神の国の重大性と緊急性 2025年9月14日(日曜 朝の礼拝)

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神の国の重大性と緊急性

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章57節~62節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに、「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9:59 そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」
9:61 また別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。」
9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
ルカによる福音書 9章57節~62節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第9章57節から62節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 57節に、「彼らが道を進んで行くと」とあります。この道は、イエス様が苦難の死を遂げられるエルサレムへの道であります。イエス様は、「あなたは神のメシアです」と告白した弟子たちに対して、御自分がどのようなメシアであるかを教えられました。第9章22節で、イエス様はこう言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。「長老、祭司長、律法学者たち」とは、エルサレムの最高法院の議員たちのことです。イエス様は、御自分がエルサレムの最高法院によって排斥され殺されて、三日目に復活することになっていると言われたのです。イエス様は、そのエルサレムへの道を進んでおられるのです。前回学んだ第9章51節にこう記されていました。「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された」。ここで「決意された」と訳されている言葉は、「顔を固定した」とも訳すことができます。イエス様は、苦難の死を遂げるために、エルサレムに顔を固定して進まれるのです。そのイエス様に、ある人がこう言ます。「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」。すると、イエス様はこう言われます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。「人の子」とはイエス様ご自身のことです。イエス様は、エルサレムに向かって旅をしておられます。そのイエス様には、定まった枕する所もないのです。前回、私たちは、サマリア人がイエス様を受け入れなかったこと。それで、イエス様一行は別の村に行ったことを学びました。イエス様一行の枕する所はその日その日によって異なるのです。このイエス様のお答えから判断すると、ある人は、イエス様に従うことを立身出世の道と考えていたようです。弟子たちと同じように、ある人もイエス様に従うことによって偉い者になれるのではないかと考えていたようです(ルカ9:46~48参照)。そのようなある人に、イエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。あなたにそのような覚悟があるか」と言われるのです。

 イエス様は、「人の子には枕する所もない」と言われました。しかし、『ヨハネによる福音書』は、人の子が枕する所は十字架の上であると記しています。「枕する所」と訳されている言葉は、直訳すると「頭を傾ける所」となります。『ヨハネによる福音書』は、十字架の上で息を引き取られたイエス様が、頭を傾けられたと記しているのです。聖書を開いて確認します。『ヨハネによる福音書』の第19章30節です。新約の203ページです。

 イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 「頭を垂れて」と訳されている言葉は、「頭を傾けて」とも訳すことができます。「人の子には枕する所もない」と言われたイエス様が本当に安心して、頭を傾けることができた所、それは十字架の上であったのです。イエス様は、神の救いを成し遂げられて、安心して、頭を傾けて、霊を吐き出されたのです。『ルカによる福音書』によれば、イエス様は、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言って、霊を吐き出されたのです(ルカ23:46)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の123ページです。

 イエス様は別の人に、「私に従いなさい」と言われます。先程は、ある人の方から「あなたに従います」と申し出ましたが、ここではイエス様の方から「私に従いなさい」と言われます。しかし、この人はこう言います。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」。この人は、イエス様のことを「主」と呼んでいますから、イエス様に従う用意があるようです。しかし、この人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と留保するのです(「留保」とは「すぐにそうしないで、一時さしひかえること」の意味)。「主よ、父を葬った後で、あなたに従います」と言うのです。父を葬ることは、イスラエルの民にとって、聖なる義務でありました(出エジプト20:12「あなたの父と母を敬いなさい」参照)。ですから、当然、この人はイエス様が許してくれると思ったはずです。「分かった。では、父を葬った後で、私に従いなさい」というイエス様の答えを期待していたはずです。しかし、イエス様はこう言われます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。ここでの「死んでいる者たち」とは、イエス様に従おうとしない者たち、神様との関係において、霊的に死んでいる者たちのことです。イエス様は、第15章で、有名な「いなくなった息子のたとえ」(放蕩息子のたとえ)をお語りになります。そこで、父親は帰って来た弟息子の首を抱き、こう言うのです。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15:22〜24)。父親にとって、いなくなって交わりが途絶えていた息子は、死んだも同然であったのです。それと同じように、神様がメシア(救い主)として遣わされたイエス・キリストに従わない人たちは、神様との交わりが途絶えているゆえに、神様にとって死んだも同然であるのです(エフェソ2:1、2「さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです」参照)。ですから、イエス様は、「私に従わない、霊的に死んでいる者たちに、肉体の死を遂げた死者を葬らせなさい」と言われたのです。そして、この人には、「しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」と言われるのです。イエス様は、この人に、父親を葬ることよりも、ご自分において到来している神の国(神の王国、神の王的支配)を告げ知らせるようにお命じになるのです。このことは、神の国を告げ知らせることが、どれほど重大であり、緊急を要するかを教えているのです。

 また、別の人がイエス様にこう言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」。この人も、最初の人のように、自分から「あなたに従います」と申し出ます。そして、2番目の人のように、「しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と留保するのです(「留保」とは「すぐにそうしないで、一時さしひかえること」の意味)。この人の発言の背景には、エリヤに従ったエリシャの言葉があります。聖書を開いて確認します。『列王記上』の第19章です。旧約の553ページ。第19章19節から21節までを読みます。

 エリヤはそこを去って行くと、シャファトの子エリシャがいるのを見かけた。エリシャは12軛の牛を前に畑を耕していたが、彼は12番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げかけた。するとエリシャは、牛を打ち捨て、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と答えた。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を引いて来て屠り、牛の軛を燃やしてその肉を調理し、人々に振る舞って食べさせた。それから、直ちにエリヤに従い、彼に仕えた。

 エリシャは、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言いました。エリシャは、エリヤに従うにあたって、留保するわけです。そして、その留保をエリヤは受け入れるのです。エリシャは父と母との別れの食事をしてから、エリヤに従ったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の123ページです。

 別の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言いました。これは今、確認したとおり、エリシャの言葉を背景にしています。そして、エリヤはそのエリシャの留保を許したのです。では、イエス様はどうでしょうか。イエス様はこう言われます。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」。イエス様は、この人が家の者たちに別れを告げることを許さなかったのです。それは、エリヤに従うよりも、イエス様に従うことの方が重大であり、緊急を要するからです。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」。「鋤」とは「土地を掘り起こす農具」のことです。鋤はスコップのような形状をしており、土に深く差し込み、テコの原理を使って畑を耕します。鋤に手をかけた人は前を見て、前に進んで土地を耕すのです。もし、後ろを振り返るならば、その手は止まってしまいます。イエス様に従って、神の国のために働く者もこれと同じであると言うのです。私たちは、それぞれの人生において、神様が定めたときに、信仰を言い表し、洗礼を受けました。幼児洗礼を受けた方でしたら、神様が定められたときに、信仰を言い表したわけです。それは、鋤に手をかけたということです。神の国のために働く者として、私たちは鋤に手をかけたのです。しかし、私たちは、しばしば後ろを振り返るのではないでしょうか。イエス様を神の御子、罪人の救い主と信じて、洗礼を受けたけれども、これでよかったのだろうか。そのように後ろを振り返るのです。そのような私たちに、イエス様は「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われるのです。これは、私たちを裁くための御言葉ではありません。鋤に手をかけてから、後ろを振り返ってしまう私たちに対する励ましの言葉です。「後ろを振り返らず、イエス・キリストだけを見つめて、神の国のために働きなさい」という励ましの言葉であるのです(フィリピ3:13、14「きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」参照)。

 今朝の御言葉には、三人の人が出てきましたが、この後どうしたのかは記されていません。最初の人は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」というイエス様の言葉を聞いて、どうしたのでしょうか。イエス様に従ったのでしょうか。それとも、従わなかったのでしょうか。また、2番目の人は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」というイエス様の言葉を聞いて、どうしたのでしょうか。イエス様に従ったのでしょうか。それとも、従わなかったのでしょうか。また、最後の人は、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」というイエス様の言葉を聞いて、どうしたのでしょうか。イエス様に従ったのでしょうか。それとも、従わなかったのでしょうか。福音書記者ルカはそのことを記していません。それは、私たち一人一人が自分のこととして考えるべきことであるからです。ここにいる多くの人は、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じて、洗礼を受けた者たち、信仰を言い表した者たちであります。そうであれば、私たちは、今すでに、イエス・キリストに従う弟子として歩んでいるのです。その弟子である私たちに、イエス様は今朝改めて、弟子としての覚悟を求められるのです。「鋤に手をかけたからには、後ろを振り向かずに、神の国のために働きなさい」と私たちを励ましてくださるのです。使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第3章で、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と語りました(一コリント3:9)。神の国の中心的な現れはキリストの教会であり、教会は神の畑であるのです。その神の畑である教会を耕す者として、私たちは鋤に手をかけたのです。ですから、私たちは、後ろを振り返ることをせず、前を見て、神の畑である教会のために働きたいと思います。神様は、その私たちの働きを用いて、神の畑である教会を成長させてくださるのです。「パウロが植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」とあるように、神様はイエス様に従う私たちの働きを用いて、教会を成長させてくださるのです(一コリント3:6)。神様が、主の日ごとの礼拝を主催してくださり、私たちを招いてくださり、主イエス・キリストにおいて到来した神の国に生かしてくださるのです。今朝の説教題を「神の国の重大性と緊急性」としました。それは言い換えれば「礼拝の重大性と緊急性」と言えます。キリストの弟子である私たちにとって、主の日ごとの礼拝は、「不要不急の外出」では決してないのです。

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