必要なことは一つ 2025年11月09日(日曜 朝の礼拝)

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必要なことは一つ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章38節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:38 さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
10:40 マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。
10:42 しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書 10章38節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第10章38節から42節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様と弟子たちは、エルサレムに向かう旅を続けています。イエス様がある村に入られたとき、マルタという女がイエス様を家に迎え入れました。イエス様だけではなく、弟子たちも一緒であったと思います。マルタには、マリアという妹がいました。マルタがイエス様をもてなすために忙しく立ち回っていたのに対して、マリアは、主イエスの足元に座って、その話を聞いていました。律法学者の弟子は先生の足元に座って教えを受けました。マリアはイエス様の弟子として、話を聞いていたのです。これは驚くべきことです。当時、紀元一世紀のユダヤの社会には、男女差別があり、女性は教育の場から締め出されていたからです。しかし、マリアは、男の弟子たちと一緒になって、イエス様の足元に座って、イエス様のお話を聞いていたのです。イエス様はそのことを不快に思うことはありませんでした。むしろ、イエス様は、熱心に耳を傾けるマリアのことを喜ばれたと思います。今、私もお話をしていますが、聞いてくれる人がいるからお話ができるのです。皆さんが御言葉を求めて熱心に聞いてくださるので、私も熱心に御言葉を語ることができるのです。昔、子供のクリスマス会でお話したときに、一番前で、食い入るように私を見て、大きく頷いて聞いてくれる女の子がいました。とても話しやすかったことを今でも覚えています。そのような私の小さな経験から言っても、イエス様は自分の足元に座って、熱心に耳を傾けるマリアのことを喜ばれていたと思うのです。マルタはイエス様をもてなすために食事の用意をしていたのでしょう。イエス様だけではなく、弟子たちもいたと考えられますから、マルタは忙しく立ち回っていました。そして、だんだんと不満が募ってくるのです。ここで興味深いのは、マルタがマリアにではなく、主イエスに不平を述べたということです。マルタは、イエス様の足元に座って話を聞いているマリアに対して、「あなたも私と一緒におもてなしの準備をしなさい」と言ったのではありません。マルタは、マリアに話しているイエス様に、不平を述べるのです。マルタの不満は、マリアを通り越して、イエス様への不満となるのです。マルタは、イエス様のそばに立ってこう言います。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。ここで「おもてなし」と訳されている言葉(ディアコノス)は、「奉仕」とも訳せます。教会では「奉仕」という言葉をよく用いますが、「奉仕」と訳される言葉(ディアコノス)が「おもてなし」と訳されているのです。マルタは、「私だけに奉仕をさせている妹も妹だが、その妹を教えているイエス様もイエス様だ。イエス様、あなたから妹に、私の手伝いをするように言ってください」と言うのです。マルタはイエス様をもてなして喜んでもらおうと願っていたのに、イエス様に不平を述べてしまうのです。そのようなマルタに、主イエスはこう言われます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている」。イエス様は、優しく諭すように、「マルタ、マルタ」と名前を二回呼びます。そして、マルタがどのような状態であるのかを客観的に語るのです。マルタはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。イエス様をもてなすために、あれもしなきゃ、これもしなきゃとパニックになっているわけです。そのようなマルタに、イエス様はこう言われます。「しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」。ここでのただ一つの必要なこと、マリアが選んだ良いほうとは、何でしょうか?それは、イエス様の足元に座ってイエス様のお話を聞くということです。このイエス様の御言葉は、イエス様が主人としてマルタとマリアをもてなしていることを前提にしています。マルタという名前は、「女主人」という意味です。マルタは女主人として、イエス様をもてなそうと忙しく立ち回りました。しかし、今朝の御言葉で、イエス様が「主」と何度も呼ばれているように、マルタの家においてもイエス様は主、主人であるのです。イエス様は主として、マルタの家で霊的な糧である神の言葉を語っておられるのです。イエス様が「必要なことは一つだけである」と言われる「必要なこと」、また、「マリアは良いほうを選んだ」という「良いほう」とは、イエス様のお話しを聞くことであるのです。そのことは、誰も取り上げてはならない大切なこと、私たちキリスト者にとって命に関わることであるのです。

 私たちは今、説教という仕方でイエス様の御言葉を聞いています。私たちは座って、イエス様の弟子として、御言葉を聞いているのです。もし仮に、今このときに、うしろの台所でお昼ご飯の準備をしている人がいて、説教の途中で、礼拝堂に入って来て、「あなたも料理を作る手伝いをしてください」と言ったらどうでしょうか。おそらく私たちは、「礼拝が終わってからにしましょう」と答えるのではないでしょうか。それはなぜか。それは、イエス様が、「必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたからです。イエス様の御言葉は、弟子である私たちにとって霊的なごちそうです。それは誰も取り上げてはならないイエス様の私たちに対するもてなしであり、奉仕であるのです。

 「必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」。この主イエスの御言葉を、私はイエス様からの私たちに対するもてなし、奉仕としてお話しました。しかし、イエス様に対する私たちのもてなし、奉仕としてもお話しすることができます。マルタは、自分だけがイエス様をもてなしていると考えていました。ですから、マルタはいろいろなことに気を遣い、思い煩っていたわけです。しかし、実はマリアもイエス様をもてなしていたのです。それは、イエス様の足元に座ってイエス様のお話を聞くというもてなしです。そして、このマリアのもてなしをイエス様は、ただ一つの必要なこと、良いほうと言われたとも解釈できるのですね。イエス様の御言葉に熱心に耳を傾ける奉仕、それを誰も取り上げてはならないのです。なぜなら、イエス様は、また神様は、私たちが御言葉を心して聞くことを何よりも喜んでくださるからです。そのことは、『サムエル記上』の第15章に記されています。旧約の436ページです。

 ここには、主がサウル王に、アマレク人とその家畜を滅ぼし尽くすようにお命じになったことが記されています。しかし、サウルは、アマレクの王を生け捕りにして、最上の羊や牛を滅ぼしませんでした。サウルは、主にいけにえとして献げるために、最上の羊や牛を取り分けておいたと言うのです。そのようなサウルに、サムエルはこう言います。22節です。「主が喜ばれるのは/焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(新共同訳「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」参照)。主は雄羊の脂肪よりも、御言葉を心して聞くことを喜ばれるのです。同じことが主イエスにおいても言えます。主イエスは、私たちが御言葉を心して聞くことを喜んでくださるのです。イエス・キリストの御言葉に、私たちが心して耳を傾けるとき、私たちはイエス様に対して最高の奉仕をしているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の125ページです。

 今朝のお話を聞いていて、少し分かりづらいと思われたかも知れません。それは、ここでの「もてなし」「奉仕」が、イエス様に対する私たちの奉仕であり、私たちに対するイエス様の奉仕であるからです。「奉仕」がイエス様に対する私たちの奉仕と私たちに対するイエス様の奉仕と重なっているからです。礼拝を英語でサービスと言いますが、礼拝においては、イエス様が私たちにサービスしてくださっている面と、私たちがイエス様にサービスしている面があるのです。しかし、今朝、覚えたいことは、私たちのサービスは、イエス様のサービスを土台としているということです。私たちのサービスとイエス様のサービスのどちらが先かと言えば、イエス様のサービスであるのです。『マルコによる福音書』の第10章42節から45節で、イエス様はこう仰せになります。新約の81ページです。

 そこでイエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭(かしら)になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 神の御子であるイエス様が人としてお生まれになったのは、仕えられるためではなく、仕えるためでした。さらに言えば、『イザヤ書』の第53章の預言にあるように、多くの人の身代金として自分の命を献げるためでした。イエス様は主の僕として、私たちにも仕えてくださったのです。このイエス様の奉仕があったからこそ、私たちはイエス様に、また神様に奉仕することができる、礼拝をささげることができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の125ページです。

 今朝の御言葉の小見出しに、「マルタとマリア」とありますが、この姉妹は対象的に捉えることが多いと思います。マルタは活動的な女性であり、マリアはおとなしい女性であると理解されるのです。そして、マルタではなく、マリアに倣うように語られることが多いのではないかと思います。しかし、私は、イエス様はマルタの奉仕をも喜んでくださっていたと思います。ですから、私たちは、マルタか、マリアかのどちらかではなく、マリアからマルタへという道筋を取りたいと思います。イエス様が喜んでくださる奉仕、それはイエス様の御言葉に耳を傾けることです。それは、イエス様から霊的な糧という奉仕を受けることでもあります。私たちはイエス様からの奉仕を受けて、イエス様の御心に従っていろいろな奉仕をしたいと思います。主の日だけではなく、毎日、御言葉を読み、主に仕えるように人々に仕える。ここにマリアからマルタへという道筋があるのです。

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