はその本来の目的を忘れて、十分の一の献げ物を掟にしてしまったのです(律法主義!)。
私たちもそれぞれの収入の中から、十分の一を目安にして、それぞれが心に決めた金額を献金としてささげています(二コリント9:7「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」参照)。そのことによって、私たちは神様を畏れることを学び、助けを必要とする人々に施しをしているのです。そのようにして、私たちは富に依り頼む貪欲から解放されて、神中心的な思いに生きる者とされているのです。イエス様は、「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言われました(ルカ12:34)。この主イエスの御言葉はまさに真理であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の128ページです。
なぜ、ファリサイ派の人々は、公正と神への愛をおろそかにしながら、十分の一の献げ物を几帳面にささげていたのでしょうか。それは、人々から信心深い、敬虔な人であると思われたいからです。43節で、イエス様はこう言われます。
あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、会堂では上席に着くこと。広場では挨拶されることを好んでいる。
ここで「好んでいる」と訳されている言葉(アガパオー)は、「愛している」とも訳せます。ファリサイ派の人々は、神への愛をおろそかにしていながら、自分が人から重んじられることを愛していたのです。ファリサイ派の人々が神の掟である律法を几帳面に守っているのは、神を重んじるからではなく、人から自分が重んじられるためであるのです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、災いであるのです。このような偽善、偽りの信心は、周りの人々にも悪い影響を及ぼします。そのことをイエス様は、「人目につかない墓」にたとえて教えられます。44節をお読みします。
あなたがたに災いあれ。あなたがたは、人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気付かない。
神の掟である律法には、「墓に触れた者は、七日間、汚れる」と記されています(民数19:16参照)。「汚れる」とは宗教的な意味で、「神様との交わりから絶たれる」ことを意味します。ファリサイ派の人々の偽善、偽りの信心は、人目につかない墓のように、民衆を神様との交わりから遠ざけてしまうのです。ファリサイ派の人々に影響を受けて、民衆も外側だけを綺麗にし、公正と神へ愛をないがしろにして、几帳面に十分の一の献げ物をささげ、人から重んじられることを愛するようになるのです。そのようにして、ファリサイ派の人々は、民衆を神様との交わりから遠ざけてしまうのです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、災いであるのです。
今朝の説教題を「ファリサイ派の人々を非難するイエス」としました。しかし、私たちは、今朝の御言葉を、私たち自身に対するイエス様の御言葉として聞きたいと思います。私たちは、施しによって貪欲から解放され、公正と神への愛から献金をささげ、神様が重んじられることを喜ぶ者でありたいと願います。