悔い改めるとはイエスを信じること 2025年10月05日(日曜 朝の礼拝)

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悔い改めるとはイエスを信じること

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:13 「災いあれ、コラジンよ。災いあれ、ベトサイダよ。お前たちのところでなされた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたことだろう。
10:14 しかし、裁きの時には、お前たちよりもまだティルスやシドンのほうが軽い罰で済む。
10:15 カファルナウムよ、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。私を拒む者は、私をお遣わしになった方を拒むのである。」ルカによる福音書 10章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、『ルカによる福音書』の第9章57節から第10章16節までを読みました。前回(9月21日)は1節から12節までを学びましたので、今朝は13節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様は、10節から12節で、ご自分の弟子たちを受け入れない町についてお語りになりました。続く今朝の御言葉、13節から16節では、ご自分を受け入れない町についてお語りになります。 

 13節と14節を読みます。

 「災いあれ、コラジンよ。災いあれ、ベトサイダよ。お前のところでなされた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたことだろう。しかし、裁きの時には、お前たちよりもまだティルスやシドンのほうが軽い罰で済む。」

 ここで「災いあれ」と訳されている言葉(ウーアイ)は、深い悲しみを嘆く言葉で、「ああ!」とも訳すことができます。新改訳2017は、「ああ、コラジン。ああ、ベトサイダ」と翻訳しています。新共同訳は、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と翻訳していました。聖書協会共同訳は「災いあれ、コラジンよ。災いあれ、ベトサイダよ」と翻訳していますが、ここでイエス様は、コラジンとベツサイダを呪っているわけではありません。イエス様は、「災いだ、コラジンは。災いだ、ベトサイダは」と、事実を事実として述べて、嘆いておられるのです。なぜ、イエス様は、「災いだ、コラジンは。災いだ、ベトサイダは」と嘆かれるのでしょうか?コラジンもベトサイダも、イエス様が神の国の福音を宣べ伝えたガリラヤの町です。イエス様はガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え、多くの人々から悪霊を追い出し、病に苦しむ多くの人々をお癒やしになりました。コラジンの人々も、ベトサイダの人々も、イエス様の奇跡(力ある業)を見て、その恩恵にあずかったのです。しかし、コラジンの人々とベトサイダの人々は、イエス様の奇跡(力ある業)を見て、その恩恵にあずかりながらも、悔い改めなかったのです。「悔い改める」とは「罪から神へと立ち帰る」ことです。そして、「罪から神へと立ち帰る」とは、「神様が遣わされた罪人の救い主であるイエス・キリストを受け入れる」ことであるのです。コラジンの人々も、ベトサイダの人々も、イエス様の奇跡(力ある業)を見ても、その恩恵にあずかっても、罪人の救い主であるイエス・キリストを受け入れませんでした。このように聞くと、私たちは意外な気がします。私たちは、イエス様の時代のように、悪霊の追い出しや病の癒やしといった奇跡を行うことはできません。これらの奇跡は、イエス様において神の国が到来したことのしるし(出来事啓示)であり、啓示の書物である聖書が完結したことによって停止されています(ウェストミンスター信仰告白1:1参照)。ですから、もし、私たちもイエス様の御名によって悪霊を追い出したり、病を癒やすことができれば、多くの人がイエス様を信じるのではないかと考えてみたりするのです。しかし、どうやら、そのようにはならないようです。もし、私たちがイエス様の御名によって病を癒やすことができたとしたら、教会に多くの人が集まるでしょう。病院に多くの人が集まっているように、教会にも多くの人が集まると思います。しかし、多くの人が悔い改めて、イエス様の弟子になるかと言えば、話は別です。なぜ、そう言えるのか。それは、コラジンの人々も、ベトサイダの人々も、イエス様の奇跡(力ある業)を見て、その恩恵にあずかっても悔い改めなかったからです。彼らは、イエス様を神からのメシア(王、救い主)として受け入れなかったのです。

 では、イエス様がコラジンやベトサイダでなされた奇跡が不十分であったのでしょうか。イエス様の力ある業が不十分であったから、コラジンの人々もベトサイダの人々も、イエス様において到来した神の国(神の王国、神の王的支配)を受け入れなかったのでしょうか?そうではありません。なぜなら、イエス様は、こう言われるからです。「お前たちのところでなされた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたことだろう」。ティルスやシドンは、地中海沿岸にある異邦人の町です。旧約の預言者たちは、しばしばティルスやシドンに対する裁きの言葉を語りました(イザヤ23章、エゼキエル26章〜28章参照)。ティルスやシドンは、海上貿易によって築いた富のゆえに、自らを神であるかのように高ぶりました。そのティルスやシドンで、イエス様の力ある業がなされたのであれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたであろうと言うのです。それほどの奇跡(力ある業)を、イエス様はコラジンとベトサイダで行われたのです。

 15節を読みます。

 カファルナウムよ、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。

 カファルナウムもガリラヤの町です。第4章31節以下には、イエス様がカファルナウムの会堂で教えられたこと。その権威ある言葉によって、男から悪霊を追い出したことが記されています。カファルナウムには、シモン・ペトロの家があり、イエス様はシモンの姑(しゅうとめ)と多くの病人たちを癒やし、多くの人々から悪霊を追い出しました。イエス様は、カファルナウムを拠点として、ガリラヤで神の国の福音を宣べ伝えたのです。それゆえ、カファルナウムの人々はうぬぼれて、高慢な態度を取っていたのです。そのようなカファルナウムの人々に、イエス様は、「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と言うのです。このイエス様の御言葉は、『イザヤ書』の第14章に記されている「バビロンの王についての嘲りの歌」を背景にしています。旧約の1067ページです。第14章12節から15節までを読みます。

 ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地へと切り倒された。諸国民を打ち倒した者よ。お前は心の中で言った。『私は天に上り/神の星々より上に王座を高く据えよう。そして、北の果てにある集会の山に座し/雲の頂に上り/いと高き方のようになろう』と。しかし、お前は陰府へと/その穴の底へと落とされる。

 イエス様はガリラヤ宣教の拠点であったカファルナウムを、神のようになろうとしたバビロンになぞらえて、「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と言われるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の124ページです。

 16節を読みます。

 「あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。私を拒む者は、私をお遣わしになった方を拒むのである。」

 「あなたがた」とは、イエス様によって任命され、イエス様が行こうとするすべての町や村に二人ずつ遣わされる72人のことです。イエス様は、72人を遣わすにあたって、「あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである」と言われます。私たちは、イエス・キリストによって遣わされた、使徒的な教会として、週の初めの日ごとに、礼拝をささげています。そのようにして、私たちはイエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。礼拝で語られる説教は説教者個人の業ではなく、教会の業であるのです。教会員は、説教者のために祈り、説教者の言葉に熱心に耳を傾けることによって福音を宣べ伝えているのです。その私たち教会が宣べ伝える福音に、耳を傾ける人は、イエス様に耳を傾ける人であるのです。また、私たち教会が宣べ伝える福音を拒む人は、イエス様を拒む人であるのです。この前提にあるのは、「遣わされた人は、その人を遣わした人自身である」という考え方です。イエス・キリストの教会である私たちは、イエス・キリストに代わって、日本国の埼玉県の羽生の町で、福音を宣べ伝えているのです。

 さらにイエス様は、「私を拒む者は、私をお遣わしになった方を拒むのである」と言われます。イエス様をお遣わしになった方とは、神様のことです。イエス様を拒むことは、神様を拒むことである。それゆえ、イエス様を受け入れないコラジンとベトサイダは、裁きの時に、ティルスやシドンよりも重い罰を受けることになるのです。また、カファルナウムは、陰府にまで落とされることになるのです。イエス・キリストの力ある業の恩恵にあずかっておりながら、罪人の救い主であるイエス・キリストを受け入れない町の人々は、より厳しい裁きを受けることになるのです。

 イエス様が遣わした弟子たちを拒む者は、イエス様を拒む者である。イエス様を拒む者は、イエス様を遣わした神様を拒む者である。それゆえ、イエス様は、弟子たちを迎え入れない町について、12節で、こう言われます。「言っておくが、かの日には、その町よりもソドムのほうがまだ軽い罰で済む」。このイエス様の御言葉は、弟子たちに言われた言葉であって、弟子たちを迎え入れない町の人々に対して語るようにと命じられた言葉ではありません。コラジンとベトサイダについての言葉も同じです。イエス様は、コラジンの人々、ベトサイダの人々に対して語ったのではなくて、弟子たちに語られたのです。カファルナウムについての言葉も、カファルナウムの人々に対してではなく、弟子たちに語られたのです。イエス様の弟子を拒むことはイエス様を拒むことであり、イエス様を拒むことは神様を拒むことであるゆえに、重い罰を招くことになる。このことは、町の人々に宣べ伝えるべきことではなく、福音を宣べ伝える私たちが知っておくべきことであるのです。イエス・キリストを受け入れる人はすべての罪を赦されて、永遠の命を与えられます(ヨハネ5:24参照)。しかし、イエス・キリストを拒む人は、自分の罪のゆえに永遠の死を死ぬことになるのです(ヨハネ8:24参照)。イエス・キリストを受け入れるか、拒むかに、人間の永遠の救いがかかっているのです(ここに神の国を告げ知らせることの重大性と緊急性がある)。私たちは、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じることに、人間の永遠の救いがかかっていることを知っている者として、「ああ、羽生、ああ、行田、ああ、加須」と呻きながらイエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。 

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