今の時代に対する天からのしるし 2026年2月01日(日曜 朝の礼拝)

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今の時代に対する天からのしるし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章29節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:29 群衆がさらに集まったところで、イエスは話し始められた。「今の時代は邪悪な時代である。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代に対してしるしとなる。
11:31 裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここにソロモンにまさるものがある。
11:32 裁きの時には、ニネベの人々が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここにヨナにまさるものがある。」
11:33 「灯をともして、それを穴蔵や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
11:34 あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。
11:35 だから、自分の中にある光が暗くならないように気をつけなさい。
11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗い部分がなければ、ちょうど灯が輝いてあなたを照らすときのように、全体が輝くだろう。」ルカによる福音書 11章29節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第11章29節から36節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 群衆がさらに集まったところで、イエス様はこう話し始められます。「今の時代は邪悪な時代である。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代に対してしるしとなる」。ここで「時代」と訳されている言葉(ゲネア)は、「世代」とも訳せます(岩波訳参照)。イエス様は、「今の世代は邪悪な世代である」と言われます。なぜなら、今の世代はしるしを欲しがる世代であるからです。このイエス様の御言葉は、16節を背景にしています。イエス様の悪霊追い出しを見た群衆の中には、イエス様を試そうとして、天からのしるしを求める者がいました。そのことを受けて、イエス様は、「今の世代は邪悪な世代である」と言われるのです。なぜ、しるしを欲しがることは悪いことであるのか。それは、その根っこに不信仰があるからです。しるしとは、いわば証拠のことです。しるしを欲しがるとは、「証拠を見せてくれたら信じよう」ということです。しかし、それではもはや信仰とは言えません。「誰もが疑うことができない天からのしるしを見せてくれれば、あなたをメシアであると信じましょう」。これはもはや信仰とは言えないのです。その不信仰のゆえに、しるしを欲しがる世代は悪い世代であるのです。

 小見出しに、「人々はしるしを欲しがる」とあり、その下に各個書きで、並行個所が記されています。今朝は、並行個所と読み比べてみたいと思います。最初は『マルコによる福音書』の第8章12節です。新約の75ページです。第8章11節から13節までをお読みします。

 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を仕掛けた。イエスは、心の底から呻いて言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。よく言っておく。今の時代には、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 『マルコによる福音書』は、紀元70年頃に、最初に記された福音書であると考えられています。その『マルコによる福音書』では、「今の時代には、決してしるしは与えられない」と記されています。『マルコによる福音書』を一つの資料として、紀元80年頃に記された『ルカによる福音書』では、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と記されていました。けれども、最初に記された『マルコによる福音書』では、「決してしるしは与えらない」と記されていたのです。

 次に『マタイによる福音書』の第12章38節から40節までをお読みします。新約の22ページです。

 その時、律法学者とファリサイ派の人々の何人かがイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 『マルコによる福音書』を一つの資料として用いた『マタイによる福音書』では、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と記されています。この点においては、『ルカによる福音書』と同じです。しかし、『マタイによる福音書』は、ヨナが大魚の腹の中にいたこととイエス様が墓に葬られることを重ねて記しているところに特徴があります。福音書記者マタイによれば、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたことは、イエス様が三日三晩、大地の中にいることの予型(タイプ)であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の127ページです。

 福音書記者ルカが、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言うとき、それはイエス様が三日三晩、大地の中にいるということに留まらず、イエス様の存在そのものがしるしであるということです。30節にこう記されています。「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代に対してしるしとなる」。群衆は、イエス様に天からのしるしを求めたのですが、イエス様ご自身が天からのしるしであるのです。イエス様の力ある言葉と力ある業、イエス様の存在そのものが、イエス様が神によって遣わされたメシア、王であることを証しているのです(ヨハネ5:36「私にはヨハネの証しにまさる証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証している」参照)。

 イエス様は、続けてこう言われます。31節と32節をお読みします。「裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここにソロモンにまさるものがある。裁きの時には、ニネベの人々が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここにヨナにまさるものがある」。このイエス様の御言葉の前提にあるのは、世の終わりにすべての人が復活して、神の裁きの座に立つことになるということです。イエス様は、死者の復活と世の終わりの裁きを信じていたのです。このことは、旧約の『ダニエル書』が教えていることであり、ファリサイ派の人々も信じていたことでした(ダニエル12章、使徒23:8参照)。イエス様は、世の終わりの裁きの時に、南の女王が今の時代の者たちを罪に定めるであろうと言います。なぜなら、南の女王はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たのに、今の時代の人々はソロモンにまさるイエス様の知恵を聞こうとしないからです(列王記上10章参照)。「だが、ここにソロモンにまさるものがある」。ここでの「もの」は元の言葉では中性名詞で記されています。ですから、「ここにソロモンにまさるものがある」とは、「私はソロモンにまさる知恵を持っている」というイエス様の自己主張であるのです。

 また、イエス様は、世の終わりの裁きの時に、ニネベの人々が今の時代の者たちを罪に定めるであろうと言います。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたのに、今の時代の人々はヨナにまさるイエス様の説教を聞いても悔い改めないからです(ヨナ3章参照)。「だが、ここにヨナにまさるものがある」。ここでの「もの」も元の言葉では中性名詞で記されています。つまり、イエス様は、「私はヨナにまさる説教を語っている」と自己主張しているのです。

 南の女王も、ニネベの人々も、イスラエルの民に属さない異邦人でありました。彼らは、神の契約と関わりがない外国人です。その異邦人である南の女王が、ソロモンの知恵を聞くために、はるばるやって来ました。また、異邦人であるニネベの人々が、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。しかし、今の時代の人々は神の契約の民であるにもかかわらず、イエス様の知恵を聞こうとはしませんでした。また、イエス様の説教を聞いても、神に立ち帰りませんでした。それどころか、天からのしるしを求めたのです。しかし、イエス様がおっしゃったように、人の子であるイエス様ご自身が今の時代の人々に与えられているしるしであるのです。ソロモンにまさる知恵を持つイエス様、ヨナにまさる説教を語るイエス様が、天からのしるしであるのです。群衆は天からのしるしであるイエス様を目の当たりにしながら、天からのしるしを求めたのです。なぜ、このような食い違いが起きるのでしょうか。その答えが、33節以下の御言葉に記されています。33節から36節までをお読みします。「灯をともして、それを穴蔵や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。だから、自分の中にある光が暗くならないように気をつけなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗い部分がなければ、ちょうど灯が輝いてあなたを照らすときのように、全体が輝くだろう」。イエス様が、「灯は、・・・入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われるとき、その「灯」とは、天からのしるしそのものであるイエス様のことです。イエス様は公然と教えられ、公然と力ある業を行われました。それゆえ、イエス様は御自分を燭台の上に置かれた灯、世を照らす光にたとえられるのです。現にイエス様は、公然と悪霊を追い出していました。そして、イエス様によれば、これこそ、神の王国があなたがたのところに来ていることのしるしであったのです(ルカ11:20「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」参照)。しかし、群衆はその光景を見ながら、天からのしるしを求めたのです。ですから問題は、群衆の方にあるわけです。結論から申しますと、イエス様にしるしを求める人々の目が悪いのです。34節と35節に、「あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。だから、自分の中にある光が暗くならないように気をつけなさい」とあります。古代において、目が光を放ち、視力は中からの光が外からの光に出会うときに可能となるという理解が一般的でした(R・A・カルペッパー)。目そのものが光を放っているイメージですね。また、ここでの目は、肉体の目に留まらず、内面の心、魂を意味します。「自分の中にある光」とあるように、目の光は心の光とつながっているわけです。これは考えてみるとよく分かりますよね。心が明るければ、目も輝くわけです。反対に、心が暗ければ目もどんよりとするわけです。イエス様という灯をまっすぐに見つめるのであれば、私たちの目は澄んでおり、私たちの全身が明るくなります。しかし、イエス様という灯をまっすぐに見つめないなら、私たちの目は悪く、全身が暗くなってしまうのです。私たちは自分の中にある光が暗くならないように気をつけたいと思います。私は天からのしるしであるイエス様に、まっすぐに目を注いでいるだろうか。自分に都合のよい、天からのしるしを求めていないだろうか。そのことを今朝、私たちは自分自身に問いかけたいと思います。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第8章12節で、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と言われました。私たちの光の源は、世の光として来られたイエス・キリストであるのです。私たち一人一人の内に住みたもうイエス・キリストの聖霊が、私たちの心と目に光を与えてくださいます。そのようにして、イエス・キリストは、弟子である私たちのすべての営みを輝かせて、私たちを世の光としてくださるのです(マタイ5:14「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」参照)。

 今朝は最後に、現代の日本に生きる私たちに与えられている天からのしるしについてお話ししたいと思います。イエス様がメシア、王であることのしるし、メシアであるイエス様において神の王国が到来していることのしるしは何でしょうか。それは、キリストの体である教会であります。教会と訳されるエクレーシアは、「召し出された者たちの集い」を意味します。イエス・キリストの教会として集まり、礼拝をささげている私たち自身が、今の時代に与えられている天からのしるしであるのです。イエス様ご自身が天からのしるしであったように、イエス・キリストの教会である私たち自身が天からのしるしであるのです。

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