72人を遣わすイエス 2025年9月21日(日曜 朝の礼拝)

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72人を遣わすイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、ご自分が行こうとするすべての町や村に二人ずつ先にお遣わしになった。
10:2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
10:3 行きなさい。私があなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り込むようなものである。
10:4 財布も袋も履物も持って行くな。誰にも道で挨拶をするな。
10:5 どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
10:6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る。
10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である。家から家へと渡り歩くな。
10:8 どの町に入っても、迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい。
10:9 そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10:10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、大通りに出てこう言いなさい。
10:11 『足に付いたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことは知っておけ。』
10:12 言っておくが、かの日には、その町よりソドムのほうがまだ軽い罰で済む。」ルカによる福音書 10章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第10章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行こうとするすべての町や村に二人ずつ先にお遣わしになった」と記されています。「その後(のち)」とありますが、これは「イエス様がエルサレムに向かうことを決意されて、弟子たちに神の国の重大性と緊急性を教えられた後(のち)」ということです。主イエスは72人を弟子の中から任命し、ご自分が行こうとするすべての町や村に二人ずつ先にお遣わしになります。第8章で、イエス様は一人で、神の国を宣べ伝えました。第9章では、イエス様は12人をお遣わしになりました。第10章では、イエス様は72人をお遣わしになるのです。このようにして、福音宣教が拡大しているのです。72人は二つのことを象徴しています。12人がイスラエルの12部族を象徴していたように、72人も象徴的な意味をもっているのです。72人は地上の諸国民を象徴しています。『創世記』の第10章に「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図」が記されています。そこには、ノアの息子の氏族として72の名が記されています(七十人訳参照)。洪水の後(のち)、地上の諸国民はノアの子孫の72の氏族から分かれ出たのです(創世10:32「以上が、国ごとの系図によるノアの息子の氏族である。洪水の後、地上の諸国民は彼らから分かれ出た」参照)。それゆえ、72人は地上の諸国民を象徴しているのです。また、72人は、神の霊である聖霊を与えられた者たちを象徴しています。『民数記』の第11章に、モーセの負担を軽くするために、主がモーセの上にある霊の一部を72人の長老たちに分け与えたことが記されています。それゆえ、72人は聖霊を与えられた者たちを象徴しているのです。このように、イエス様が72人を遣わされることは、天に昇られたイエス様が地上の諸国民の弟子たちに聖霊を注いで、福音宣教に遣わすことの先取りであるのです。ですから、私たちは、72人に自分たちのことを重ねて読むことができるし、また読むべきであるのです。「ご自分が行こうとするすべての町や村に」とありますが、イエス様はご自分に代わって、私たちを羽生の町に遣わしておられるのです。

 「主はほかに七十二人を任命し」とありますが、この「ほかに」は、「12人のほかに」ではなく、第9章52節の「サマリアの村に遣わされた使いの者たちのほかに」であります。つまり、72人の中に12人も含まれているのです。最後の晩餐の席において、イエス様は使徒たちにこう言われます。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたときに、何か不足したものがあったか」(ルカ22:35)。イエス様が財布も袋も履物も持たさずに弟子たちを遣わしたのは、12人を遣わした時ではなく、72人を遣わした時でした(ルカ10:4参照)。よって、12人も72人の中に含まれていたのです。

 イエス様は、72人を二人ずつお遣わしになりました。このことは、弟子たちが励まし合い、助け合うためであったと思います(コヘレト4:9、10「一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる」参照)。また、イエス様が弟子たちを二人ずつお遣わしになったのは、「二人または三人の一致した証言は真実である」とされていたからです(申命19:15「人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」参照)。イエス様は、ご自分において到来した神の国を証言する者として72人を二人ずつお遣わしになるのです。

 イエス様は、72人を遣わすにあたって、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われます。ここでの収穫とは、「イエス様を信じて、神の国の祝福にあずかる人」のことです。「収穫は多い」。これは、イエス様からの励ましの言葉です。イエス様は、今朝、私たちにも「収穫は多い」と言われるのです。私たちは「収穫は少ない」と考えてしまうのですが、イエス様は、「収穫は多い」と言われるのです。むしろ、少ないのは、「働き手」であるのです。それゆえ、イエス様は、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言うのです。この御言葉は、収穫のために働きに出ていく、弟子たちに語られた御言葉です。弟子たちは、収穫のために働きながら、収穫の主である神様に、働き手を送ってくださるよう願いなさいと言われているのです。私たちの教会は小さな群れですが、収穫のために働いています。そして、この群れに新しい人が加わることによって、働き人が加えられることを願い求めているのです。

 イエス様は、「行きなさい。私があなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り込むようなものである」と言われます。狼の群れの中に、小羊を送り込んだらどうなるか。食べられてしまいますね。そのような覚悟をもって行きなさいと、イエス様は言われるのです。そうであれば、よく準備を整えて行くべきであると思うのですが、イエス様は、「財布も袋も履物も持って行くな」と言われます。これは、前回学んだように、「神の国の重大性と緊急性」のゆえであります。また、イエス様がこのように言われるのは、当時、紀元1世紀のユダヤ社会において、旅人をもてなす習慣があったからです。イエス様は弟子たちに、人々からのもてなしを期待して、さらに言えば、収穫の主である神様を信頼して、「財布も袋も履物も持って行くな」と言われるのです。

 また、イエス様は、「誰にも道で挨拶するな」と言われます。当時の挨拶には世間話が伴い時間を取られました。イエス様は「神の国の重大性と緊急性」のゆえに、「誰にも道で挨拶するな」と言うのです(列王下4:29「誰かに会っても挨拶してはならない。誰かが挨拶しても答えてはならない」参照)

 イエス様は、福音宣教の拠点となる家についてこう言われます。「どんな家に入っても、まず『この家に平和があるように』と言いなさい」。「平和があるように」(ヘブライ語のシャローム)は、ユダヤ人の挨拶の言葉です。イエス様は、「誰にも道で挨拶をするな」と言われましたが、家に入って、はじめて挨拶するように言われます。「この家に平和があるように」。これは挨拶の言葉でありますが、イエス様の弟子たちが語るとき、深い意味を持ちます。弟子たちは、イエス様から遣わされた者たちとして、神の平和、神のシャロームをもたらすのです。イエス様は、「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る」と言われます。「平和の子」とは、神の平和をもたらす弟子たちを受け入れる人のことです。平和の子がいれば、弟子たちは安心して滞在することができるわけです。しかし、平和の子がいなければ、神の平和は弟子たちのもとに戻って来るのです。神の平和が地に落ちること、無駄になることはないのです。弟子たちがもたらす神の平和は、受け入れない人がいても、損なわれることはないのです。

 イエス様は、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われます。ここで思い起こしたいことは、初代教会が家の教会であったということです。初代教会は、信徒の家に集まって礼拝をささげていました。例えば、『使徒言行録』の第16章を読むと、パウロがリディアの家を拠点にして、フィリピで福音宣教をしたことが記されています(使徒16:15、40参照)。家は教会でもあるわけですから、そこで出される食べ物や飲み物は、施しではなく、働いた者に対する報酬であるのです。「働く者が報酬を受けるのは当然である」。この御言葉は、どのような働き(仕事)にも当てはまりますが、福音を宣べ伝えるという牧師の働き(仕事)にも当てはまります。使徒パウロは、『テモテへの手紙一』の第5章17節と18節でこう記しています。

 よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の尊敬に値すると心得なさい。聖書がこう言っているからです。「脱穀している牛に、口籠(くつこ)をはめてはならない」、また「働く者はその報酬を受けるに値する。」

 パウロは、主イエスの御言葉、「働く者はその報酬を受けるに値する」という御言葉を引用しています。御言葉と教えのために労苦している長老たち(宣教長老である牧師)は、二倍の尊敬(十分な報酬)を受けるに値することを心得るようにと言うのです(一コリント9:13と14「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人は神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人は祭壇の供え物にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと、命じられたのです」参照)。

 イエス様は、「家から家へと渡り歩くな」と言われます。私は、このイエス様の御言葉には二つの解釈があると思います。一つは、「働く者が報酬を受けるのは当然なのだから、肩身の狭い思いを抱いて、家から家へと渡り歩くな」という解釈です。もう一つは、「より良い報酬を得ようとして、家から家へと渡り歩くな」という解釈です。

 イエス様は、「どの町に入っても、迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい」と言われます。この「どの町」には、ユダヤ人ではない外国人、異邦人の町が含まれていると読むことができます。ユダヤ人は、食物規定に従って、外国人とは食事を共にしませんでした。それは、食べ物の中にユダヤ人が食べることを禁じられた汚れた物が含まれている恐れがあるからです(レビ記11章参照)。しかし、イエス様は、「どの町に入っても、その町が異邦人の町であっても、迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい」と言うのです。このように解釈すると、イエス様は弟子たちに対して、食物規定を廃棄されたと読むことができるのです(使徒10章参照)。また、イエス様はこう言われます。「そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。イエス様は、ご自分の名によって、病人を癒やすように命じられます。なぜなら、イエス様の御名による病人の癒やしは、イエス様の御名において、神の国、神の王国、神の王的な支配が来ていることのしるしであるからです。イエス様の名によって病人を癒やす弟子たちにおいて、「神の国はあなたがたに近づいた」「神の国はあなたがたのもとに来ている」のです。町の人々に求められることは、この弟子たちの証言、証しを受け入れることだけであるのです。

 しかし、弟子たちを受け入れない町があることも想定されます。そのようなことを想定して、イエス様はこう言われます。「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、大通りに出てこう言いなさい。『足に付いたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことは知っておけ。』」。足に付いた町の埃を払い落とすとは、その町とは何も共有するものはないという絶交状態、絶縁状態を表します。しかし、町の人々がイエス様の弟子たちを受け入れなくても、イエス様において、また、その弟子たちにおいて、神の国が到来していることに変わりはないのです。イエス・キリストにおいて神の国は到来した。イエス・キリストを信じる人は、神の恵みと命の支配にあずかることができるという福音は、受け入れない人がいても変わらない「良き知らせ」であるのです。私たちが宣べ伝えているイエス・キリストの福音は、受け入れない人がいても、絶大な価値と力を持っているのです。また、受け入れない人がいても、イエス・キリストの御名によって二人または三人が集っている礼拝において、神の国は確かに到来しているのです。

 イエス様は、「言っておくが、かの日には、その町よりソドムのほうがまだ軽い罰で済む」と言われます。これは、町の人々から迎え入れられない弟子たちに言われた言葉です。ソドムの滅亡については、『創世記』の第19章に記されています。ソドムの町の人々は、主の御使いを迎え入れませんでした。迎え入れるどころか、暴力によって辱めようとしたのです。そのようなソドムの町を、主は天から硫黄と火を降らせ、滅ぼしました。イエス様は、ご自分の弟子たちを迎え入れない町は、そのソドムよりも重い罰を受けることになると言われるのです。主イエス・キリストによって遣わされた使徒的な教会である私たちは、主の御使いよりも大きい者であるからです(ニケア信条「私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます」参照)。これは、私たちを遣わされたイエス様が神の御子であり、天使よりも大いなる者であるからです(ヘブライ1:5~14参照)。神の御子であるイエス・キリストから遣わされている使徒的な教会である私たちは、天使よりも大いなる者である。それゆえ、私たちを受け入れない町はソドムよりも重い罰を受けることになるのです。そのような重い罰を受ける人がないように、私たちは、神の国がイエス・キリストにおいて到来していることを、主の日の礼拝ごとに、証ししていきたいと願います。

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