憐れみ深いサマリア人 2025年11月02日(日曜 朝の礼拝)
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憐れみ深いサマリア人
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 10章25節~37節
聖書の言葉
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剥ぎに襲われた。追い剥ぎたちはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカによる福音書 10章25節~37節
メッセージ
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今朝の御言葉には、ある律法の専門家がイエス様に質問したことが記されています。ただし、ここで律法の専門家は教えを乞うために質問したのではありません。イエス様を試そうとして質問したのです。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。「永遠の命を受け継ぐ」とは、神様との親しい交わりに入ることです。言い換えれば、「神の国に入ること」であり、「救われる」ことです(ルカ18:18、23、26参照)。イエス様は、律法学の専門家が自分を試そうとしていることを見抜かれて、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」とお尋ねになります。すると、律法の専門家はこう答えます。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。ここで、律法の専門家は、『申命記』の第6章5節の御言葉と『レビ記』の第19章18節の御言葉を引用しています。この答えは、『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』によれば、イエス様が答えられた、律法の中で最も重要な掟でした。私たちは、主の日の礼拝ごとに、司式者の口から「罪の告白の勧告」を聞きます。「愛する兄弟姉妹たちよ、主イエス・キリストの戒めを聞きなさい。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている』」という言葉を聞きます。その主イエス・キリストの戒めが、律法の専門家の口から語られるのです。『申命記』の第6章の全身全霊で神を愛する戒めと『レビ記』の第19章の自分のように隣人を愛する戒めを結び合わせることを、律法の専門家も知っていたのです(イエス様のオリジナルではない)。イエス様は、律法の専門家の答えを受けて、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言います。このイエス様の答えは、『レビ記』の第18章5節を背景にしています。『レビ記』の第18章5節にはこう記されています。「私の掟と法を守りなさい。人がそれを行えば、それによって生きる。私は主である」。この掟を背景にして、イエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのです。すると律法の専門家は、自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言いました。「『隣人を自分のように愛しなさい』とあるけれども、その隣人とは誰ですか。隣人が誰であるか分からなければ、この戒めを守ることができません」と言うのです。そこでイエス様は、「憐れみ深いサマリア人のたとえ」をお語りになります。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた」とありますから、「ある人」はユダヤ人です。ある人はエルサレムにある神殿で神を礼拝して、その帰りに、不幸にも追いはぎに襲われてしまったのです。ある人は服をはぎ取られ、殴られ、瀕死の状態で道に倒れていました。そこに祭司が通りかかりました。祭司は神殿で神に仕える者です。ですから、助けてくれてもよさそうですが、ある人を見ると反対側を通り過ぎていきました。次に、レビ人が通りかかりました。レビ人も神殿で神に仕える者です。ですから、助けてくれてもよさそうですが、ある人を見ると反対側を通り過ぎていきました。このように聞くと、私たちは、祭司もレビ人も薄情だなぁと思います。しかし、彼らは祭司であるゆえに、またレビ人であるゆえに、死人に触れて汚れるわけにはいかなかったのです。『民数記』の第19章11節に、「どのような死者の体でも、死んだ者に触れた者は七日間、汚れる」と記されています。祭司やレビ人が、死んだ人に触れれば、神殿で神に仕えることができなくなります。それで、祭司もレビ人も、倒れている人から離れた反対側を通って行ったのです。
イエス様は、祭司とレビ人に続けて、「サマリア人」を登場させます。「サマリア人」は、礼拝する場所はゲリジム山であると信じていましたから、エルサレムから下って来ることは考えにくいのですが、あえてイエス様はサマリア人を登場させます。それは、ユダヤ人にとってサマリア人は「隣人」の中に入っていなかったからです。サマリア人は、まことの神を知らない異邦人と同然であるとユダヤ人は考えて、交わりを持ちませんでした(ヨハネ4:9「ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである」参照)。少し前の第9章51節以下に、サマリア人がイエス様を歓迎しなかったのを見て、弟子のヤコブとヨハネが、「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」と言って、イエス様に叱られたことが記されていました。このように、ユダヤ人とサマリア人はいわば敵対関係にあったのです。しかし、サマリア人は、ある人(ユダヤ人)を見て、気の毒に思いました。ここで「気の毒に思う」と訳される言葉(スプラングニゾマイ)は、「はらわたが千切れる思いに駆られる」とも訳すことができます。裸で、傷だらけで、瀕死の状態で倒れている人を見たとき、サマリア人のはらわたは千切れたのです。そして、サマリア人はある人の傷の応急処置をして、家畜(ロバ?)に乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのです。さらには、デナリオン銀貨二枚を宿屋の主人に渡して、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と約束するのです(一デナリオンは一日分の労働賃金)。
なぜ、サマリア人は、ある人を見たとき、はらわたが千切れる思いに駆られたのでしょうか。また、時間と労力とお金を費やして、ある人を介抱することができたのでしょうか。それは、サマリア人が、自分のように隣人を愛する人であったからです。サマリア人は、裸で、傷だらけで、瀕死の状態で倒れている人を見たとき、そこに自分を見いだしたのです。それゆえ、サマリア人は、はらわたが千切れる思いに駆られ、時間と労力とお金を費やして、ある人を介抱することができたのです。祭司とレビ人は、裸で、傷だらけで、倒れている人を見ても、はらわたの千切れる思いに駆られませんでした。ですから、彼らは、死んでいるかもしれない人に触れて汚れないように、反対側を通って行ったのです。
このようなたとえ話をした後で、イエス様はこうお尋ねになります。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。このイエス様の問いの出発点に注意したい思います。律法の専門家は、自分を出発点にして、「私の隣人とは誰ですか」と問いました。しかし、イエス様は、助けを必要としている人を出発点として、「追いはぎに襲われた人の隣人になったのは誰か」と問うのです。律法の専門家はこう答えます。「その人に憐れみをかけた人です」。ここは元の言葉を直訳すると「その人に憐れみを行った人です」となります。その答えを受けて、イエス様はこう言われるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」。ここも元の言葉を直訳すると「行って、あなたも同じように行いなさい」となります。イエス様は、28節で、「正しい答だ。それを行いなさい。そうすれば命を得られる」と言われましたが、ここでも「行う」ことが言われるのです。
「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』。この掟を行えば、命を得られる」とイエス様は言われました。さらに、イエス様は、「憐れみ深いサマリア人のたとえ」によって、隣人とは同胞のユダヤ人だけではなく、自分の助けを必要としているすべての人であることを教えられました(イエス・キリストの律法は、旧約の律法を超えている!)。私たちは、「私の隣人とは誰か」と問うべきではなく、「私は誰の隣人になれるか」と問うべきであるのです。そして、その答えは、「助けを必要としているすべての人」であるのです。イエス様から、「行って、あなたも同じように行いなさい」と言われた律法の専門家は、この後どうしたでしょうか。イエス様から言われたとおり、憐れみ深いサマリア人と同じように行おうと励んだのでしょうか。しかし、そこで律法の専門家は、「自分は、このサマリア人と同じように行えない」ことを思い知ったはずです。今朝の御言葉は、律法の専門家の質問、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問から始まりました。そして、イエス様はその質問に、律法の専門家が答えた戒め、全身全霊で神を愛すること、自分のように隣人を愛することを行うならば、命を得ることができると答えられました。さらに、イエス様は「憐れみ深いサマリア人のたとえ」によって、「同じ民族だけではなく、あらゆる民族の助けを必要としている人に憐れみを行うことが隣人になることである」と教えられました。そのように聞いて、私たちはどう思うでしょうか。そんなこと私にはできないと思うのですね。実は、ここでイエス様が教えておられることはそのことなのです。イエス様は、「憐れみ深いサマリア人のたとえ」によって、「私たちは神の戒めを実行して永遠の命を受け継ぐことはできない」ことを教えているのです。イエス・キリストの使徒パウロは、「律法の行いによっては、誰一人として義とされない」と教えています(ガラテヤ2:16)。同じことをイエス様も教えているのです。しかし、ただ一人だけ、神の戒めを実行して、永遠の命を受け継いだ人がいます。それは、聖霊によっておとめマリアからお生まれになった罪の御方、イエス様です。イエス様は、エルサレムへと向かう旅を続けています。イエス様は、エルサレムの最高法院の議員たちによって裁かれ、ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトの手に引き渡され、十字架に磔にされるのです。その十字架の死において、イエス様は、全身全霊で神を愛するという戒めと自分のように隣人を愛するという戒めを完全に行われるのです。その証拠に、神様は、イエス様を死から三日目に栄光の体で復活させるのです。私たちが永遠の命を受け継ぐのは、十字架と復活の主であるイエス・キリストを信じる信仰によってであります。『レビ記』の第18章5節、「私の掟と法を守りなさい。人がそれを行えば、それによって生きる」という御言葉によって永遠の命を受け継いだのはイエス・キリストだけです。私たちは、そのイエス・キリストを信じる信仰によって、永遠の命を受け継ぐ者とされているのです(ガラテヤ2:15:16参照)。その私たちに、イエス様は、今朝、「行って、あなたも同じように行いなさい」と言われるのです。イエス様のお話に出てくる憐れみ深いサマリア人は、イエス様ご自身のことです。私たちは、憐れみ深いサマリア人に助けてもらった、追いはぎに襲われた人であるのです。私たちは憐れみ深いサマリア人であるイエス・キリストに助けられた者として、助けを必要とする人の隣人になることが命じられているのです。