誰でも求める者は受ける 2025年12月14日(日曜 朝の礼拝)

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誰でも求める者は受ける

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章5節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』
11:8 しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
11:9 そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」ルカによる福音書 11章5節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は『ルカによる福音書』の第11章5節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉も、イエス様の祈りについての教えであります。

 5節から8節までを読みます。

 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。」

 イエス様は、弟子たちに祈ることを教えるために、「あなたがたの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう」と言われます。イエス様は、私たちに、真夜中に友達の家を訪れる人に自分を当てはめるように促すのです。あなたは、真夜中に友達の家に行き、こう言います。「友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです」。ここにもう一人の友達が登場します。当時(紀元1世紀)のユダヤでは、真昼の暑さを避けるために、夕方に出発して、真夜中に着くということがあったようです。この友達は旅の途中で、あなたの家に宿を求めたのです。旅人をもてなすことは聖なる義務と考えられていました。まして、友達であればなおさらです。しかし、困ったことに、あなたには友達をもてなすパンがないのです。それで、あなたは、同じ村に住む友達にパンを借りに行くことにしたのです。迷惑をかけることを承知のうえで、旅人をもてなすという聖なる義務を果たすために、真夜中、友人の家に行き、お願いしたのです。すると、その人は家の中からこう答えます。「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない」。当時は、大きな重いかんぬきで戸をしめました。ですから、戸を開けるのも大変です。また、当時の家は一部屋で、同じ部屋で家族が川の字になって寝ていました。ですから、戸を開けて、大きな音を立てれば、子どもたちを起こしてしまうことになるのです。何より、自分も寝ており、面倒なのです。このような答えを聞いて、あなたはどうしますか。諦めるべきでしょうか。いいえ、あなたは執拗に頼むべきであるのです。8節で、イエス様はこう言われているからです。「しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう」。ここで「執拗に頼めば」とありますが、このところは翻訳が難しいところです。ちなみに「頼めば」という言葉は元の言葉にはありません。聖書協会共同訳の補足です。元の言葉を直訳すると「彼の恥知らずのゆえに」となります。この「彼」を「パンを三つ貸してくださいと頼んだ人」とすると、「彼の恥知らずの頼みのために」となります。しかし、彼の頼みそのものは、旅人をもてなすという聖なる義務のためですから、恥知らずな頼みでも、厚かましい頼みでもありません。それで、「恥知らずに何度も頼む」「しつこく頼む」「執拗に頼む」と解釈されます。他方、「彼の恥知らずのゆえに」の「彼」を「面倒をかけないでくれと答えた人」とすると、旅人をもてなす聖なる義務を果たすことをことを断ったことで、その人が恥知らずにならないためにと解釈できます。最近の研究では、後者、断った人が恥知らずとならないために、自分の面目を保つために、起きて来て必要なものを与えてくれるだろうと解釈されています。ユダヤの社会において、旅人をもてなすことは、聖なる義務と考えられていました。また、旧約の『箴言』には、次のような御言葉があります。「あなたの手に善を行う力があるなら/なすべき相手にそれを拒むな。あなたにその力があるなら/友に『出直してくれ、明日あげるから』と言うな」(箴言3:27、28)。それゆえ、パンを三つ貸すことを断るならば、断った人が恥知らずとなってしまうのです。そのような恥知らずとならないために、起きて来て必要なものを与えてくれると言うのです。この必要なものを与えてくれる人は、父なる神のことです。もちろん、神様は眠ることも、まどろむこともありません(詩121:4「見よ、イスラエルを守る方は/まどろみもせず、眠ることもない」参照)。しかし、神様が、私たちの願い、「私たちに日ごとの糧を毎日お与えください」という願いを断るようなことがあれば、神様は恥知らずとなってしまう。神様は神様としての面目を失ってしまうのです。なぜなら、聖書は、イスラエルの神、イエス・キリストの父なる神だけが、まことの神であり、人間の祈りを聞いてくださるお方であると教えているからです(詩65:3「祈りを聞いてくださる方よ/すべての肉なる者はあなたのもとに来ます」参照)。聖書は、まことの神、イスラエルの神、イエス・キリストの父なる神にのみ、祈りをささげるように命じています。そうであれば、父なる神は、私たちの願いを聞いて、必要なものを与えてくださるのです。ここでイエス様が教えていることは、私たちの執拗な祈りが神様を動かすということではなくて、神様が私たちの祈りを聞いてくださらないならば、神様は神様として面目を失ってしまうということです。神様は神様としての面目を保つために、私たちの祈りを聞いて、必要なものを与えてくださるのです。

 9節と10節を読みます。

 「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者は開かれる。」

 このイエス様の御言葉は、8節の「執拗に頼めば」、原文の直訳では「彼の恥知らずのゆえに」をどのように解釈するかによって意味が大きく変わります。8節を「彼の恥知らずの頼みのために」「彼のしつこい頼みのために」と解釈すると、祈り続けることの大切さを教える御言葉となります。「すぐに与えられなくても、求め続けるならば、神様は与えてくださる」。そのような意味となります。他方、8節の「彼の恥知らずのゆえに」を、頼まれた友達、つまり父なる神であるとすると、「神様は私たちの祈りを聞いてくださるお方であるから、祈りなさい」という意味になります。私たちの祈りの熱心というよりも、私たちが祈りをささげている方が問題となります。つまり、私たちの神様は、真夜中にパンを借りに来た友達に、「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない」と答えるようなお方では決してないということです。神様は神様であるゆえに、私たちの願いを聞いてくださり、必要なものを与えてくださいます。私たちに日ごとの糧を与えてくださるのです。それゆえ、イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩くものは開かれる」と言って、私たちが父なる神に祈りをささげるよう励まされるのです。ただ一つ注意しておきたいことは、「誰でも求める者は受け」の「誰でも」は、「イエス・キリストの御名によって祈る誰でも」のことです。私たちがイエス・キリストの御名によって祈るとき、父なる神は、私たちの祈りを御子イエス・キリストの祈りとして聞いてくださるのです。

 11節から13節までを読みます。

 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」

 イエス様は、5節から8節で、友達と友達の関係にたとえて、父なる神について教えました。11節から13節では父親と子どもの関係を持ち出して、父なる神について教えます。魚を欲しがる子どもに、蛇を与える父親はいないし、卵を欲しがる子どもに、さそりを与える父親はいません。ここでの「蛇」や「さそり」は害になる、悪い物の代表です(10:19「蛇やさそりを踏みつけ」参照)。私たち人間は、神の御前に罪深い、悪い者ですが、それでも、自分の子どもに良い物を与えることを知っています。そうであれば、善い御方である父なる神は求める者に良い物を与えてくださるに違いないとイエス様は言われるのです。そして、その良い物、良い御方こそ、聖霊であるのです。「まして天の父は、求める者に、もっとも良い物、良い御方である聖霊を与えてくださる」。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たち、あるいは幼児洗礼を受けて信仰告白をした私たちには、天の父なる神から、もっとも良い御方である聖霊が与えられているのです(聖霊は人格的な存在である)。聖霊は神の霊ですから、目で見たり、手で触れることはできません。では、なぜ、私たちは、自分に聖霊が与えられていると言えるのでしょうか?それは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白しているからです。使徒パウロが、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言うことはできません」と言っているように、「イエスは主である」と告白している私たちには聖霊が与えられているのです(一コリント12:3参照)。また、私たちに聖霊が与えられていることは、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことができることからも分かります。聖霊は父なる神の霊であり、御子イエスの霊でもあります。天の父なる神は、御子イエス・キリストを通して、聖霊を私たちに与えてくださいました(使徒2章、ヨハネ7:39参照)。私たち一人一人に宿っている聖霊は、父なる神の霊であり、御子イエスの霊であるのです。その御子イエスの霊によって、私たちは神様を「アッバ、父よ」と呼び、信頼して祈っているのです(ガラテヤ4:6参照)。

 ところで、私たちは聖霊を祈り求めたことがあったでしょうか?生きていくために必要な物を祈り求めることはあっても、聖霊を祈り求めたことがあったでしょうか?もし、私たちが聖霊を祈り求めたことがなくても、父なる神は、私たちが祈り求めた物に変えて、もっとも良い御方である聖霊を与えてくださったのです。ですから、私たちは、聖霊を求めたことがなかったとしても、聖霊を与えれて、「イエス・キリストは神の御子、罪人の救い主です」と告白し、「天の父なる神様」と祈ることができる者とされているのです。

 今朝、イエス様は、私たちが祈りをささげる御方がどのような御方であるかを教えてくださっています。私たちが祈りをささげる父なる神は、眠ることもまどろむこともなく、祈りを聞いてくださるまことの神です。そして、求める者にもっとも良い御方である聖霊を与えてくださる神です。私たちが聖霊を与えられるのは、イエス・キリストを信じた一度限りのことではありません。天の父なる神は、私たちが毎日イエス・キリストを信じて生きていくことができるように、毎日聖霊を与えてくださいます。ですから、私たちは、神様が良い物を与えてくださることを信じて、絶えず祈りたいと願います。

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